芥川龍之介年表*作家【前期】時代

作家前期時代(大正8年4月〜10年7月)

西暦
日付
出 来 事
作 品
1919(大8) 27 4月
3日

15日


28日




5月
1日


4日


11日


25日


6月
1日


10日


15日


20日


22日

24日


28日


30日

7月
1日


上旬


13日
ごろ


29日

8月
8日


13日

23日


9月
1日


10日

11日

12日


15日


17日


22日


25日


10月
1日


3日


7日


21日



27日


29日


11月
1日

10日

23日

24日


12月
5日




6日

11日

17日



「蜜柑」を脱稿。


「きりしとほろ上人伝」脱稿。


鎌倉を引き払い、田端の自宅へ戻る。
二階の書斎に「我鬼窟」と掲げ、日曜日を面会日とした。
 *文壇の中心である東京にいなければ取り残されると思ったためであったが、晩年には文子に鎌倉を出たのは間違いだったと語ったという。


「きりしとほろ上人伝(後篇)」(『新思潮』)、「私の出遇った事」(『新潮』、後「蜜柑」、「沼地」に改題。)を発表。


菊地と共に長崎へ出発。(18日帰宅。)


大阪毎日新聞社に寄り、入社の挨拶をする。
*長崎の地では斎藤茂吉を訪ね、以後親交を持った。


「路上 一」を脱稿




室生犀星が来訪。『第二愛の詩集』を貰う。


神田の西洋料理店ミカドで行われた「十日会」に初めて出席。秀しげ子を知る。


「路上」の筆が進まず、頭を悩ませる。
*18日付南部修太郎宛書簡に「路上更に捗取らず」とある。


「疑惑」を起筆。
『羅生門』(再刊本)刊行。


帝劇での『赤い鳥』の音楽界へ行く。が、練習不足で危なっかしく、主催者の鈴木だけが得意顔であった。


「疑惑」を脱稿。


「小説の読み方」と題して、東京高等工業学校で初めて講演をする。


「路上」(大阪毎日新聞』)の連載を開始。全36回(8/8まで)未完中絶。


「疑惑」(『中央公論』)を発表。


「路上」に手間取り泣菫に30日で打ち切りたい旨を伝える。


中国派遣の話が出るか?
*30日付泣菫宛書簡に「小生は支那旅行をしない限り」とある。


佐佐木茂索の「おぢいさんとおばあさん」を読んで激賞し、大正9年1月号『新小説』発表の労を取る。


「路上」連載中止。


「じゅりあの・吉助」を脱稿。


風邪のため、金沢八景の田中病院に入院。入院中に「妖婆」起筆。未完のまま、「前篇」として発表。


「じゅりあの・吉助」(『新小説』)、「妖婆 前篇」(『中央公論』)を発表。


「十日会」に出席し、秀しげ子に会うか?夜、眠れない。(「我鬼窟目録」より)


「妖婆続篇」を起筆。


「愁人」秀しげ子を思う。(「我鬼窟目録」より)


初めて、しげ子とふたりだけで会い、夜帰宅。「心緒乱れて止まず」。(「我鬼窟目録」より)


しきりに「愁人」を想う。「不忍池の夜色愁人を憶はしむることなり」。(「我鬼窟目録」より)


深夜「妖婆続篇」を脱稿。その後「臥榻に横はつて頻に愁人を憶ふ」。(「我鬼窟目録」より)


午後、院展、二科展に行く。しげ子と再会し、夜帰宅するが一種失望感を得る。




「妖婆続篇」(『中央公論』)を発表。


犀星より『愛の詩集』を贈られ、お礼に詩「愛の詩集」を書く。

「芸術その他」を脱稿。


しげ子のことが家人にばれぬよう、封書の表書きを佐佐木に依頼。
*書簡に「君に封筒を書いて貰つた札や何かあつたから」とある。


小島宛書簡のなかで不振の年であったことを自認している。
*「どうも今年の創作生活は新年から調子が狂つてゐた」とある。


また、表書きを佐佐木に依頼。




「芸術その他」(『新潮』)を発表。


「魔術」を脱稿。


洋画家の小穴隆一が初めて来訪。以後親交を結ぶ。


「鼠小僧次郎吉」を起筆。




「大正八年度の文芸界」(『毎日年鑑』)を発表。
*単に大正八年というだけでなく、大正全期の文芸界見取り図評論として重要。


「鼠小僧次郎吉」を脱稿。


「葱」を脱稿。


「舞踏会」、「尾生の信」、「漱石山房の秋」など脱稿。













「きりしとほろ上人伝後篇」 「私の出遇った事」
























『羅生門』(再刊本)












「路上」



「疑惑」
























「じゅりあの・吉助 」、「妖婆」





























「妖婆続篇」






















「芸術その他」












「大正八年度の文芸界」
1920(大9) 28 1月
1日



28日


3月


7日


16日

27日

4月
1日


9日



10日



17日

21日



5月
1日





6月
22日


7月
1日


2日



14日

15日

17日

20日



8月
1日


2日


9月
1日

20日


10月
1日



9日


23日


11月
1日

22日


23日


24日


12月
6日


9日



「鼠小僧次郎吉」(『中央公論』)、「舞踏会」(『新潮』)、「葱」(『新小説』)、「魔術」(『赤い鳥』)、「尾生の信」(『中央文学』)を発表。

第四短編集『影燈籠』(春陽堂)を刊行。17編収録。
*前作『傀儡師』からの前進は見られず、中だるみの作品集といえる。


この頃、「秋」執筆のために文子から紹介された平松麻素子と初めて会う。

森幸枝、初めて来訪。


敏三の一周忌。「秋」を脱稿。
*作風の転換を図ろうとした作品ゆえに異常に字句にこだわった。

「素戔嗚尊」の執筆に苦しむ。
「黒衣聖母」を脱稿。


「秋」(『中央公論』)を発表。


「秋」の出来に自信を持ち始める。
*13日付南部宛書簡に「実際僕は一つ難関を透過したよ」ある。


長男・比呂志誕生。(出生届は3月30日生まれ)菊池を名づけ親とする。
*28日付恒藤宛書簡に「赤ん坊が出来ると人間は妙に腰が据るね 赤ん坊の出来ない内は一人前の人間ぢゃないね」とある。


「或敵打の話」を脱稿。


叔母で実母の後妻であったフユ死去。享年57歳。




「黒衣聖母」(『文章倶楽部』)、「或敵打の話」(『雄弁』)、「女」(『解放』)を発表。


この頃、上野の清凌亭で仲居をしていた佐多稲子(当時15歳)を知る。


「南京の基督」を脱稿。



「南京の基督」(『中央公論』)、「杜子春」(『赤い鳥』)を発表。

恒藤から、長男死去の報を得、家中で泣く。
*3日恒藤宛書簡に「比呂志を見てこいつに死なれたらと思ふと君たちの心もちも可成わかるやうな気がする」とある。


「影」を脱稿。


南部の「南京の基督」評に対し、抗議の手紙を送る。


再度、南部に抗議の手紙を書く。


「捨子」を脱稿。




「捨子」(『新潮』)に発表。


宮城県の青根温泉に避暑に行く(28日まで)。しかし執筆は進まなかった。


「影」(『改造』)を発表。


小穴に河童の絵を書いて送る。




「お律と子等と」(『中央公論』)に発表。「二」までの脱稿は9月20日頃。


慶応大学で行われた講演会で「文芸雑感」と題し、講演する。


「お律と子等と」を脱稿。




「お律と子等と後篇」(『中央公論』)を発表。


時雨の中、宇野浩二と京都で遊ぶ。


夜、宇野なじみの芸者ゆめ子に会う。この日は下諏訪に泊まる。


佐佐木に、宇野と二人が諏訪にいることを公表しないよう依頼。




「秋山図」の改稿を滝井孝作に送る。


「秋山図」、「アグニの神」を脱稿。

「鼠小僧次郎吉」「舞踏会」、「葱」「魔術」   「尾生の信」 『影燈籠』















「秋」




















「黒衣聖母」「或敵打の話」「女」









「南京の基督」
「杜子春」



















「捨子」






「影」



「お律と子等と」















「お律と子等と後篇」
1921(大10) 29 1月
1日



5日


29日


2月
5日

16日


22日



27日


3月
2日



4日




9日


14日


19日


20日

27日


30日

31日


4月
1日


23日


26日


5月
2日


3日


8日


9日


10日

11日


12日

14日

17日

19日


22日

23日


24日

26日


29日


6月
1日


6日

10日


11日


7月
10日


12日

20日

「秋山図」(『改造』)、「山鴫」(『中央公論』)、「妙な話」(『現代』)、「アグニの神」(『赤い鳥』)を発表。


「奇妙な再会」(『大阪毎日新聞』2月2日まで)を連載。全17回。


「奇妙な再会」脱稿。



東大構内で「短編作家としてのポオ」と題して講演する。


「夜来の花附記」を脱稿。


在阪中、大阪毎日新聞社において、海外視察員として中国特派が提案され、承諾する。
*3月4日付宮本勢助宛書簡に「小生本月中旬支那へ参る事と相成居候」とある。


「往生絵巻」を脱稿。



泣菫に旅行費用などの確認の手紙を出す。
*「次の件御尋ねします」と五件の問い合わせをしている。


小穴に『夜来の花』装丁についての不満を述べる。
*書簡に「唯一つあきらめきれぬのは見返しに和紙を使はなかつた事です」などとある。


中国派遣旅行送別会が行われる。計16名参加。菊地らがスピーチした。


『夜来の花』が新潮社より刊行。収録は「杜子春」など15篇。


午後5時半東京発の列車で、中国旅行へ出発。


車中で発熱。大阪で下車し泣菫と相談の上、社近くの北川旅館で療養。


大阪を発ち、門司から筑後丸に乗船、上海へ向かう。


上海へ到着。トーマス・ジョーンズらの出迎えを受け食事後、万歳に宿泊。


感冒が全快していなかったため、床につく。



「往生絵巻」(『国粋』)、「奇遇」(『中央公論』)を発表。
乾性結膜炎と診断され、里見病院に入院。


退院。(費用は300円)


鄭孝胥(清朝の貴臣。後の満州国総理)、章炳麟と会談する。



上海から杭州西湖見物に出かける。


霊隠寺を詣でる。


上海を出発。蘇州に到着。


初めてロバに乗り、北寺の九重塔、道教寺院玄妙観、孔子廟を見物。


ロバに乗り、天平山白雲寺、霊厳山霊厳寺へ行く。


深夜蘇州を出発、早朝に揚州に到着。


鎮江から南京に到着。南京では、比呂志の初節句に祝いの着物を買った。


南京から上海に戻る。


風陽丸で蕪湖(ウーフー)に向けて出発。


到着。


九江に到着。日本画家竹内栖鳳、と息子と親しくなる。


竹内氏一行と盧山へ登り、山頂の大元洋行支店に宿泊。


盧山を出発、漢口に向かう。


到着。


長沙に出かけて洞庭湖が濁っていることにショックを受ける。



長沙から漢口に戻る。


夜、漢口から列車で洛陽に向かう。


洛陽で龍門を見物し、感動する。


北京到着。(7月10日位まで)日本人経営の扶桑館に滞在。北京在住であった山本にも会う。
北京にはあらゆる手に好感を持った。
*「北京には2.3年住みたい」と繰り返している。


北京から天津へ行く。


暑さが厳しいのと胃腸が弱いのとで、夜天津から南満州鉄道に乗り、瀋陽、朝鮮の釜山経由で帰国する。


自宅に戻る。帰京途中に新聞社に帰国の報告をする。

「秋山図」、「山鴫」「妙な話]「アグニの神」
「奇妙な再会」



































『夜来の花』





















「往生絵巻」 「奇遇」
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