芥川龍之介年表*年少時代

年少時代(明治25〜38年3月)

西暦
日付
出 来 事
作品
1892
(明25)
3月 1日








10月 25日
東京市京橋区入船町8丁目1番地に新原敏三(当時42)とフク(当時32)の長男として誕生。
辰年辰月辰日辰刻にちなんで「龍之介」と命名される。
ハツヒサの二姉があったが、長姉は龍之介誕生前に夭折していた。
敏三は、牛乳搾取販売業「耕牧舎」本店の経営者。
両親ともに厄年での子であったため、風習に従って教会前に「捨て子」として置かれた。拾い親は松村浅次郎。


母フクが発狂した。そのため、龍之介は母の実家、本所小泉町一五番地の芥川家で養育されることになった。
芥川家はもと徳川家御奥坊主の家柄の旧家。
フクの兄芥川道章と妻ののほかに伯母のフキがおり、龍之介の面倒をみた。
道章は、東京府土木課長を勤めていた。
なし
1893(明26) 10月 このつき入船町にあった「耕牧舎」本店が、芝区新銭座町一六番に牧場を求めて、新築し移住。
龍之介はここを「芝の家」と呼び、芥川家に正式に引き取られた後も交際は絶えなかった。
なし
1894(明27) なし この頃から歌舞伎などに見につれてゆかれる。芥川家は江戸的伝統を色濃く残した家庭であり、一家そろって芝居に出かけることが多かった。 なし
1895(明28) なし 秋にかけて、芥川家が江戸時代からの古屋を改築する。
庭に植えられた蝋梅が特に好きだった。
なし
1896(明29) 1月 9日 午後10時過ぎ、激しい地震が起こる、祖父の代からの女中「てつ」が、分別を失って走り回っていたことを記憶している。地震は九分二三秒続いたらしい。 なし
1897(明30) 4月  江東尋常小学校付属幼稚園に入園。園は回向院の隣。この頃の夢は海軍将校になることだった。 なし
1898(明31) 4月 江東尋常小学校(現・両国少学校)に入学。この頃の夢は洋画家志望に変わっていた。
女中の「てつ」から怪談を聞かされたり、始終友達にいじめられて泣いていた。
なし
1899(明32) 7月 11日

敏三と叔母フユとの間に異母弟の得二が生まれる。


この頃、宇治紫山(一中節の師範)の息子に英語、漢文などを習う。
なし
1900(明33) 5月 31日 北清事変起こる。広小路(両国)の大平という絵草子屋へ出かけ、北清事変の石版刷の戦争画を一枚ずつ買った。 なし
1901(明34) なし この年初めて俳句を作る。
「落葉焚いて葉守りの神を見し夜かな」。
泉鏡花などの現代小説もこの頃読み始める。
なし
1902(明35) 10 3月



4月

6月

11月 28日
この月、同級生らと回覧雑誌『日の出界』を創刊。
「淡水」、「龍雨』などの筆名で寄稿するだけでなく、表紙画やカットも描き、編集も行った。

江東小学校高等科一年に進学。

『日の出界』第三篇を発行する。

実母フクが衰弱のために新原家で死去(享年42)。

*この年、本に対する関心が高まり、草双紙のほかに「西遊記」、「水滸伝」、滝沢馬琴、近松門左衛門などの江戸文学、尾崎紅葉などの硯友社文学、徳富蘆花も読んでいた。
なし
1903(明36) 11 2月


4月 20日
『日の出界』(お伽一束号)を出す。


『日の出界』創刊一周年記念号を出す。


夏、千葉県勝浦の鈴木太郎左衛門方(耕牧舎霊岸島支店にいた者の親戚)に芥川・新原家で訪れる。
 *この頃から神田の古本屋街や大橋図書館・帝国図書館に通って本を読み漁った。
なし
1904(明37) 12 3月 9日


5月 4〜9日

8月

9月
新原家で親族会議がなされ、龍之介を新原家の家督相続人から排除し、芥川フユを敏三の後妻とする相談をした。


東京地方裁判所民事部法廷において、龍之介が推定家家督相続人排除の判決を受ける。

正式に芥川家と養子縁組を結び、養嗣子となった。

叔母フユが新原家に入籍した。
なし
1905(明38) 13 3月 江東尋常小学校高等科三年を修了。
*在学中は成績優秀で二年で修了することもできたが、養子縁組問題のため、一年延期されていた。
なし
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