芥川龍之介人物録*た行

芥川龍之介人物録 * た行


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た 行 人 物 一 覧 表
高野敬録(たかの・けいろく)
高浜虚子(たかはま・きょし)
滝井孝作(たきい・こうさく)
滝沢馬琴(たきざわ・ばきん)
瀧田樗陰(たきた・ちょいん)
竹内逸(たけうち・いつ)
竹内栖鳳(たけうち・せいほう)
竹内顕二(たけうち・けんじ)
太宰治(だざい・おさむ)
谷口喜作(たにぐち・きさく)
谷崎潤一郎(たにざき・じゅんいちろう)
近松門左衛門(ちかまつ・もんざえもん)
塚本鈴(つかもと・すず)
塚本文子(つかもと・ふみこ)
塚本八洲(つかもと・やしま)
土屋文明(つちや・ぶんめい)
恒藤恭(つねとう・きょう)
恒藤雅子(つねとう・まさこ)
鄭孝胥(てい・こうしょ)
徳田秋声(とくだ・しゅうせい)
徳富蘆花(とくとみ・ろか)


高野敬録(たかの・けいろく)
1925(大14)年当時の『中央公論』の編集長。
1927年1月30日宇野宛書簡に「高野さんがやめたのは気の毒だね」とある。
高浜虚子(たかはま・きょし)……1874〜1959
俳人・小説家。愛媛県生まれ。本名は清。二高中退。
芥川の俳句の師。正岡子規の弟子。
明治31年10月柳原極堂が松山で発行していた『ホトトギス』を東京に移し、発行人となる。同38年には漱石の「坊ちゃん」を掲載した。その頃から自身も小説家を志し、「風流懺法」「斑鳩物語」などを書く。
芥川が、虚子に言及したものに「写生論」(大7)、「澄江堂雑記」内「相撲」(大13)、「文芸的な、余りに文芸的な」内の「僕等の散文(昭2)などがある。
滝井孝作(たきい・こうさく)……1894〜1984
小説家・俳人。俳号は折柴。岐阜県生まれ。
河東碧梧桐に師事し、日本派の俳句に打ち込む。
大正8年に時事新報社文芸部記者になっていた孝作は、海軍機関学校を退職することになった芥川の記事を2月取りに行き、知り合った。
これは先輩記者であった菊池が芥川に孝作を紹介させたはからいで、以後芥川の書斎の常連となり、佐佐木茂索・小島政二郎・南部修太郎と並んで「龍門の四天王」と称された。
孝作は芥川家に出入りするようになると、自然田端に移り住み、大正10年には記者を辞めて創作一途の道に入った。
大正10年7月の『人間』に発表した「父」は、志賀に目を通してもらった作品で、大正11年志賀の転居に伴い、彼も居を移した。
芥川賞の選考委員を第一回より務め、文化功労賞を受賞した。
滝沢馬琴(たきざわ・ばきん)……1767〜1848
江戸後期の読本作者。江戸の人。曲亭馬琴。本姓は滝沢。名は興邦(おきくに)。別号、大栄山人・著作堂。
山東京伝に師事して黄表紙「尽用而二分狂言(つかいはたしてにぶきようげん)」を発表。以後、合巻(ごうかん)・読本と盛んに著作。史伝物に特色があり、勧善懲悪の理念と因果応報の道理を雅俗折衷の文体で描いた。
代表作「椿説(ちんせつ)弓張月」「俊寛僧都島物語」「南総里見八犬伝」「近世説美少年録」など。
芥川は小学生時代に、「八犬伝」、「西遊記」、「水滸伝」、馬琴作品、一九作品、近松作品などを愛読し、特に後年には滝沢馬琴を扱った「戯作三昧」を発表するなど、馬琴に非常に興味を持っていた。
芥川自身は「曲亭馬琴さへも彼の勧善懲悪主義(中略)先王の道などを信じてゐなかったと思ってゐる」と述べ、同時代の作家同様、馬琴の視線が「人生の暗澹たること」に向けられていたのではないか、と推測している。
瀧田樗陰(たきた・ちょいん)……1882〜1925
雑誌編集者。本名は哲太郎。秋田県生まれ。東大英文科中退。
在学中から『中央公論』の編集を手伝い、1904年からは正社員となって学業を廃し、編集に打ち込む。
当時の『中央公論』は宗教色が強く売れ行きが悪かったため、瀧田は文芸欄の拡充を主張した。それが採用され小説が掲載されると、売れ行きが増大した。
瀧田の手法は自然主義の作家登用に始まって、鴎外、荷風、漱石、その門下生と幅広い作家を網羅したものであった。その後も新進作家の登用、出世作の掲載を得意とした。そのためここに登場することが作家たちのステータスとなり、名編集長・瀧田に見出された作家たちが文壇を引っ張っていった。芥川もそのひとりであった。
こうして瀧田は『中央公論』を雑誌界の王者に押し上げた。
瀧田と芥川との交流には、芥川が字句に異常にこだわった「秋」の修正をめぐる書簡がある。
竹内逸(たけうち・いつ)……1891〜?
評論家。本名は逸三。早大中退。栖鳳の息子。
大正中期の国画制作協会の機関誌『制作』に関係し、中井宗太郎を助けて『ドガ及び彼の前後』などを執筆。また小説・雑文にも才を示し、短編集『噴水』などを刊行している。
竹内栖鳳(たけうち・せいほう)……1864〜1942
日本画家。本名は恒吉。京都生まれ。
1900年のパリ万国博覧会に際して、渡欧。ターナー、コローなどの西洋画家の作品からの示唆を受け、「伊太利秋色」「古都の秋」などの異国の風物を主題とした作品を生む。写実に徹しながら、それを抜こうとする清新な感覚に優れた。
代表作に「斑猫」がある。文化勲章受章。
竹内顕二(たけうち・けんじ)……1852〜1924
芥川の叔父。養父・道章の弟。
測量技師であった。
太宰治(だざい・おさむ)……1909〜1948
小説家。青森県生まれ。本名は津島修治。東大仏文学科卒。
芥川と直接の面識はない。が、その自殺には衝撃を受けている。
20歳で自殺未遂、21歳で女性と心中未遂、新聞社入社試験失敗による縊死未遂、初めの妻との心中未遂を起こすなど、破滅を生きた。
再起を図るべく井伏鱒二に師事。「富嶽百景」、「走れメロス」などの佳作を生んだ。
戦後は、いち早く文壇に登場し無頼派と呼ばれた。「ヴィヨンの妻」「斜陽」により、人気作家の地位を築く。
昭和23年には太宰文学の総決算ともいえる「人間失格」を書き、「グッドバイ」連載途中、関係を持っていた山崎富栄と入水心中をし、命を絶った。芥川賞を取ることが夢であったようだが、叶う事はなかった。
谷口喜作(たにぐち・きさく)……1902〜1948
俳人・菓子店主。東京生まれ。
上野広小路にあった菓子店「うさぎや」の店主。甘いものが好きな芥川は、この店の「喜作もなか」が大好物であった。
谷口は俳人としても活躍し、多くの文化人と交流を持つとともに『梅紅』、『碧』などの俳句雑誌に句やエッセイを載せていた。
谷崎潤一郎(たにざき・じゅんいちろう)……1886〜1965
小説家。東京生まれ。東大国文学科中退。
1910年小山内薫らと第二次『新思潮』を創刊。「誕生」「刺青」、「麒麟」など反自然主義的傾向の強い作品を発表し、耽美派の作家として文壇に登場した。
当時『三田文学』を主宰していた永井荷風の激賞を受けた。関西移住後は古典的・日本的美意識を深め、多くの名作を生む。代表作に「卍」「春琴抄」「細雪」など。また「源氏物語」の現代語訳二度も行っている。
芥川と谷崎が面識を得たのは、大正6年6月の『羅生門』出版記念会からである。
昭和2年には、谷崎が『改造』の「饒舌録」で小説の持つ美観ついて、物語が重畳として組み立てられていく際の構造的美観や建築的美しさを説いた。
それに対して、芥川は同誌4月号に「文芸的な、余りに文芸的な」を発表し、「話」らしい話のない小説というものを主張し、谷崎に反駁した。芥川によれば、構成する力が日本人に欠けているということはなく、また小説の素材として生かすのは作家の持つ詩的精神の如何である、という。ここに谷崎と芥川による文学論争が起こる。
芥川の自殺後、谷崎はただちに追悼文を寄せ、感傷的で人懐っこい様子の芥川を回想している。
近松門左衛門(ちかまつ・もんざえもん)……1653〜1724
江戸中期の浄瑠璃・歌舞伎作者。越前の人。本名、杉森信盛。別号、巣林子(そうりんし)。
坂田藤十郎のために脚本を書き、その名演技と相まって上方歌舞伎の全盛を招いた。また、竹本義太夫のために時代物・世話物の浄瑠璃を書き、義太夫節の確立に協力した。
代表作「国性爺合戦(こくせんやかつせん)」「曾根崎心中」「心中天網島(しんじゆうてんのあみじま)」「女殺油地獄(おんなごろしあぶらのじごく)」「傾城仏の原」など。
芥川は、近松の戯曲的テクニックを高く評価していた。「文芸的な、余りに文芸的な」においても「二十二 近松門左衛門」と題され言及がある。
塚本鈴(つかもと・すず)……1881〜1938
芥川の妻文子の母。山本喜誉司の姉。
夫善五郎との間に、文子・八洲の二児をもうける。
善五郎は海軍将校で、日露戦争に参戦。軍艦初瀬の参謀をしていて戦死。夫の没後は、東京の実家山本家に身を寄せた。
塚本文子(つかもと・ふみこ) → 芥川文子(あくたがわ・ふみこ)
塚本八洲(つかもと・やしま)……1903〜1944
芥川の妻文子の弟。長崎県生まれ。
父善五郎が戦死したため、山本家に家族と身を寄せた。喜誉司の縁で1907年に芥川は文子を知るが、同じ頃に八洲とも知り合ったと考えられる。
一高に入学し、将来を期待されたが結核病を患い、没年まで闘病生活を送った。
大正14年に八洲が三度目の喀血をした際には、芥川が下島と塚本家に駆けつけ見舞った。また同年8月28日付書簡では「文子の為にも勉強して早く丈夫におなりなさい」と励ましている。
大正15年に、療養のため鵠沼に移住。この転地が、芥川の鵠沼滞在の契機となった。
「歯車」の「六 飛行機」には八洲を思わせる人物が登場する。
比呂志の妻瑠璃子は、八洲の人柄を穏やかで控えめな人だったと回想する。
土屋文明(つちや・ぶんめい)……1890〜1990
歌人。群馬県生まれ。東大哲学科卒。
中学生の頃から『ホトトギス』を購読、卒業後は伊藤左千夫に師事。その関係で茂吉や古泉千樫などを知る。
伊藤の死後、大正3年に芥川・久米・菊池らが創刊した第三次『新思潮』に参加。主として井出説太郎の筆名で小説を発表する。
歌人としては『アララギ』の創刊に参加。大正6年には選者、昭和5年には編集発行人となる。以後、逝去まで『アララギ』を指導、詩壇を牽引、長老の位置に有り続けた。
処女歌集『ふゆくさ』を刊行した際、芥川は『アララギ』に「僕等第三次『新思潮』の同人中まつ先に一家をなしたものは菊池寛でも、久米正雄でも、山本有三でも、豊島与志雄でもない。「ふゆくさ」の作者土屋文明である。」と書評を寄せている。
恒藤恭(つねとう・きょう)……1888〜1967
法学者。旧姓井川。島根県生まれ。京大法科卒。大学院にも進学。
芥川の一高時代の親友で、芥川は高校時代から生涯を渡って敬愛していた。
1908(明41)年、小説「梅の花」が『都新聞』の懸賞に当選。小説家を目指して上京した。消化不良で自宅療養の後、新聞記者を経て一高へ入学。菊池や久米を知る。芥川と特に親交を持つようになったのは、2年の寮生活で同室になってからである。
その後京大に進学し、大正5年には結婚、恒藤と改姓した。
同志社大教授を経て、京大教授に就任。1933年に退官し、大阪商科大に転任。戦後は、大阪市立大学長を務め、法学者としての第一人者となった。
芥川の三男・也寸志の名は、恒藤の「恭」から取られている。
恒藤雅子(つねとう・まさこ)……1896〜1992
恒藤規隆の長女。東京生まれ。東京女子高等師範学校附属高等女学校卒。
1916年11月、芥川の親友井川恭と結婚。戸籍上、井川が恒藤に入った。
恭との間に二男一女があったが、長男信一は1920(大正9)年に夭折した。芥川は、その知らせを聞いて、雅子に慰めの手紙を送っている。
鄭孝胥(てい・こうしょ)……1860〜1938
中国、清末・満州国の政治家。福建省侯(びんこう)県の人。字(あざな)は蘇戡(そかん)。
清末の立憲運動、鉄道国有化政策に参画。一九二四年以後、宣統帝の教育に当たり、三二年、満州国の国務総理に就任。チョン=シアオシュイ。
徳田秋声(とくだ・しゅうせい)……1871〜1943
小説家。本名は末雄。石川県生まれ。
尾崎紅葉門下として出発し、明治40年代以降の自然主義文学の時代に、「足迹」(明43)などで文名を上げる。大正期に入ると素材を身辺から得、独自の私小説の円熟期を迎えていた。
芥川の時代、既に徳田は既成大家として認知されていた。
実生活におけるふたりの関係は、徳田の遠縁であった岡栄一郎をめぐるトラブルや、『現代日本文芸読本』に徳田の作品を収める際の許諾問題などで、あまり良いものではなかった。
徳富蘆花(とくとみ・ろか)……1868〜1927
小説家。本名は健次郎。熊本県生まれ。同志社大中退。
1887年に上京。兄の興した民友社の記者になり、「国民新聞」を創刊してその外報や海外事情関係を担当、同時に『国民之友』を創刊して史伝や人物論を執筆した。
やがて文学に向かうようになり、明治31年から『国民新聞』に連載された「不如帰」は、蘆花の作家の地位を不動のものとし、尾崎紅葉の「金色夜叉」と並ぶ明治の大ベストセラーとなった。
芥川は、小学生の頃に蘆花の『自然と人間』を何度も読み返し、自然を愛すること、自然の美しさを知ったことを「大導寺信輔の半生」のなかで述べたり、「文芸的な、余りに文芸的な」で国木田独歩の「武蔵野」と比較を行うなど、生涯にわたって関心をもち続けた。
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