芥川龍之介人物録*さ行

芥川龍之介人物録 * さ行


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さ 行 人 物 一 覧 表
細木元三郎(さいき・もとざぶろう)
西条八十(さいじょう・やそ)
斎藤茂吉(さいとう・もちき)
佐佐木房子(ささき・ふさこ)
佐佐木茂索(ささき・もさく)
佐佐木信綱(ささき・のぶつな)
佐多稲子(さた・いねこ)
佐藤春夫(さとう・はるお)
里見ク(さとみ・とん)
山宮允(さんぐう・まこと)
志賀直哉(しが・なおや)
清水昌彦(しみず・まさひこ)
下島勲(しもじま・いさお)
下島行枝(しもじま・ゆきえ)
章炳麟(しょう・へいりん)
菅忠雄(すが・ただお)
菅虎雄(すが・とらお)
杉本わか(すぎもと・わか)
薄田泣菫(すすきだ・きゅうきん)
鈴木三重吉(すずき・みえきち)


細木元三郎(さいき・もとざぶろう)……1860〜1931
芥川の実父・敏三の実弟。
芥川の養母トモの甥桂次郎の娘・ゑいと養子結婚した。
西条八十(さいじょう・やそ)……1892〜1970
詩人。東京生まれ。早大英文科卒。一時東大国文科専科生となった事もある。
大正元年、日夏耿之介らと詩誌『聖杯』(のちに『仮面』)を創刊。大正3年には三木露風主宰の『未来』に参加。『赤い鳥』にも参加し、童謡「かなりあ」を発表。大正8年処女詩集『砂金』刊行。
早大仏文科で教鞭をとる一方、歌謡曲作曲家としても名を成した。
芥川は学生時代『仮面』同人たちと交流。また「大正八年度の文芸界」において西条の名を登場させている。
斎藤茂吉(さいとう・もちき)……1882〜1953
歌人・精神科医。山形県生まれ。東大医学部卒。
医師業を行う中で明治39(1906)年、伊藤左千夫に師事し、左千夫に従って「馬酔木」「アカネ」「アララギ」へと移り、「アララギ」の中心的同人となる。大正2年に伊藤の急逝にあうが、歌集『赤光』を刊行し、一躍脚光を浴びる。
芥川と斎藤がいつ親しくなったという定説はないが、『赤光』は芥川に衝撃をもたらせ、茂吉への関心は強かったはずである。実際の出会いは大正八年の長崎旅行で、永見徳太郎が、茂吉の勤務する県立長崎病院で紹介した事に始まる。大正8年マンネリズムに陥っていた芥川は、茂吉の歌論集『童馬漫語』を読んで、茂吉の作家態度の真剣さ、文章の気品さ、字句に溢れる茂吉の面目に心打たれ、そのエネルギーをバネに「芸術その他」を書いた。『童馬漫語』は「拝見した時ぐづぐづしてはゐられなくな」る程芥川に喝を入れたのである。
芥川の晩年は、苦痛の日々であったが、それを救ったのが下島勲と、茂吉の両医師であった。茂吉は大正15年に神経衰弱と胃病と診断。昭和2年にはヴェロナールとヌマールと投薬した。芥川の最後の来訪は6月2日であった。
茂吉は、歌集を17冊、『柿本人麻呂』『短歌写生の説』などの著書を著し、昭和26年には文化勲章を受けている。
佐佐木房子(ささき・ふさこ)……1897〜1949
小説家。旧姓大橋。東京生まれ。青山学院英文科卒。矯風社勤務。
芸術派系の数少ない女流作家として活躍。
1925年、芥川の媒酌で佐佐木茂索と結婚。人生の哀歓を都会的筆致で描いた。
佐佐木茂索(ささき・もさく)……1894〜1966
小説家・編集者。京都生まれ。 大正5年頃上京、7年に新潮社へ入社し翌年には中央美術に移って編集主幹となる。
そういった中、久米と親しくなった縁で、芥川に師事することになる。大正8年芥川の紹介で「おぢいさんとおばあさん」を『新小説』に発表、作家としてのスタートを切る。小島政二郎・滝井孝作・南部修太郎と合わせて「龍門の四天王」と称された。
大正13年11月には短編集『春の外套』を刊行。芥川が序文を寄せた。序文で芥川は、「たるみない画面の美しさ」、「小面憎い余裕に富んだ」作風と評する。
大正14年には、芥川の媒酌により作家・大橋房子と結婚するが、芥川の体調が悪化する大正15年に房子の父が自殺したため「僕の関係する縁談は悉不幸を齎す」と漏らし、芥川は余計に神経を弱らせた。また、佐佐木は、芥川から体調悪化に関する書簡を数多く送られ、訴えられている。
芥川亡き後は文芸春秋社に入社し、総編集長になって以後はほとんど創作をすることもなく、編集や出版に従事した。
佐佐木信綱(ささき・のぶつな)……1872〜1963
歌人・国文学者。三重県生まれ。東大古典科卒。
父弘綱のあとを継いで1898年に『心の花』を創刊。歌壇の革新を図る。代表歌集に『思草』『豊旗雲』がある。
また『万葉集』の研究を初め、和歌・歌学の史的研究に功績を残す。
佐多稲子(さた・いねこ)……1904〜1998
小説家。本名はイネ。長崎生まれ。一家の没落により上京。小学校も中退。工場等で働く。
芥川との最初の接点は、上野池の端の清凌亭で女中を務めていて、文学好きな稲子が芥川を知っており、芥川が来店した事に始まる。芥川は、料理屋に小説家を知っている少女が居るのを珍しがり、以後菊池・久米・宇野などを連れてしばしば来訪した。しかし、作家たちは決して馴れ馴れしくはなく、稲子自身も畏怖の念で見つめていた。
大正14、結婚に失敗し自殺未遂を起こすが、翌年3月『驢馬』同人たちとの邂逅が、芥川との再会をもたらす。昭和2年7月の夜、堀辰雄から芥川の伝言を聞いて再会。芥川は、稲子にもう一度死にたいとは思わないか?などと尋ねたという。芥川が自殺したのは、それから3日後であった。
芥川の死後、稲子は初めて小説「キャラメル工場から」を発表。プロレタリア文学運動に参加。弾圧後は、総力戦体制下で戦争に参加。敗戦後は、自らの戦争責任を対象化しながら民主主義運動に参加した。
佐藤春夫(さとう・はるお)……1892〜1964
小説家・詩人・評論家。和歌山県生まれ。慶大中退。
中学時代から詩歌を好み「スバル」などに投稿していた。
芥川との出会いは、共に同人誌「星座」を創刊した江口渙の介在による。江口が芥川に「星座」を送ったのである。それを契機に芥川と佐藤は文通を初め、面識を得たのは大正6年4月22日であった。
昭和2年の中旬、芥川が佐藤宅を訪ねてきた。その際佐藤は、芥川の気を楽にさせるために気軽に「しゃべるように書く」とうにしたらどうか、と提案した。すると芥川は「文芸的な、余りに文芸的な」の中で「しゃべる」と「書く」を対比さて問題化しており、佐藤の思いやりは通じなかった。
その夜以降もふたりは何度か会い、「歯車」のタイトルは「東京の夜」、「夜」という芥川案があったのを、佐藤が「歯車」と薦めたものだという。
里見ク(さとみ・とん)……1888〜1983
小説家・随筆家。本名は山内英夫。神奈川県生まれ。東大英文科中退。
兄・有島武郎・有島生馬の影響もあって文学に親しみ、学習院時代から生馬・志賀直哉の強い影響を受けて、明治43年4月『白樺』の創刊に参加。10月に『白樺』に発表した「河岸のかへり」が鏡花の賞賛を受ける。
芥川は里見の作品を評価している。「文芸的な、余りに文芸的な」の中では、複雑な筋の組み立ての出来る作家として里見をあげている。
ふたりの出会いは大正5,6年頃とされ、昭和2年には北日本への講演旅行に共に向かっている。
山宮允(さんぐう・まこと)……1892〜1967
詩人・英文学者。山形県生まれ。
大正元年東大に入学した彼は、共に入学した山本有三と二年入学組の芥川、久米、成瀬、土屋、三年入学の松岡、京大の菊池らと第三次『新思潮』を創刊した。
大正3年2月から毎月1号、計8冊で終刊となる。
その年の夏には、森於莵の英語家庭教師をしていたため、芥川に鴎外を紹介してくれとせがまれ、鴎外宅へ連れて行った。
卒業後は、イエーツやブレイクを紹介し、訳詩及び研究を行った。
志賀直哉(しが・なおや)……1883〜1971
小説家。宮城県生まれ。東大国文科中退。
学習院中等科卒業時に落第し、一級下の武者小路実篤、木下利玄らと親交を持つ事となり、大学中退の年に『白樺』を創刊。創刊号に「網走まで」を発表。
以後、「大津順吉」「清兵衛と瓢箪」「城の崎にて」「小僧の神様」「暗夜行路」などを発表。これらの作品群によって〈小説の神様〉と称され、大正時代を代表する作家となった。
芥川との関係は、志賀に曰く「七年間に七度しか会つた事がなく、手紙の往復も三四度あつたか、なかつたか、未だ友といへない関係だつたが、互に好意は持ち合つて居た」という。そして芥川文学に対しては「仕舞で読者に背負投げを食らはすやうなものがあつた。これは読後の感じからいつても好きでなく、作品の上からいへば損だと思ふ(中略)作者の腹にははつきりある事を何時までも読者に隠し、釣つて行く所は、どうも好きになれなかつた」らしい。しかし芥川は、それを素直に受け入れていたという。しかし「お辞儀」と「大導寺信輔の半生」はよくできていると思ったようだ。
一方、芥川は志賀の文学を「文芸的な、余りに文芸的な」の中で「志賀直哉氏は僕らのうちでも最も純粋な作家――でなければ最も純粋な作家たちの一人である」と記している。しかし、その捉え方は実に鋭い。それは犀星が「芥川氏の生涯の敵は志賀直哉氏の外に、何人の光背も認めなかった。志賀氏の中に抜き身を提げて這入る芥川氏の引返しには、甚だしい疲労の痕があり、容顔蒼みを帯びる辟易があった」と述べているように、芥川にとって志賀の文学に向き合う事が熾烈な精神的戦いであったからであろう。
清水昌彦(しみず・まさひこ)……1892〜1925
芥川の江東小学校・府立三中時代の友人。海軍兵学校卒。
芥川が発刊した回覧雑誌『日の出会』にも参加。彼の文体は「本所両国」に「いはゆる美文」と記されている。また「猿」は海軍将校となった清水から聞いた話が基になっている。
大正14年2月21日、肺を病んだ清水より手紙を受け、芥川は激励の手紙を送った。しかし、看病中感染した妻に続いて3月9日に清水は死去。芥川はひどく哀しみ、遺された清水への娘への哀憐が「追憶」に描かれている。
下島勲(しもじま・いさお)……1870〜1947
医師・俳人・随筆家。号は空谷。長野県生まれ。
軍医として、日清・日露戦争に従軍。後に田端で開業した。
書画に関心が深く、能書家でもあった。
芥川が大正3年に田端へ転居したときから、隣人で終生の友となり、芥川家の主治医であった。
1922(大11)年頃芥川は、心機一転をはかり書斎の扁額を「我鬼窟」から「澄江堂」に改めた。それを揮毫したのが下島である。また晩年の芥川の持病を胃アトニー、痔疾、神経衰弱と診断し、芥川の読書の速度が驚くほど速い事、記憶力のとてもよい事を挙げて、肺結核説や精神病説を一掃した。
しかし、1927(昭2)年7月24日、下島は医師として芥川の最期を看取った。芥川は伯母に「水洟や鼻の先だけ暮れのこる」の短冊を下島に渡すように託していた。
下島行枝(しもじま・ゆきえ)……1913〜1926
下島勲の養女。芥川もとても可愛がったという。そのため彼女の死には非常にショックを受けた。
長野県駒ヶ根市にある墓碑には、下島の求めに応じた、犀星、久保田、そして芥川による悼亡句「更けまさる火かげやこよひ雛の顔」の揮毫が刻まれている。
章炳麟(しょう・へいりん)……1869〜1936
中国、清末・民国初の思想家。余杭(よこう)(浙江(せつこう)省)の人。字(あざな)は枚叔(ばいしゆく)。号、太炎。
漢民族による民族主義革命を主張。孫文・黄興(こうこう)と並んで革命三尊と称されたが、のちに彼らと対立。辛亥(しんがい)革命後は学問著述に専念した。著「章氏叢書」「太炎文録続編」など。チャン=ピンリン。
菅忠雄(すが・ただお)……1899〜1942
小説家・編集者。東京生まれ。上智大中退。父は、菅虎雄。
父が漱石と親交があり、また芥川・久米の恩師であった事から、自然と文筆生活を志すようになる。
芥川は、大正2(1913)年鎌倉に虎雄を訪ね、一泊した際初めて忠雄と会った。以後、何度も菅家を訪問していくうちに親しくなっていく。
一方忠雄は、結婚する芥川の鎌倉での新居を捜してやったり、高浜虚子を芥川に紹介してやったりした。
こうした父との教え子たちとの交友から、大正13(1924)年には文芸春秋社に入社し『文芸春秋』の編集を行った。後に同誌および『オール読物』の編集長となった。
菅虎雄(すが・とらお)……1864〜1943
ドイツ語学者。号は白雲。福岡県生まれ。東大独文学科卒。
熊本の五高教授を経て、一高教授になった。五高時代には、友人の夏目漱石を五高に招いている。
芥川にとっては一高時代の恩師にあたる。
能筆家としても知られ、芥川はその書を高く評価していた。芥川の第一作品集『羅生門』や「我鬼窟」の扁額は菅の手になるものである。
杉本わか(すぎもと・わか)
芥川が長崎に旅行した際、知り合った丸山の待合「たつみ」の芸妓。お若。照菊。
芥川は1922(大11)年4月25日から5月30日まで長崎に滞在し、その間に懇意になった。そして滞在のうちに河童図としては最大級の逸品である「水虎晩帰之図」を銀屏風描いて贈っている。
薄田泣菫(すすきだ・きゅうきん)……1877〜1945
詩人・随筆家。本名は淳介。岡山県生まれ。岡山中学中退。
1899(明32)年の第一詩集『暮笛集』、1901(明34)年の『ゆく春』で詩人の地位を不動のものとした。島崎藤村引退後は詩壇の第一人者となった。
また大正元年には大阪毎日新聞社に入社。夕刊連載コラム「茶話」で好評を博し、随筆家としても一家を成した。
大正6年に芥川に「戯作三昧」の執筆を依頼。以後、芥川が専業作家となれるよう尽力した。
大正7年には社友に迎え、「地獄変」を連載。8年には芥川の要望により、出勤の義務なし、月給130円に原稿料とボーナス別などの条件で社員に迎え入れた。
大正12年パーキンソン病を患い、退社する。
鈴木三重吉(すずき・みえきち)……1882〜1936
小説家・児童文学者。広島県生まれ。東大英文科卒。
漱石山房では、芥川の兄弟子にあたる。小説「千鳥」や「小鳥の巣」で注目されたが、後に児童文学に転進。1918(大7)年に「子供の純性を開発保全するために」、児童文学雑誌『赤い鳥』を創刊した。
鈴木は、漱石門下の先輩として芥川の文学や、創作活動の出発に大きな影響を与えている。大正5年「芋粥」が『新小説』に掲載されたのは編集者鈴木の導きがあった。当時、鈴木は『新小説』の編集顧問をしており、「鼻」を書いた芥川の才能をいち早く見抜いた。これによって芥川は文壇に躍り出て、将来を確約された。
それゆえ『赤い鳥』運動に芥川も協力を惜しまず、創刊号に「蜘蛛の糸」を寄せるなど、結局『赤い鳥』には「犬と笛」、「魔術」、「杜子春」、「アグニの神」と計5つの作品を寄稿した。
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