芥川龍之介人物録*な行

芥川龍之介人物録 * な行


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な 行 人 物 一 覧 表
直木三十五(なおき・さんじゅうご)
中根駒十郎(なかね・こまじゅうろう)
中野重治(なかの・しげはる)
中原安太郎(なかはら・やすたろう)
永見徳太郎(ながみ・とくたろう)
夏目漱石(なつめ・そうせき)
南条勝代(なんじょう・かつよ)
成瀬正一(なるせ・せいいち)
南部修太郎(なんぶ・しゅうたろう)
新原得二(にいはら・とくじ)
新原敏三(にいはら・としぞう)
新原ハツ(にいはら・はつ)
新原フク(にいはら・ふく)
新原フユ(にいはら・ふゆ)
西川英次郎(にしかわ・ひでじろう)
西川豊(にしかわ・ゆたか)
野口綾子(のぐち・あやこ)
野口功造(のぐち・こうぞう)
野口真造(のぐち・しんぞう)
野々口豊子(ののぐち・とよこ)


直木三十五(なおき・さんじゅうご)……1891〜1934
小説家。本名は植村宗一。大阪生まれ。早大英文科予科中退(除籍)。
初め筆名を三十一として、年毎に増やし三十五で留めた。
震災後は大阪に帰り、プラトン社の『苦薬』の編集に従事し、大衆文学の向上に努めた。
死後、菊池寛によって直木賞が創設された。
大正9年、当時まだ無名であった直木が紹介状もなくいきなり芥川や菊池を訪問し、大阪講演を依頼している。
大正12年には、待合「ゆたか」から芥川や里見とともに寄せ書きをして、17日付で当時奥野艶子に恋していた久米に贈っている。
昭和2年には、芥川が、青野季吉宛書簡(3月6日付)の中で「玄鶴山房」で大学生が読むリープクネヒトが、かつて直木が編集していた『苦薬』でも良いとする評論に反論している。
中根駒十郎(なかね・こまじゅうろう)……1882〜1964
出版人。愛知県生まれ。
小学校卒業後上京し、新声社(のちの新潮社)に入社。長年支配人として活躍。芥川の原稿を積極的に『新潮』へ載せ、また『煙草と悪魔』、『夜来の花』、『黄雀風』などの刊行にも関わっている。
大正6年、芥川の短編集を『新進作家叢書』の一冊として刊行することになった辺りから晩年に至るまで、親しく交流した。
中野重治(なかの・しげはる)……1902〜1979
小説家・評論家・詩人。福井県生まれ。東大独文科卒。
東大在学中、同人誌『裸像』に多くの詩を発表。
1926年、窪川鶴次郎・堀辰雄らと『驢馬』を創刊して詩・詩評を発表した。同年日本プロレタリア芸術連盟に参加した。プロレタリア文学・戦後民主主義文学の代表的作家である。
中原安太郎(なかはら・やすたろう)
芥川の東京府立第三中学校以来の友人。明治42年8月には共に槍ヶ岳登山をしている。
卒業後は、芥川と共に、一高に入学。
芥川の「学校友だち」によると法科大学を卒業した後、独立して商売を始めたらしい。西川英次郎に並ぶ秀才で、西川よりも世故に長けた人物であったという。菊池の「父帰る」を愛読する「実生活上にも適度のリアリズムを加へたる人道主義者」と評されている。
永見徳太郎(ながみ・とくたろう)……1890〜1950
長崎研究家・戯曲家・小説家。長崎県生まれ。
芥川が大正八年に初めて長崎を旅した際、知り合った。芥川に宿を提供し、以後親しい交際が続いた。
長崎を訪れる文人たちを歓待した。
夏目漱石(なつめ・そうせき)……1867〜1916
小説家。本名は金之助。東京生まれ。東大英文科卒。
芥川の師。
松山中学・五高などの教師生活の後、1900年イギリスに留学。帰国後一高、東大の講師となる。
1905年「我輩は猫である」を発表し、作家としての活動を始めた。1907年教職を辞して朝日新聞社に入り、「三四郎」「それから」「行人」「こころ」「明暗」などの力作を発表。近代日本文学を代表する作家となった。
漱石は自宅書斎を「漱石山房」と名づけ、面会日を木曜日に決めて門下生を集めた。芥川は大正4年に漱石宅を初め訪問し、そのうちの晩年の門下生として漱石の期待を受けた。芥川の「鼻」を漱石が激賞したのは有名である。
漱石は「君方は新時代の作家になる積でせう。僕も其積であなた方の将来を見てゐます。」(大5年8月21日付芥川・久米宛)といった励ましも与えている。
漱石の葬儀に際しては、芥川は受付を担当し、久米とともに涙を流した。
しかし、芥川の漱石へ対する感情は単なる崇拝、敬愛というわけではなかったように見える。「或阿呆の一生」では「センセイキトク」の知らせに「歓びに近い苦しみ」を感じたという複雑な感情を示す一文がある。
南条勝代(なんじょう・かつよ)
2歳から18歳までをヨーロッパで過ごす。
いかなる経緯かは不明だが、芥川は1925(大14)年頃より翌々年の2月くらいいまで、彼女に日本文学一般についての個人教授を行った。
成瀬正一(なるせ・せいいち)……1892〜1936
小説家・仏文学者。神奈川県生まれ。東大英文科卒。
芥川の一高時代からの親友。同級生に菊池、久米、松岡、井川(恒藤)らがいた。
大正5年2月に芥川、久米、菊池、松岡らと第四次『新思潮』を創刊。「最初の石」「骨晒し」など理想主義的傾向の強い小説を書いた。
雑誌創刊に際し、資金作りのためのロマン・ロラン『トルストイ』翻訳計画を提案。3月に新潮社より刊行した。
同年7月大学を卒業し8月から欧米留学した。そして留学先から倹約とアルバイトで貯めた金を送り雑誌を支えた。
帰国後は、創作を断念し、18.9世紀フランス古典文学研究に専念した。大正14年九州帝大法文学部講師に就任、翌年教授に就任した。
南部修太郎(なんぶ・しゅうたろう)……1892〜1936
小説家。宮城県生まれ。慶大文学科卒。
在学中から『三田文学』に翻訳や小品を載せ、卒業後も同誌の編集に携わりながら、創作を続け「夜行列車の客」「猫又先生」などを書く。
南部が芥川と知り合ったのは、大正6年秋、有楽座の廊下で小島に紹介された時という。
芥川は大正8年9月に『三田文学』へ「奉教人の死」を発表しているが、これは南部の依頼によるものであった。以後、両者はそれぞれの作品をめぐって論戦を交わし批評したりする間柄となった。佐佐木茂索・小島政二郎・滝井孝作と合わせて「龍門の四天王」と称された。
芥川は、「大正八年度の文芸界」において南部を「三田派」の「新進作家として、堅実な風格のある作家」と認めつつ、「唯、その魄力に於て、何処かまだ手薄な所がある」とも述べていた。
南部との交流では、秀しげ子との関係も見逃せない事件で、この出来事は芥川の自殺の一原因とも考えられている。
新原得二(にいはら・とくじ)……1899〜1930
芥川の異母弟。芥川の実父・新原敏三と実母フクの妹であったフユとの間に生まれた。東京生まれ。上智大学中退。
父敏三に似た野性的な激しい性格で、岡本綺堂についての戯曲「虚無の実」を書いたりしたが、文筆に満足しなかった。
後に日蓮宗に凝りだし、芥川の頭を悩ませる。
芥川は死に際し、実姉・ヒサと、この得二とは絶縁するとの遺書を残したとも伝えられる。
新原敏三(にいはら・としぞう)……1850〜1919
芥川の実父。周防の国の生まれ。
1866年の幕長戦争において長州藩兵士として戦闘に加わり重症を負うなど、幕末・維新の動乱を生きた。
1875(明8)年ごろ上京。1883(明16)年、京橋区入船町の牛乳販売店耕牧舎の支配人になった。経営拡大に手腕を揮い、各所に支店を設け、新宿に牧場を営んだ。明治20〜30年代事業は確実に発展したが、明治末頃から停滞、大正7年ごろには牧場を手放すなど事業縮小を余儀なくされた。
芥川フクと結婚したのは1883年で、ハツ・ヒサ・龍之介と三子をもうけた。芥川の生後10ヶ月頃フクが発狂したため、芥川を妻の実家に預け、その間妻の妹のフユが手伝いに出向き、1899(明32)年には得二が生まれた。
1904(明37)年に芥川は正式に芥川家養子となるが、それまで敏三は息子を取り戻そうと苦心していた。しかし結局敏三が折れる形で事態は決着し、フユが後妻として入籍した。
芥川は「点鬼簿」で敏三を作品化している。
新原ハツ(にいはら・はつ)……1885〜1891
芥川の長姉。東京生まれ。戸籍上はソメ。「初」の字をあてハツと称した。
ハツは非常に賢い子で、両親、親戚に非常に可愛がられたという。しかし、芥川誕生の前年の4月5日に夭折している。母に連れられて新宿の牧場に椿狩りに出かけて風邪を引き、脳膜炎を起こしての急逝であったという。
このハツの夭折がフクの発狂の原因であったとの推測もある。
後年芥川は、「点鬼簿」のなかで、母・父とともにハツを作品化している。「『初ちやん』は今も存命するとすれば、四十を越してゐるであろう。(中略)僕は時々幻のやうに僕の母とも姉ともつかない四十恰好の女人が一人、どこからか僕の一生を見守つてゐるやうに感じてゐる。」と記している。
新原フク(にいはら・ふく)……1860〜1912
芥川の実母。
明治16年に、新原敏三と結婚。長女・ハツ、次女・ヒサ、長男・龍之介を授かった。
明治25(1892)年に龍之介が誕生したが、同年10月頃発病し、精神異常を起こす。その前年に長女ハツが夭折したことが原因ともいわれている。
芥川は、この母の印象について、「点鬼簿」(大正15年)の中で「僕は一度も僕の母に母らしい親しみを感じたことはない」と述べている。実母の発狂は「或阿呆の一生」(昭和2年)でも描かれているが、晩年芥川は自らの精神不安定が、実母の遺伝なのではないかと恐れていた。
芥川の妻・文子によるとフクは「荒々しくなるわけではなく、ただぼんやりと座って」おり、「一室にこもりきりで、ときどき思い出すように、狐の絵ばかり描」いていたという。
彼女は、発狂後記憶を戻すことなく、亡くなった。
新原フユ(にいはら・ふゆ)……1862〜1920
芥川の伯母で、実母の妹であり、実父の後妻。敏三との間に得二という、芥川の異母弟がある。
芥川の実母が発狂したため、芥川家に家事手伝いとして入り、得二を生んだ。得二はフクの実子として届けられた。
明治37年芥川の養子縁組が成立したのを機に、新原家に入籍する。
大正八年敏三がスペイン風邪で没すると、その一周忌の直後四月腹膜炎で没した。叔母の死去に際し、芥川は恒藤に「去年は親父に死なれ今年は叔母に死なれ僕も大分うき世の苦労を積んだわけだ」と書き送っている。
西川英次郎(にしかわ・ひでじろう)……1892〜1988
農芸化学者・農学博士。東京生まれ。東大農科卒。
芥川の三中時代からの親友。三中を首席(芥川は二番)で卒業し、一高にも第二部乙類無試験組トップ(芥川は第一部乙類4番)の成績で入学した西川を、芥川は「僕を驚かせた最初の秀才」と呼び、「中学の四年か五年の時に英訳の『猟人日記』だの『サツフオオ』だのと読み囓つたのは西川なしには出来なかつたであらう」と回想している(「追憶」)。
このように知的刺激を与え合う以外にも、柔道や水泳をしたり、旅行に出かけたりする友人関係だった。
西川豊(にしかわ・ゆたか)……1885〜1927
弁護士。滋賀県生まれ。明大法科卒。
芥川の実姉ヒサの再婚相手。一男一女をもうける。
偽証教唆の罪で失権。市ヶ谷刑務所に収監されたこともあった。
1927年1月には自宅が焼け、保険金目当てとの嫌疑がかかったが、取調べ後失踪し、潔白を証明するために鉄道自殺を遂げた。
芥川は、西川の遺した高利の借金、姉一家の生活、保険問題などの解決のために駆けずり回る羽目になった。
野口綾子(のぐち・あやこ)……1898〜1962
野口功造・真造の妹。東京生まれ。日本橋女学校卒。
芥川の一高・東大の同級生岡栄一郎と、芥川夫妻の媒酌で結婚したが、翌年に離婚。
純真無垢な女性であったという。
野口功造(のぐち・こうぞう)……1888〜1964
呉服商。東京生まれ。真造の兄。
呉服屋「大彦」の若主人。後に独立して「大羊居」を創業。染織を生業とする。美術や文学に独特な見識を持っていたとされる。芥川の眼には、個性的で、やはり文学・美術に見識があり、執着心の強い人物に見えていたようだ。
野口の妹綾子と岡栄一郎の仲人であった芥川は、ふたりの離婚問題に苦慮する。
功造と芥川の交流は大正8年ごろから14年ごろまで続いたと推測される。
野口真造(のぐち・しんぞう)……1892〜1975
染織工芸家。東京生まれ。私立商工中学校卒。
芥川とは江東尋常小学校附属幼稚園入学時からの友人。
日本橋呉服屋「大彦」の次男で、父の経営をする問屋や工場で染色の考案・製作を学ぶ。1925(大14)年、父の死に伴い「大彦」を継ぐ。
昭和2年には大彦染織美術研究所を設立。伝統的な染色刺繍の研究・復元及びそれらに自身の創案を加味した正統的な衣装捜索を活発に行う。皇室慶事の調製、大劇場の緞帳や大パネルなども手がけた。
芥川は親友・野口について「学校友だち」の中で「小学時代に僕と冒険小説を作る。僕よりうまかりしかも知れず」と紹介している。事実、芥川とともに回覧雑誌「日の出界」「流星」を作った。
野々口豊子(ののぐち・とよこ)
鎌倉の割烹旅館小町園の女将。京都府生まれか。
鎌倉小町園は、東京築地の小町園の支店で野々口光之助の経営。豊子はその妻。
芥川は、海軍機関学校教官就任(大正5年12月)直後より、しばしば小町園を利用。
昭和元(1926)年、歳晩から翌年1月2日まで小町園逗留の際、芥川は豊子に逃避行を持ちかけたとも伝えられる。
芥川と豊子の深い関係を仄めかす証言も少なくはないが、実情については不明な点が多い。ただ、芥川と豊子との間に客と女将の関係を超えた交流があったことは確かであろうと思われる。
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