芥川龍之介人物録*ま行

芥川龍之介人物録 * ま行


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ま 行 人 物 一 覧 表
正宗白鳥(まさむね・はくちょう)
松岡譲(まつおか・ゆずる)
水上瀧太郎(みなかみ・たきたろう)
室生犀星(むろう・さいせい)
室生とみ子(むろう・とみこ)
室賀文武(むろが・ふみたけ)
森鴎外(もり・おうがい)
森田草平(もりた・そうへい)
森幸枝(もり・ゆきえ)


正宗白鳥(まさむね・はくちょう)……1879〜1962
小説家・評論家。本名は忠夫。岡山県生まれ。東京専門学校卒。
植村正久や内村鑑三の影響を受け、洗礼を受けたが、読売新聞社に勤務するようになってから次第に協会を離れ、小説を書いたり、文学・美術・演劇に対する批評文を発表するようになる。
しかし、それは権威や常識に鋭い否定を投げつけるようなものだった。 芥川の時代には白鳥は徳田秋声と並ぶ自然主義の既成大家であった。
芥川は「大正八年度の文学界」の中で「白鳥氏の芸術派、否定に始まって否定に終わると云ふ事を憚らない。明らさまに云へば予は人生を残賊するものとして、如是態度を憎むものゝ(中略)白鳥氏の作品に対す時、予は常にその手腕の非凡なのに推服せざるを得ない」といっているが、それ程に畏るべき先輩作家であった。実際、白鳥の芥川作品に対する評はみな手厳しいものであった。比較的項評価であった「往生絵巻」「一塊の土」に対しても不満はぬぐわれていない。登場人物の心情が机上の空論であるように見えるらしい。白鳥は、机上の空論ではない物語を期待した。芥川もその期待は認識していたであろう。
松岡譲(まつおか・ゆずる)……1891〜1969
小説家。新潟県生まれ。東大哲学科卒。
在学中に芥川・久米らと第三次、第四次『新思潮』を創刊した。またロマン・ロオラン『トルストイ』の翻訳にも参加した。
芥川との間に多くの書簡があるほか、他の人物宛の書簡や作品の数々にも登場している。
大正7年4月、夏目漱石の長女・筆子と結婚。久米も筆子に恋をしていたため、二人の間には確執が生まれ、当時のジャーナリズムを騒がせた。
その後文壇的には不遇。松岡が10年の沈黙を破って小説を発表した時には芥川は「今度の小説を書くことによつて久米との間も旧に復する機会を得れば一番仕合せ」と書き送っている。
水上瀧太郎(みなかみ・たきたろう)……1887〜1940
小説家・劇作家。本名は安部章蔵。東京生まれ。
水上が芥川と知り合ったのは、大正6,7年ころで、「新詩社の短歌会」での席上であり、水上の小説「紐育―リヴアプウル」(『新小説』大正8年6月)を高く評価してくれたという。
大正14年3月以降、芥川や谷崎、里見、久保田らと『鏡花全集』の校訂・編集に当たる。また同年11月に出版された『近代日本文芸読本』には、水上の「昼―祭りの日―」が収録されている。
室生犀星(むろう・さいせい)……1889〜1962
詩人・小説家。本名は照道。俳号は魚眠洞。石川県生まれ。
詩人として出発し、『叙情小曲』『愛の詩』で近代抒情詩の期を画した。のち、小説にも転じ、「性に目覚める頃」「あにいもうと」「杏つ子」などを書く。野性的な人間探求と感覚的描写が特徴である。
犀星は大正8年秋まで萩原朔太郎らとともに詩の雑誌『感情』を発刊し続け、詩人としての地位を確立した。芥川とは日夏耿之介の第一詩集出版記念会で出会い、同じ田端に住んでいた事から、生涯親交を深めた。
しかし最初は好意をもてなかった。犀星は知的で典雅な雰囲気の芥川が苦手であった。けれども、佐藤春夫が谷崎から「文学的才能を蘇生」させられたように、芥川から得るものもあり、互いに影響しあう仲になっていく。
朔太郎や堀を芥川に紹介したのも、犀星である。芥川の作品、『愛の詩集』贈呈の返礼で貰った詩に対して、立体的な格調があり、組み立てがしっかりしていると記す。
また、私生活でも盛んに交流を続ける。大正12年の震災後一時犀星は金沢に引き上げるが、が、その翌月には金沢で再会し、豪奢に遊ぶなど、その最期の時まで、彼等はつながりをもった。
犀星は、芥川の自殺に対し、「芥川龍之介の生涯に、最後の清浄なものを自分は感じた。」と記し、芥川を理解し賛美している。
室生とみ子(むろう・とみこ)
犀星の妻。旧姓は淺川。
金沢で小学校の教師をしていたが、1918年2月詩を仲立ちにかねてから文通をしていた犀星と結婚をした。
室賀文武(むろが・ふみたけ)……1869〜1949
俳人。号は春城。山口県生まれ。
芥川の実父敏三を頼って上京し、耕牧舎で働いた。3歳頃までの芥川に親しみ、子守りなどをした。
やがて政治に失望。キリスト教に近づき、内村鑑三に入門して生涯独身のまま信仰生活を続けた。
後に一高時代の芥川と再会、その最後のときまで精神の交流、キリスト教や俳句の話し相手となった。
俳句は30代から初め、句集『春城句集』の序を芥川に依頼。
「歯車」の「或老人」のモデルで、晩年の芥川にはキリスト教への入信を勧めた。
森鴎外(もり・おうがい)……1862〜1922
軍医・小説家・翻訳家・評論家。本名は林太郎。島根県生まれ。東大医科卒。
陸軍軍医の傍ら戦闘的啓蒙家として評論活動、及び翻訳・小説など多彩な文筆活動を展開。代表作は「舞姫」「雁」「阿部一族」「渋江抽斎」。
医学方面でも多くの論文を書いた。夏目漱石と並ぶ近代日本を代表する作家である。
芥川と鴎外の出会いは、一読者としてのものから始まる。
芥川は、一時創作活動を休止していた鴎外が三中時代に再開したので、発表される作品はリアルタイムで愛読していたようである。特に歴史小説、翻訳小説には大きな影響を受けた。
実際の交流は、漱石を敬愛していたのに比べると、親密なものではなかった。ただ最初の対面は、漱石より先だったようである。
森田草平(もりた・そうへい)……1881〜1949
小説家。本名は米松。岐阜県生まれ。東大英文科卒。
漱石門下のひとり。芥川の兄弟子。
明治41年に平塚らいてうと情死行を企てたが、未遂に終わり世間を騒がせた。
漱石の勧めによりその体験を「煤煙」(明42)に書き、文名を上げると共に社会復帰を果たした。やがて朝日新聞の文芸欄を担当して漱石を助け、当時の自然主義の抵抗勢力を作り上げた。
芥川とは、門下生先輩としての交流を持った。様々な書簡に森田の名が登場し、身近な存在であったようである。
森幸枝(もり・ゆきえ)
静岡県出身。静岡高女卒。
日本女子大学校国文科在学中で小説家を目指しており、大正9年3月17日に初めて芥川に会った。
以来幸枝は、芥川に、博多人形・菓子などを贈り、翌年8月頃まで交際があった。
大正9年8月頃縁談が起こり、中退して竹内猪之介と結婚したがまもなく離婚。杵屋勝吉次について長唄を習ううちに彼に恋し、周囲の反対も聞かず5,6歳年下の杵屋と結婚した。しかし、生活は苦しく加えて結核に冒された幸枝は、昭和5年4月に27歳で死去した。
幸枝は、芥川のほかに市川猿之助とも関係があったといわれる。
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