芥川龍之介人物録*か行

芥川龍之介人物録 * か行


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か 行 人 物 一 覧 表
片山広子(かたやま・ひろこ)
勝峰晋風(かつみね・しんぷう)
香取秀真(かとり・ほずま)
蒲原春夫(かもはら・はるお)
川端康成(かわばた・やすなり)
菊池寛(きくち・かん)
木下杢太郎(きのした・もくたろう)
木村毅(きむら・き)
葛巻ヒサ(くずまき・ひさ)
葛巻義敏(くずまき・よしとし)
久保田万太郎(くぼた・まんたろう)
久米正雄(くめ・まさお)
小島政二郎(こじま・まさじろう)
小島みつ子(こじま・みつこ)
近衛文麿(このえ・ふみまろ)
小林雨郊(こばやし・うこう)
小宮豊隆(こみや・とよたか)
今東光(こん・とうこう)


片山広子(かたやま・ひろこ)……1878〜1957
歌人・翻訳家。別名松村みよ子。東京生まれ。
初め佐佐木信綱に師事し、作歌を目指す。後にアイルランド文学に親しみ、ダンセニーやシングの翻訳を松村みね子の名で行った。
芥川との決定的出会いは、大正13年軽井沢の鶴屋旅館で同宿したことからで、以後芥川の心は急激に傾斜、「才力の上にも格闘できる女」と認めた。そうしてこの危機的状況を「越びと」という抒情詩を作ることによって脱した。これらの施頭歌25首は「明星」に発表され、片山は「越し人」と呼ばれた。また「尼堤」(大14)も片山への想いゆえに書いた。
片山の姿は他に堀辰雄の『聖家族』、『ルーベンスの偽画』、『物語の女』に描かれている。
勝峰晋風(かつみね・しんぷう)……1887〜1954
俳人・俳文研究家。本名は晋三。東京生まれ。東洋大卒。
新聞記者を15年ほどした後、伊藤松宇に師事し、「黄橙」を主宰した。
香取秀真(かとり・ほずま)……1874〜1954
鋳金家・歌人。本名は秀治郎。別号は六斎、梅香翁。東京美術学校卒。
田端の芥川家の隣人。18歳年下の芥川に芸術的に大きな影響を及ぼした。昭和28年には文化勲章を受章。古典的で品格の高い作風と金工史の先駆的研究で知られる。芥川は澄江堂の印を貰っている。子規の根岸短歌会の一人でもあった。
芥川は香取の見せる芸術に関して、「雑筆」(大9)の中で「香取秀真氏の所にゐたら、茶釜の蓋置きを三つ見せてくれた。(中略)これ程簡単な物にもこれ程出来の違ひがあるかと思つたら、何事も芸道は恐しい気がした」と述べている。また人物に関しては、「田端人」(大14)で「香取先生は通称『お隣の先生』なり。(中略)時には叔父を一人持ちたる気になり、甘つたれることもなきにあらず」と記し、非常に親しみを持っていることが分かる。
蒲原春夫(かもはら・はるお)……1900〜1960
小説家。長崎県生まれ。
1919(大11)、芥川が長崎を再遊した際に親しくなった。
主として長崎を舞台とするキリシタン小説を発表した。
同郷の渡辺庫輔と共に1922年に上京し、芥川に師事。芥川家の近くに居を構え、書生のような役割をした。また『近代日本文芸読本』編集の手伝いもした。芥川没後は帰郷し、長崎史のの研究に取り組んだ。書店を営んだり、市会議員も務めた。
川端康成(かわばた・やすなり)……1899〜1972
小説家。大阪生まれ。
東大時代に第六次『新思潮』に参加。「招魂一影」が菊池寛の目にとまり、『文芸春秋』(大12・1)に「林金花の憂鬱」を発表。同号には芥川の「侏儒の言葉」が掲載されている。
東大を卒業した後は、横光利一らと斬新な感覚と言語表現による作品を発表し、「新感覚派」と呼ばれた。
心理小説や特有の美を構築し「雪国」、「古都」など円熟した作品を数多く書いた。国際ペン大会の東京大会に尽くした功績も認められ昭和43年にノーベル文学賞を受賞。73歳でガス自殺を遂げる。
川端は芥川の作品を多く批評し、賞賛や酷評を行っている。
直接会ったのは大正10年の菊池家においてと、関東大震災の際に川端が芥川を訪ね、共に吉原の焼け跡を見に行ったときである。
また、川端は、芥川を明治以来の作家のなかで鴎外、漱石、藤村に次ぎ研究対象になる人物だと評価している(「現代日本小説大系月報」昭和24年9月)。
菊池寛(きくち・かん)……1888〜1948
小説家・劇作家。香川県生まれ。芥川の一高時代の同級生。一高を退学の後京大英文科卒。時事新報社に入社。
芥川と親しくなったのは、第三次『新思潮』を創刊する京大時代。大学卒業後すぐに結婚・上京し、記者をしながら執筆活動を行った。大正6年「父帰る」(『新思潮』)、大正7年「忠直卿行状記(『中央公論』)を発表し、また単行本を二冊刊行するなどして文壇的地位を確立した。
大正八年には、芥川と共に大阪毎日新聞社の社員となる。大正12年菊池は『文芸春秋』を創刊し、芥川は「侏儒の言葉」を寄せた。この『文芸春秋』の成功が菊池を多忙にし、芥川と会う機会を奪っていく。
菊池は「芥川の事ども」の中で「自分のやることで芥川の気に入らぬことも沢山あつただらうが、しかし十年間一度も感情の阻隔を来たしたことはなかつた」と言い、芥川の「芸術上の覇気、芸術上の向上心」を高く評価している。
芥川も菊池について、「菊池寛と一しよにゐて気づまりを感じた事は一度もない。と同時に退屈した覚えも皆無である」と述べている。そして菊池の「頭脳のいいこと」「正しいと思ふところをぐんぐん実行にうつして行く」合理的信念と「人生のための芸術」的主張を、評価している。
菊池の芥川に対する思いは、昭和10年に「芥川賞」を創設したことにも表れているといえよう。
木下杢太郎(きのした・もくたろう)……1885〜1945
詩人・劇作家・小説家・美術家・医学者。本名は太田正雄。静岡県生まれ。東大医科卒。
在学中(明40)に新詩社の同人となり、『明星』に詩作などを発表。明治41年には新詩社を脱退して北原白秋らと「パンの会」を結成。また生涯の師と仰ぐ森鴎外に出会い、明治42年『スバル』創刊に参加。44年に発表した「和泉屋染物店」によって戯曲家として高名をはせた。大正5年から南満医学堂教授として赴任。大正10からはフランスに留学。帰国後は随筆・医学論文が多く、またキリシタン研究も行った。
芥川は大正3年に、『新思潮』の表紙画を描いてもらうために木下を訪問。大正12年震災後の復興諮問機関「橋の会」で再会。昭和2年には改造社宣伝講演旅行の途中、東北大学の研究を訪ねている。
芥川の一連の切支丹ものは木下や白秋の影響下にある。
木村毅(きむら・き)……1894〜1979
小説家・評論家。岡山県生まれ。早大英文科卒。
隆文館・春秋社などの出版社勤務を経て、評論・研究活動に入る。主に、明治期の文学・文化を対象とする研究書を次々と上梓する。考証を重視した実話文学を提唱した。
大正9年『東京日日新聞』の「新秋文壇の印象」において芥川の小説「影」(大9)を取り上げた木村は、作中人物の名に実在する文士の名を挙げたことを「読者の心に鑑賞以外の或る讒構を強ひる事は避ける可きだ」と批判し、「自分の聡明を頼」む姿勢を「生臭芸術家」と罵った。
芥川との交渉は、大正14年木村が自ら短編集を寄贈した事に始まる。以後、芥川の死の直前まで交渉を含めた文通は続いた。
葛巻ヒサ(くずまき・ひさ)……1888〜1956
芥川の実姉。新原敏三とフク夫妻に次女として生まれる。東京生まれ。
1908年、獣医の葛巻義定と結婚。一男一女をもうけるが、1910年に離婚。実家に戻ったヒサは1916年に弁護士西川豊と再婚する。西川との間にも一男一女をもうける。この一女・瑠璃子が後に芥川の長男・比呂志の妻となる。昭和2年になり、西川家自宅が半焼する。火事の直前に高額の火災保険がかけられていたこと、アルコール瓶が見つかったことから、夫・西川に嫌疑がかけられる。西川は容疑を否認し続けるが、列車への投身自殺を図って死去。その後西川に高利の借金があったことも分かり、事件の処理、借金の処理、姉一家の生活が、芥川にかかり、彼はあらゆる事後処理に奔走し、結果余計に神経を悪くしている。そのため遺書には、姉及び異母弟とは絶縁するという一文があったともいわれる。
その後ヒサは、北海道に移り住んだ葛巻から復縁の話が持ち上がり、西川の子供を連れて葛巻家へ戻った。
葛巻義敏(くずまき・よしとし)……1909〜1985
葛巻義定と、芥川の実姉・ヒサ夫婦の長男。東京生まれ。
1910年に両親が離婚。以後新原家で育てられる。
1921年頃から武者小路実篤の「新しき村」運動に強く共鳴し、「新しき村」に入る許可を父・義定に貰うため北海道へ向かう。その間に関東大震災が起こり、新原家、西川家は全焼。九月中旬に芥川家に戻るが、フキが「新しき村」行きを反対したため、以後芥川家で養育されることになる。
芥川の傍で、原稿用紙を買いに走ったり、原稿を届けたりして仕事を手伝った。その一方、芥川が出来上がった原稿を彼に読ませ、感想を聞くこともあった。
芥川没後は、遺品や遺稿の整理管理保存に関わり、その関係の書もいくつか刊行している。
久保田万太郎(くぼた・まんたろう)……1889〜1963
小説家・劇作家・劇評家。東京生まれ。東京府立第三中学校で芥川の2年上に在籍していた。慶大文学科卒。
三中時代は互いを知らず、知り合ったのは大正4年の春、野口真造の紹介で、という。
永井荷風に師事し、慶大在学中の1912年に『浅草』を刊行。小説家としてのスタートを切った。
久保田には芥川が、どこまでも堅い東京人と見えていた。逆に芥川は、久保田のことを、久保田の処女句集を論じた「『道芝』の序」において、「江戸時代の影の落ちた下町の人々を直写したものは久保田氏の外には少ないであらう」と述べる。
久米正雄(くめ・まさお)……1891〜1952
小説家・劇作家・俳人。俳号は三汀。長野県生まれ。東大英文科卒。
第一高等学校一部に入学。同級生に芥川他、菊池、恒藤、松岡などがいる。しかし芥川と親しくなるのは、帝大入学後1913年、第三次『新思潮』に参加後のことである。久米は編集兼発行人となった。早熟の文学青年で、俳句に劇作に非凡な才能を示す。『新思潮』第二号掲載の「牛乳屋の兄弟」は、大正四年に上演され、注目を浴びた。芥川は後に「あの頃の自分の事」(大9)で「久米は文壇的閲歴の上から云つて、ずつと我々より先輩だった」と述べている。
芥川は1915年に久米と初めて、夏目漱石の木曜会に出席した。1916年には松岡、成瀬、菊池の五人で第四次『新思潮』を創刊し、小説「競漕」を漱石に誉められた。
漱石没後、漱石の長女・筆子に求愛するが筆子には、松岡という意中の人物がおり失恋した。この失恋をテーマとした作品を久米は数多く書いた。
芥川は自殺の直前「或阿呆の一生」の前書きで「君の恐らくは誰よりも僕を知つてゐると思うからだ」と、作品の可否と発表時期、機関を久米に一任した。久米はそれを受けて『改造』の10月号に「或阿呆の一生」を公開するに至った。
小島政二郎(こじま・まさじろう)……1894〜1994
小説家・随筆家。東京生まれ。慶大文学科卒。
大正6年『三田文学』に『睨み合』を発表、編集主任の沢木四万吉教授に認められ、在学中より三田系新人として注目された。
また鈴木三重吉の紹介によって、卒業間際の大正7年2月2日に芥川を初めて訪ねた。それ以後面会日の日曜にやってくる常連の人物、佐佐木茂索・滝井孝作・南部修太郎と合わせて「龍門の四天王」と称された。
鈴木三重吉が主宰する『赤い鳥』の編集助手として童話を書き、身近な作家たちに童話執筆を依頼した。その結果芥川童話が生まれたのだといえる。
芥川の葬儀に際しては、後輩代表として弔辞を読んだ。その他芥川や菊池などの文豪たちとの交流は『眼中の人』などに詳しい。
小島みつ子(こじま・みつこ)
小島政二郎の妻。鈴木三重吉夫人・楽子の妹。
1922年初夏に結婚。12月には長女・美龍が誕生している。
近衛文麿(このえ・ふみまろ)……1891〜1945
政治家。東京生まれ。篤麿(あつまろ)の長男。
昭和一二年(一九三七)内閣を組織し日中戦争に突入。第三次内閣では東条英機陸相の対米主戦論を抑えきれず総辞職。戦後、戦犯に指名され、服毒自殺。
小林雨郊(こばやし・うこう)……1980〜?
画家。京都生まれ。京都絵画専門学校卒。
1920〜21年までフランスに滞在。
芥川は1918年6月に京都へ行った際、光悦寺の案内から宿の世話まで小林の厄介になった。それ以後も京都に芥川が訪れるたびに会い、親交を深めている。「京都日記」の「光悦寺」や「舞妓」の項に登場する。
小宮豊隆(こみや・とよたか)……1884〜1966
評論家・ドイツ文学者・漱石研究家。福岡県生まれ。東大独文科卒。
従兄の紹介で漱石を訪ね、また大学卒業後は漱石の紹介で慶大講師に招かれた。
朝日新聞に文芸欄が開設されると、森田草平と共にスタッフに加わり、漱石没後は、『漱石全集』の校正に専念した。昭和13年に刊行された『夏目漱石』は以後の漱石研究・解釈に多大な影響を及ぼした。
また、西洋の戯曲、翻訳の研究、能や歌舞伎の研究も進めた。
今東光(こん・とうこう)……1898〜1977
小説家・随筆家。横浜生まれ。
1919(大正8)年6月9日、芥川は谷崎宅で初めて今に会う。同月15日には、今が芥川宅を訪ねている。今は、澄江堂へよく遊びに行き、句会や短歌会に参加したという。
関東大震災のあった1923(大12)には、9月5日に川端康成と共に、芥川を見舞いに行き、その後三人で吉原の焼け跡を見に行った。
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