芥川龍之介人物録*は行

芥川龍之介人物録 * は行


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は 行 人 物 一 覧 表
萩原朔太郎(はぎわら・さくたろう)
波多野秋子(はたの・あきこ)
林原耕三(はやしばら・こうぞう)
秀しげ子(ひで・しげこ)
日夏耿之介(ひなつ・こうのすけ)
平松素麻子(ひらまつ・すまこ)
広瀬雄(ひろせ・たけし)
広津和雄(ひろつ・かずお)
富士山(ふじ・たかし)
藤森成吉(ふじもり・せいきち)
堀口大学(ほりぐち・だいがく)
堀辰雄(ほり・たつお)


萩原朔太郎(はぎわら・さくたろう)……1886〜1942
詩人。群馬県生まれ。五高・六高・慶大いずれも中退。
詩と音楽に没頭。1916年には犀星とともに『感情』を創刊し、詩を発表した。1917(大7)年『月に吠える』によって、詩人の地位を確立。豊かな感受性の新しい口語体の世界を開いた。
1925(大14)年に上京。九ヶ月ほど田端に住み、芥川、犀星と交友。やがて鎌倉、馬込と居を移し、昭和4年までいわゆる馬込文士村の住人としての生活を送る。その他の体表作に『青猫』『氷島』などがある。
萩原は、芥川と初めて会った時の印象を芥川追悼文に記している。「私が田端に住んでいる時、或る日突然、長髪瘠躯の人が訪ねて来た。/「僕は芥川です。始めまして」/さういつて丁寧にお辞儀をされた。自分は前から、室生君と氏を訪ねる約束になつてゐたので、(中略)いささか恐縮して丁寧に礼を返した。しかし一層恐縮したことには、自分が頭を上げた時に、尚依然として訪問者の頭が畳についてゐた。自分はあわててお辞儀のツギ足しをした」
芥川の文学に対しては「実に今日の老廃した(中略)日本の既成文壇で芥川君の如く『若さに充ちてゐる』作家はない。(中略)もし『詩』といふ言葉を、かりに『魂の若さ』と考へれば、すくなくとも芥川君は詩人である」と述べている。
波多野秋子(はたの・あきこ)……1893〜1923
『婦人公論』の編集者。軽井沢で有島武郎と心中した。
芥川は、雑誌の取材に対して「大変利口な人だと思ひました。ちよつとヒステリーらしい人のやうなきもしました」(『婦人公論』)と答えている。
林原耕三(はやしばら・こうぞう)……1887〜1975
英文学者・俳人。旧姓岡田。福井県生まれ。東大英文科卒。
1909(明治42)年に第一高等学校一部丁類に首席合格。のち英文科に転科。
芥川の一高時代の一年先輩にあたり、1915(大正4)年11月に芥川を漱石山房の木曜会に誘った。
仏文科の豊島与志雄と親しく、漱石にも愛され、『漱石全集』の刊行にも尽力した。
台北高校・法政大学・明治大学教授を歴任。随筆集に『漱石山房の人々』などがある。
秀しげ子(ひで・しげこ)……1890〜未詳
歌人。号は鞆音(ともね)。長野県生まれ。旧姓小滝しげ子。日本女子大学校家政学部卒。電気技師と結婚、一児があった。
学生時代から歌を作り、太田瑞穂を師と仰いでいた。
芥川としげ子の出会いは、大正8年6月10日岩野泡鳴を中心とする「十日会」の例会上であった。この出会いには広津和郎が、芥川に紹介してくれと頼まれていたという。また、しげ子は飛びぬけた美人ではないが、小作りの体が若く見えたという。
二人の関係はすぐに文壇の中で周知の事実となっていく。「我鬼窟目録」を見ると大正8年6月から9月にかけて二度密会をしたと思われる。しげ子が大正10年に生んだ男児が、芥川に似ていると噂され芥川は神経を苛まれた。
大正10年に中国旅行に行った芥川は、やっとしげ子から逃れたが、帰国後も関係は続き執着心の強いしげ子に、芥川は大変悩まされた。芥川の自殺の一原因としてしげ子のことが数えられている。
芥川は遺書に「相手を選ばなかつた為に(秀夫人の利己主義や動物的本能は実に甚しいものである。)僕の生存に不利を生じたことを少なからず後悔してゐる」と記している。
「秋」(大9)は、しげ子が素材を提供したといわれる。またしげ子を描いた作品としては「歯車」〈復讐の神〉「或阿呆の一生」〈狂人の娘〉などがある。
日夏耿之介(ひなつ・こうのすけ)……1890〜1971
詩人。英文学者。本名は樋口圀登。長野県生まれ。
第一詩集『転進の頌』(大6)以降、多くの訳詩集ほか、『明治大正詩史』や『明治浪漫文化史』などの研究書があり、学匠詩人といわれる。
芥川は、大正3(1914)年3月に開かれた大久保の西条八十宅で行われたアイルランド文学会で初めて日夏にあう。
更に、大正5(1916)年11月、横須賀の海軍機関学校に赴任が決定していた芥川は、野間西洋洗濯店離れを間借りしていたが、日夏はその頃病気療養のため、鎌倉の阪の下に滞在していたので、互いに盛んに行き来していたようである。
芥川が同人誌『仮面』の同人と交友するようになったのは、日夏が接点となったためである。
平松素麻子(ひらまつ・すまこ)……1898〜1953
芥川の妻文子の幼馴染で、芥川の執筆活動の支援者。
二人が初めて会ったのは、大正9年「秋」執筆に期する芥川に文子が紹介したとされる。
芥川の晩年は、仕事場に帝国ホテルを斡旋するなど援助を行っている。
「或阿呆の一生」の「四十七 火あそび」「四十八 死」に登場する女性と考えられる。
昭和2年4月7日に平松の同意を得て、心中を企てるも平松が直前に他言したため未遂に終わったと伝えられるが、詳細は不明。
平松が芥川の自殺阻止に動いていたとも考えられている。
広瀬雄(ひろせ・たけし)……1874〜1964
金沢前田藩の士族出身。1903(明36)年に東京高等師範学校英語専修科卒業。
そしてすぐに東京府立第三中学校の英語担当教諭になる。芥川の担任である。
一年次の担任として、芥川の個性鮮やかさや秀才ぶりを見出し、一高受験時には自宅へ呼んで英語学の講義をしている。
芥川と広瀬の親密な師弟関係は終生変わらなかったとされる。
広津和雄(ひろつ・かずお)……1891〜1968
小説家・評論家。東京生まれ。早大英文科卒。
早大在学中の大正元年、葛西善蔵らと共に同人誌『奇蹟』を創刊。のちに『作者の感想』(大9)に纏められる評論や小説「神経病時代」(大6)で文壇に認められた。
芥川と広津の交渉は、「点鬼簿」を徳田秋声が酷評したことに始まる。
広津はそれに反駁し「底にひそんでゐる作者のさびしさには、十分真実が感じられる」と書き、「中年期のある行き止まりに達してゐる」同世代人として芥川に深い同情を示した。芥川はこれに感謝し、すぐさま礼状を送っている。
富士山(ふじ・たかし)……1894〜1991
医師。東大医学部卒。
1926年当時鵠沼で開業しており、芥川の鵠沼滞在中、三ヶ月ほど担当医を務めた。
藤森成吉(ふじもり・せいきち)……1892〜1977
小説家・劇作家。長野県生まれ。東大独文科卒。
在学中に『波』が認められ、『帝国文学』の編集員となり、芥川の投稿原稿「ひょっとこ」を同誌に推挙した。
大正10年、日本社会主義同盟に加わり、社会主義作家として活躍。昭和7年検挙されて転向し、その後歴史小説へ移行。戦後は新日本文学会発起人になるなど、民主主義文学の発足に尽力した。
芥川は、藤森を「旧先生」として「大正八年度の文芸界」の中で「自然の気息のやうな、素朴な清新さが流れてゐる」と好意的な評価を下している。
堀口大学(ほりぐち・だいがく)……1892〜1891
詩人・翻訳家。東京で生まれ、父の郷里越後長岡で育つ。長岡中学校では松岡譲と同級であった。慶大中退。
外交官の父に従い海外生活を送り、帰国後翻訳家としての才能を発揮した。また第一詩集『月光とピエロ』の新鮮な詩風が注目された。
芥川との直接的な面識はないが、堀内の方から芥川作品の翻訳承諾を求める手紙が送られていた模様。しかし、その頃芥川は中国へ行っており、更にしばらく手紙の存在を忘れていたため、詫びの手紙を書いた。
堀辰雄(ほり・たつお)……1904〜1953
小説家。東京生まれ。東大国文科卒。卒業論文は「芥川龍之介論―芸術家としての彼を論ず―」だった。
作品は一貫して、愛・生・死をテーマとした。代表作に「ルウベンスの偽画」「聖家族」「風たちぬ」「菜穂子」がある。
芥川との交流は大正12年9月、それまで師事していた犀星が震災を契機に一時金沢へ引き上げることになり、紹介されたのが始まりであった。
この時芥川31歳。堀は旧制第一高校2年19歳であった。
堀は大正12年10月に自作の詩を芥川に読んで貰おうと郵送している。これに対する返信が残っており、この原稿で芥川は堀の才能を認めた。
両者は共に下町に育ち、同質の気質や趣味があって、堀は度々芥川を訪ねて知遇を得た。大正14年には芥川に従って軽井沢を訪れ、片山親子らとドライブなどをして過ごした。この時の体験が元になって「ルウベンスの偽画」が書かれる。
昭和2年7月24日、芥川の自殺は、作家としての理想像として芥川を眺めていた堀には衝撃的な事件であった。堀は卒業論文の中で「芥川龍之介は僕の眼を『死人の眼を閉じる』やうに静かに開けてくれました。」と記している。それは芥川の死に衝撃を受け、別の道を進み、芥川作品の欠点をも見逃さないであろうという決意だった。
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