芥川龍之介人物録*あ行

芥川龍之介人物録 * あ行


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あ 行 人 物 一 覧 表
明石敏夫(あかし・としお)
芥川多加志(あくたがわ・たかし)
芥川道章(あくたがわ・どうしょう)
芥川トモ(あくたがわ・とも)
芥川比呂志(あくたがわ・ひろし)
芥川フキ(あくたがわ・ふき)
芥川フク(あくたがわ・ふく)
芥川文子(あくたがわ・ふみこ)
芥川フユ(あくたがわ・ふゆ)
芥川也寸志(あくたがわ・やすし)
有島武郎(ありしま・たけお)
飯田蛇笏(いいだ・だこつ)
井川恭(いがわ・きょう)
泉鏡花(いずみ・きょうか)
伊藤整(いとう・せい)
岩波茂雄(いわなみ・しげお)
内田百(うちだ・ひゃっけん)
宇野浩二(うの・こうじ)
江口渙(えぐち・かん)
頴原退蔵(えいはら・たいぞう)
小穴隆一(おあな・りゅういち)
大橋房子(おおはし・ふさこ)
岡栄一郎(おか・えいいちろう)
岡本一平(おかもと・いっぺい)
岡本かの子(おかもと・かのこ)
岡本綺堂(おかもと・きどう)
尾崎紅葉(おざき・こうよう)
小沢碧堂(おざわ・へきどう)


明石敏夫(あかし・としお)……1897〜1989
小説家。本名は敏雄。幼名は権兵衛。長崎県生まれ。
大正12年、作家となるべく上京。正宗白鳥を頼ったが「文学に師匠はいらぬ。しかし友人は必要だから」と芥川を紹介された。
大正15年芥川の紹介で『改造』に「父と子」同年8月『中央公論』に「半生」を発表。いずれも私小説的な作品。昭和2年文壇を諦めて郷里に帰り、まもなく芥川の訃報を聞いた。
「侏儒の言葉」に源氏物語を実際に読んでいるのは「僕の交わつてゐる作家の中ではたつた二人――谷崎潤一郎氏と明石敏夫氏とばかりであつた」とある。
芥川多加志(あくたがわ・たかし)……1922〜1945
芥川龍之介の次男。東京生まれ。小穴隆一の「隆」から命名された。東京外国語学校仏語部に入学し在学中に学徒兵として召集され、ビルマのヤメセン地区で戦死した。
芥川は、未定稿「兄弟」のなかで「赤児は予想してゐたよりもずつと小さい」、「僕は長男の生まれた時には妙に気の毒だと思つた。(中略)しかし今度は何ともなかつた。」と記している。
大正12年の「子供の病気」は多加志を描いたもので、「自分は彼の小康を得た時、入院前後の消息を小品にしたいと思つたことがある。けれどもつかりさう云ふものを作ると、又病気がぶり返しさうな、迷信じみた心もちがした。」と父親らしい一面を覗かせている。また、風呂敷の外を中にして包むと、開けたとき綺麗でしょと多加志が言ったのを聞いて「この子は我々夫婦には育てきれないかもしれない」などとその才能に驚いたという話もある。
多加志の兄・比呂志の妻、従姉弟の芥川瑠璃子によると、外国人のような美男子で、几帳面なよく気のつく性格であったという。他の兄弟とともに創作をするも、一番文学的才能があったのは多加志であったろうと回想されている。
芥川道章(あくたがわ・どうしょう)……1849〜1928
芥川の養父、芥川実母の兄。東京府勤務。
生後八ヶ月頃の龍之介を預かり、妻との間に子のなかった道章は、そのまま芥川を養子として迎え入れた。養子縁組に関しては、実父敏三との間でもめたが明治37年には縁組が成立。
道章は役人であったが、旧家に育ったため、俳句・一中節・以後・盆栽などを嗜む趣味人であった。
また、器用で、畳の修理をしたり、植木の刈り込みを自分で行ったりもした。
芥川家の家計は、几帳面な道章によって管理され、芥川は生活費として新聞社からの給料を彼に渡していた。文子は、その道章より毎月5円ずつ貰って、子供たちへの費用や身の回り品の資金に充てていたという。江戸趣味を持ち、器用で倹約家な人物であった。
芥川トモ(あくたがわ・とも)……1857〜1937
芥川の養母。道章の妻。幕末の大通、細木香以の姪。
芥川曰く「昔の話をよく知ってゐ」た。瑠璃子は、芝居が好きで、猫を抱きながらラジオを聞くのが好きだったトモを記憶している。
芥川の親友恒藤恭によると、気立ての優しい、よく気のつく婦人であったという。
小島政二郎は、柔和な愛想の良い、小柄で当たりのよい人物であった、と述べている。
芥川の芸術文化に造詣の深い要因のひとつに、このトモの存在が考えられる。
芥川比呂志(あくたがわ・ひろし)……1920〜1981
芥川の長男。菊池寛の「寛」から命名された。
俳優・演出家として活躍。慶応大学仏文学科在学中に、加藤道夫らと知り合い学生演劇を始め、「麦の会」を結成。以後フランス前衛演劇を積極的に紹介していった。劇団「四季」の名付け親でもある。
執筆活動にも積極的で、幼い頃から弟たちや、後の妻従姉弟の瑠璃子らと同人誌などを作ったりもしていた。演劇論を多く書き、また「父龍之介」についても幼い頃の記憶を書き残している。妻との間に3女ある。
芥川フキ(あくたがわ・ふき)……1856〜1938
芥川の伯母、実母の姉。道章の妹。幼少のとき眼を傷つけ不自由になる。生涯独身を通し、芥川の養育に当たった。
芥川は、この伯母の愛情を有り難いと感じながら、苦痛に感じることもあった。「伯母がゐなかったら、今日のような私が出来たかどうかわかりません」(「文学好きな家庭から」)という一方、「彼は或郊外の二階に何度も互に愛し合ふものは苦しめ合ふのかを考へたりした」{或阿呆の一生」)とも述べている。
芥川の妻文子も「めったに私どもに土産など買って来たことはありませんでした。それでも伯母には、本当によく気がついて土産を買ってかえりました」とその気遣いの様を述べている。
関口安義氏は、芥川にとって老人たちの目が「監視の眼」として写り、「いつも養父母と伯母に遠慮がちな生活を送っていた」としている。
フキは、芥川の死後痴呆症になって、死去した。
芥川フク(あくたがわ・ふく) → 新原フク(にいはら・ふく)
芥川文子(あくたがわ・ふみこ)……1900〜1968
芥川の妻。長崎県の生まれ。芥川との間に、比呂志・多加志・也寸志という三男がある。
父は日露戦争で海軍参謀少佐として参戦し、戦死。そのため、母鈴、弟八洲と共に母の実家である山本家に身を寄せていた。そこに住む山本喜誉司が、鈴の末弟であり芥川の親友であったことから、幼い頃からふたりは知り合いになり後に結婚する。
結婚に際し、芥川は「貰ひたい理由はたつた一つあるきりです。さうしてその理由は僕は文ちやんが好きだと云ふことです」という具合に彼女に慈しみに満ちた多くの手紙を送った。
結婚して後は、家事と育児に追いまわされ、家庭の中で感情の行き違いがあっても独り胸の中へしまうようにしていたため、芥川に「文子は芥川家のお嫁さんだよ」といわれるほど、よく尽くした。芥川の女性関係についても文句一ついわなかった。ただ芥川がきちんと仕事に取り組めるように、ということだけが念頭にあったという。「歯車」の最後の場面は実話に基づいており、夫婦ゆえの直感的出来事といえる。
芥川亡き後も、良き嫁、母として尽くし芥川の家を守った「良妻賢母」として名高い人物である。
芥川が文子を描いた作品には「子供の病気」、「死後」、「年末の一日」、「身のまはり」、「本所両国」、「蜃気楼」、「或阿呆の一生」などがある。
芥川フユ(あくたがわ・ふゆ) → 新原フユ(にいはら・ふゆ)
芥川也寸志(あくたがわ・やすし)……1925〜1989
芥川の三男。恒藤恭の「恭」から名づけられた。父親の記憶は全くない。
作曲家として活躍。東京音楽学校研究科終了後、伊部昭に師事。師匠や社会的リアリズムの影響を受けた作品を意欲的に発表。戦後の管弦楽・創作オペラの第一線で活躍した。
日本作曲家協議会長、日本音楽著作権協会長を務めた。
また兄である俳優比呂志と、役者と音楽担当として競演することもあった。
父へ対する記憶はないため、周りから色々教えられて育ったという。
有島武郎(ありしま・たけお)……1878〜1923
小説家。有島生馬・里見クの兄。
札幌農学校在学中内村鑑三の熱心な指導のもと、クリスチャンとなる。アメリカに留学し、歴史と経済を学ぶ。帰国後「白樺」の創刊に参加。「二つの道」、「かんかん虫」などを書く。1923年女性記者の波多野秋子と情死した。代表作に「或る女」、「生まれ出づる悩み」、「カインの末裔」などがある。
飯田蛇笏(いいだ・だこつ)……1885〜1962
俳人・随筆家。本名武治。山梨県生まれ。
明治27年9歳で句作してから、終生俳句に関わる生涯を送った。高浜虚子の指導を受け、俳人の道を進んでいった。
芥川との直接の面識はなかったが、大正7年8月号に芥川の句「鉄条に似て蝶の舌暑さかな」が掲載されると、蛇笏は「無名の俳人によって力作さるゝ逸品」と評し、芥川を苦笑させた。
その後芥川が「蛇笏君と僕」という一文を寄稿したり、互いに句を交換したりして親交を結んだ。
井川恭(いがわ・きょう) → 恒藤恭(つねとう・きょう)
泉鏡花(いずみ・きょうか)……1873〜1939
小説家。本名鏡太郎。石川県生まれ。
尾崎紅葉の指導を受けて小説の修行をし、1895年に「夜行巡査」と「外科室」を発表し認められる。
芥川は、幼年期より鏡花の作品を愛読し、鏡花文学に対して多くの発言を行っている。大正一四年に記した「鏡花全集目録開口」をはじめ「鏡花全集の特色」、「鏡花全集に就いて」など鏡花文学の特質を論じたエッセイもあり、その後の鏡花文学に対する評価の指針となった。
芥川と鏡花の親交は深く、芥川の葬儀では鏡花が先輩代表として弔辞を読んだ。
代表作は、「照葉狂言」、「高野聖」など。
伊藤整(いとう・せい)……1905〜1969
小説家・評論家。北海道の生まれ。本名、整(ひとし)。
ジョイスの「ユリシーズ」、ローレンスの「チャタレイ夫人の恋人」を翻訳紹介。新心理主義文学を唱えた。小説「鳴海仙吉」「火の鳥」、評論「小説の方法」「日本文壇史」など。
芥川との交渉はない。
岩波茂雄(いわなみ・しげお)……1881〜1946
出版人。
1913年に岩波書店を開き、岩波文庫や「思想」、「科学」、「世界」などを創刊。学術書や文学書の出版をなし、日本文化の向上に寄与した。
内田百(うちだ・ひゃっけん)……1889〜1971
小説家・随筆家。本名栄造。岡山県生まれ。
明治38年中学4年のときに「我輩は猫である」を読み、漱石に心酔。東大独文学科入学後、入院中の漱石を見舞って以来、木曜会に出席するようになる。そこで大正4年に訪れるようになった芥川と知り合う。
漱石の著作の整理や校正を手伝い、没後は全集の編集に携わった。
芥川は積極的に内田の作品を評価していたが、当時は「冥土」などに見られる幻想的な作風は受け入れられなかった。しかし、漱石や芥川との交流を描いた随筆でブームが起こり、『百鬼園随筆』(昭8)で多くの読者を獲得するようになった。昭和4年の短編「山高帽子」には晩年の芥川がモデルとされる人物が登場する。
宇野浩二(うの・こうじ)……1891〜1961
小説家。本名格太郎。福岡県生まれ。
早大を中退し、「蔵の中」や「苦の世界」で独特の語り口によるユーモア溢れた文体で、笑いの文学の地位を樹立した。
芥川とは1920年江口渙『赤い矢帆』出版記念会で知り合い、以後親しく交わる。
芥川の死後出版された宇野著『芥川龍之介』には様々な思い出が語られている。「やさしい人であった、親切な人であった、しみじみとした人であった、いとしい人であった、さびしい人であった」と記す。また芥川の生前は芥川の作品をそんなに評価していなかったため読んでいなかった、という。
対照的に、芥川は宇野の作品に最初から好意的であった。宇野の作品を賞賛する一文をいくつも残している。
昭和2年、宇野の神経衰弱が昂じた際には、斎藤茂吉の紹介により入院させられた。そうして芥川は、宇野の退院を待たずに世を去った。
江口渙(えぐち・かん)……1887〜1975
小説家・評論家・児童文学者・社会活動家。本名渙(きよし)。東京生まれ。
与謝野晶子や島崎藤村により文学の洗礼を受け、25歳で東大英文科に進学してほどなく漱石門下となった。
学内で芥川や久米と知り合う。卒業を目前に中退し新聞記者を経て、文筆生活に入る。
芥川は江口の文学的資質については、「批評家よりも、やはり創作家に出来上がつている」としながらも、批評家としての強みである「技巧と内容との微妙な関係」を「直感できる」稀有な存在であると評価している。
江口の『わが文学半生記』や『晩年の芥川龍之介』に彼らの友情は詳しい。芥川の『羅生門』出版記念会のため佐藤春夫らと共に、労をとったのも江口であった。
頴原退蔵(えいはら・たいぞう)……1894〜1948
国文学者。長崎県生まれ。京大卒。
1928年京大講師、翌年教授。蕪村研究にはじまり、実証的学風で近世文学全般に研究領域を広げ、近代的な近世文学の基礎を築いた。『蕪村全集』、『俳諧史の研究』、『江戸時代語の研究』など。
小穴隆一(おあな・りゅういち)……1894〜1966
洋画家・俳人。俳号は一遊亭。長崎県生まれ。開成中学校を画業に専念するために中退。
太洋洋画会に通い、二科展などに属して修業する。大正11年には芥川をモデルにした「白衣」で入選を果たした。
芥川との出会いは、雑誌『梅紅』に載せた雄鶏の挿絵が契機となった。以後、芥川の死に至るまで親しい交わりを続ける。
単行本の装丁も『夜来の花』以後はほぼ小穴に任された。
大正11年に生まれた芥川の次男の名前は、小穴の名がもとになっている。
大正12年には芥川立会いのもと、脱疽による足の切断手術を受けた。
晩年の芥川は、小穴に全幅の信頼を寄せて暮らし、より親交は濃いものとなった。自殺の決意を最も早い時期に小穴に打ち明け、死に際しては遺書が残される。また我が子に対する遺書のなかでも「小穴隆一を父と思へ」と述べている。芥川の予てからの意向で、デスマスクを描き、墓の設計も担当した。
小穴の芥川に関する著作には『二つの絵』、『鯨のお詣り』などがある。
大橋房子(おおはし・ふさこ) → 佐佐木房子(ささき・ふさこ)
岡栄一郎(おか・えいいちろう)……1890〜1966
劇作家。石川県生まれ。東大英文科卒業。芥川の一年先輩である。
大正2年に漱石山房に出入りし、芥川が初めて来た頃には常連になっていた。漱石の葬儀に際しては芥川と共に受付を担当した。
大正6年ごろより芥川との書簡の往復が増加し、それと共に我鬼窟の常連となった。劇作は芥川の勧めによるといわれる。
大正14年には、芥川の同級生野口真造の姪綾子と結婚し、芥川は夫婦で立会人と務めた。が、この結婚は不調で翌年12月には離婚。芥川がその事を気に病んでいた様子は書簡などから窺われる。
岡本一平(おかもと・いっぺい)……1886〜1948
洋画家・漫画家。函館生まれ。
東京朝日新聞社に入社、漫画担当となり、鋭い描写と警句で社会や政治を風刺した。現代漫画の創始者。
かの子は妻。
岡本かの子(おかもと・かのこ)……1889〜1939
小説家・歌人・仏教研究家。本名はカノ。東京生まれ。
二歳上の兄の影響で文学に親しみ、大貫可能子の筆名で「明星」に寄稿すると高く評価された。
かの子の処女作は彼女が47歳のときのものであり、それが芥川をモデルとした「鶴は病みき」(昭和11年)であった。かの子は川端康成の推薦文を持って、文壇にデビューした。
芥川をモデルとしたこの作品は、大正12年夏かの子一家が、鎌倉の平野屋へ避暑に出かけた際、隣室だったのが芥川であったために生まれた作品である。二人は一ヶ月ほど親しく交際。作品は日記調で、芥川の日常及び交友関係をも注意深く観察したものになっている。
岡本綺堂(おかもと・きどう)……1872〜1939
劇作家・小説家。本名は敬二。東京生まれ。
東京日日新聞に入社し、のち各紙を転々としながら劇評を書いた。1908年川上音二郎の尽力で「維新前後」を書き、好評を得、1913年には、執筆活動に専念。新歌舞伎作家の第一人者となった。
しかし、芥川の岡本に対する評価はなかなか厳しい。
また芥川が編集した『近代日本文芸読本』第一巻に岡本の『入鹿の父』を取り上げている。
尾崎紅葉(おざき・こうよう)……1867〜1903
小説家。東京生まれ。本名、徳太郎。別号、十千万堂(とちまんどう)など。
山田美妙らと硯友社を興し、「我楽多文庫(がらくたぶんこ)」を発刊。泉鏡花・徳田秋声など多くの門人を世に送り出した。
作「三人妻」「多情多恨」「金色夜叉」など。
小沢碧堂(おざわ・へきどう)……1881〜1941
俳人。東京生まれ。本名は忠兵衛。 初め、子規門下の松下紫人の指導を受け俳句を学び、後に河東碧梧桐の人物に惹かれその門に入る。
小説家や画家と広く交友のあった碧堂は、小穴を通して芥川を知り、以後芥川の俳句を見るようになる。大正9年頃になると、書簡にしばしば碧堂の名が現れており、知り合った頃を推測できるほか、俳句だけではなく、公私に渡って親交のあったことを窺わせる。
芥川の作品には、「魚河岸」に俳人「露柴」の名で登場する。保吉ものの一編であるが、「この話は、(中略)実際にあった話である。」とある通り、この頃の書簡には碧堂と小穴と小宴を開いたという、芥川の記述が見られる。
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