darkgray 第二章
 「4月からフランスに行くから」  悠希に突然言われたのが、2月14日だ。  よりによって、なんでバレンタインを選ぶのだろう。  まぁバレンタインなんて製菓会社の策略だから別にどうってことないんだって言われれば、それまでなんだけど。  「え、あと2ヶ月もないじゃん。いつの間にそんな準備してたんだよ?」  「えへへー」  えへへーどころの騒ぎではない。  困った。  非常に困ったことになった。  ほら、目の前のココアも揺れてるじゃないか……って、地震か?  「なんで?留学?」  「そうそう、語学留学なんだよね。   本当はもっと近い国でワーキングホリデーにしようかって思ってたんだけど、どうせ海外行くなら、   フランス語の勉強も大学でしてたわけだし、いいかなって思ってさ」  彼女は大学を卒業してからフリーターとして社会で働いている。  アルバイトを掛け持ちしていて忙しいだろうに、本当にいつの間に海外行きの準備をしていたんだ?  「なんでまた、突然留学なんて」  「別に、突然ってわけじゃないんだよ。本当は高校卒業したらニュージーランドでワーキングホリデーするつもりだったの。   でも、大祐と離れたくないし、そのときやってたバイトも辞められる状況じゃなくてさ。   だからずっと計画だけでおざなりになってたってわけ」  「その、ワーキングホリデーの計画ってのはいつから考えてたんだ?」  「えーっと、考え始めたのが高校入ってからだね。大祐と出逢う前の話だよ。海外学習ってのをやってみたかったの。   小さい頃からボランティアとか環境問題とかに興味持っててさ。結構これでも真面目な子だったんだよ?」  悠希はふふふ、と笑いながら言う。  「ねぇ、ちゅーして♪」  とこれまたいきなり。大好きな笑顔に負けて、彼女に軽くキスをする。  「じゃなくて、もっと長いのー」  下から目線に弱い僕は再度敗北。彼女の赤い舌に自分の舌を絡め、唾液が完全に混じり合うまで、長いこと唇を合わせていた。  閉じていた目を開ける。  「でも、なんでそんなに大事に温めてた計画を……」  「まだその話続いてたの? だって、大祐と一緒にいたかったんだもん。離れたくなかったんだもん」  「離れたくなかった、って過去形かよ?」  少し意地悪く聞いてみる。  「今もずーーーっと一緒にいたいって思ってるってば!」  「じゃぁなんで」  僕は納得がいかなかった。そんな計画、知らなかった。もう5年も一緒にいるのに、彼女のことを何もわかっていないんだな、と感じた。  「だって……もう23になるんだよ、少しは将来のことちゃんと考えなくちゃって」  「だったら、結婚すればいいだろ!」  思わず叫んでいた。  「それも考えたよ。考えたけど……大祐といるようになって、大学卒業したのに就職しないでバイトしてて、なんか違うのかなって思って。   何もかも大祐に頼って。アパートだってバイトだって生活のことだって、みーんな大祐が手助けしてくれてる。   でもね、それじゃぁ生きていけないんだって思うの。大祐とは離れたくない。   大好きだし愛してるし、エッチだって最高だし、大祐以上の男の人はいないと思う。でも」  一旦言葉を切り、俯いていた顔を上げる。  「独りで、やらなくちゃ」  その顔は、可愛くて優しくてエロい僕の彼女としての顔ではなく、一人の女性、一人の人間としてのきりっとした顔だった。  「でね、留学は1年だから、来年の4月に日本に戻ってくるんだ」  「来年の4月か……」  まだ行ってないのに、もう心は寂しくなっている。  7月の彼女の誕生日の予定も、既に立てていたのに。  9月の5周年記念日の予定も、既に立て始めていたのに。  「なんで、もっと早く言ってくれなかったんだよ」  「だって……」  悠希は再度下を向く。  「だって、なんだよ?」  「なかなか、言えなかったの! 止められるかもしれないって思ったら、言えるわけないじゃん。   だから、決めたときに速攻手続き済ませて、パスポートは前に一緒にオーストラリア行ったときのが使えたから、   その分行くまでの時間短縮できて……」  「僕も一緒に行く」  「駄目!」  彼女は即答した。  「付いて来ないで。勉強するために行くのに、一緒にいたら駄目だよ」  「なんでだよ? 別に一緒にいたっていいじゃんか。逆に一緒にいた方が安心して落ち着いて勉強できるんじゃないのか?」  「そうかもしれないけど!」  悠希は今にも泣き出しそうだった。  「イチから海外でやってみたいの。日本だとどうしても大祐にヘルプ出しちゃいそうで。自分が弱いの知ってるから。   だから、大祐のいない、遠いヨーロッパで、独りで1年間を過ごしてみせる」  僕は笑顔で送り出すべきなのだ。だが、彼女の泣きそうな顔につられて、僕も同じような顔をしてしまう。  「大祐って、ほんと、優しいよね……」  僕は優しいのだろうか。こういうとき、彼女と一緒に泣くのが、優しい男だと言えるのだろうか。  僕はただ、悠希と離れるのが嫌なんだよ。  「必ず戻ってくるって、約束する?」  本当に、涙が出そうだった。  かろうじて彼女にかけられる言葉はこれだけだ。  「約束する。1年後、成田に迎えに来てね」  言うや否や、悠希は僕の胸で静かに泣き始めた。  声を殺して、嗚咽も漏らさずに。  僕は最愛の彼女の栗色の髪を撫でながら、一筋の雫をこぼした。 第三章へ
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