「テディベア・ガール」    ⇒NEXT  BACK  TOP
 
   考えた。夏樹と別れてから、頭の中が真っ白になるくらい、考えた。今までの人生の中で、こんなに頭を使ったことなんてないんじゃないかというほど、考えて、迷った。
 自分の神崎への気持ちは、もうごまかすことのできない確かなものだった。
 夏樹の言った「最後のチャンス」って言葉が、頭の中でぐるぐると螺旋を描く。

 でも、気付いたんだ。問題なのは、オレがその場所に「行くか」、「行かないか」じゃない。神崎がオレのことを好きか、そうじゃないのか、ってことの方じゃないのか。

 オレは1度ちゃんと想いを告げている。それできっぱりとフラれてしまったんだ。だったら、同じことをしたって無意味だ。
 神崎がオレのことを好きな保証なんて、どこにもない。それらしい態度なんて1つも返されたことがなかった。
 もし、少しでもオレに好意を持っていてくれていたのなら、フッたりはしなかっただろう。平手打ちされたことを思い出す。あの時の痛みが頬に蘇った気がした。
 神崎はオレのことなんて好きじゃなかったんだ。
 ただそれだけの話だ。
 そうやって、なんだかんだで迷っているうちに、結局、オレはグランドへと来てしまっていた。
 待ちぼうけをくらうことになってしまう神崎には悪いけど……。もう1度、フラれに行くようなみっともないことはしたくないし。
 だから、神崎の所へは行けないし、行かない。
 グランドには、もうすでに他の野球部メンバーの1年が集まっていて、地面をならしたりしていた。そのうちの1人がこちらを見て、「遅ぇよ!」と声をかけてくる。オレは謝りながら、そいつらに加わった。
 ……うん、これでいいんだ。
 そう、自分に言い聞かせる。これでいい。何度もくり返した。ウソがホントになるくらいに。その思いを定着させる。
 しかし、ようやく自分を納得させかけた矢先。視界に飛び込んで来たものがあった。ここから見える校舎の2階。図書室だ。
 夏樹が言っていた。最近、神崎は図書室で座る場所を変えたんだって。
 そのことについてあまり深くは考えないようにしていた。

 でも……
 神崎は一体何を思っていたんだろう。例えば、オレのことを見るために窓際に移動したんじゃないかとかは……自惚れすぎかな。

 今きっと、神崎は夏樹に指定された場所にいるんだろうな。たった1人きりで。
 うずくまった小さな背中を思い出した。体の方、大丈夫かな。今日は風が冷たい。こんな寒い中、動かずにいたら体に悪いよな。ただでさえ、神崎は普通の健康体とは言えない体をしているのに。
 いや、考えちゃダメだ。そんなことオレが気にすることじゃない。首を振って、その考えを追い払う。それに、たった30分程度のことだ。我慢できない時間じゃない。
 よし。だからこのことはもう、忘れよう――
 あ、でも。
 追い払ったその直後に、別の考えがまた頭をよぎる。
 でも、神崎なら時間が過ぎた後も待っているかもしれない。真面目な性格してるし。オレが行かなかったら、ずっと1人で待ってたりして。
 1時間とか、2時間とか、こんな寒風吹き付ける中で待っていたりしたら。
 うう……
 焦燥感と罪悪感が胃の辺りをきりきりと締め付けた。

「おい、工藤」

 オレがそうやって両者の思いに板挟みになって、葛藤していると。
「ちょっと聞いてくれよ」
 声をかけられた。何か、助かった、って感じだ。とにかく今は他のことで気を紛らわせたい。神崎のことを忘れないと。
 ああ、オレって最悪な人間かもしれない……。
 オレは、普段通りの口調になるよう意識して、
「何?」
 と、聞き返した。
 するとそいつは、
「さっき神崎がそこ通ったんだよ」
 と、言って来た。
 神崎、の言葉に激しく心を揺さぶられた。追い撃ちをかけられた気分だ。言葉のバッシングってこういうのを言うんだろうな……。
 よりによってその話題。
「……それで?」
 動揺が出ないよう、落ち着いた声を出す。
「木野さ、頑張って声かけたのに、まるっきり無視されてやがんの」
 そりゃ、相手はあの神崎だからなー。
 そう返そうとして、はたと止まる。って、ちょっと待った。何で木野が神崎に話しかける必要があるんだよ。
 それってもしかして――
 しかし、オレとそんな疑問は、周りの連中が口々に話し出した言葉に置き去りにされた。

「あれは見事な無視だったなー。かわいそうに」
「神崎って最近、いつにも増して機嫌悪くね?」
「だから、あいつだけはやめとけって言ったのによ。いくら可愛くたって、性格ブスはダメダメ」

 それを聞いてむかっとする。まるで自分のことをけなされたかのような気分だ。何も知らないくせに、神崎の上辺しか見てないくせに、そういうこと言うなよ。
 神崎は性格ブスなんかじゃない。そりゃあ確かに、言葉はきついし、気は強いし、生意気だし、何考えてんのかよくわからない所はある。普通の女の子より数倍は扱いづらいし。
 でも、それは神崎の全部じゃない。
 神崎は強いようで、本当は弱いんだ。普段は虚勢を張ってるだけだ。あれで意外と怖がりなところもあったりするし。生意気なところも、素直じゃないところも、慣れれば可愛いらしく見えてくる。
 それに何より。神崎以上に可愛い顔で笑う子を、オレは知らない。
 と、オレがそんなことを考えていたその時。

「おいおい、そこの1年。無駄話はやめろよ」
 先輩の1人がそう割り込んできた。

 ん? あれ? この声、どっかで聞いたことある。どこでだっけ?
 こちらに声をかけてきた先輩の顔を見る。
 え、この人は! 驚いた。とても驚いた。
 だってそいつは……そう、あいつだったからだ。えっと、名前なんだっけ。夏樹の次にモテる、お馬鹿で度胸のない先輩。神崎に付きまとっているどうしようもない……あ、そうだ、相原だ(すでに呼び捨て。でもそれで十分だ)。
 相原がそこにはいた。
 忘れた頃にご登場だな。
 っていうか、この人、野球部だったんだ!? うわー、まったく知らなかったー。あんま練習に来ないのかな。
「それと、ここで神崎の話はするな。あいつは俺のモノだ」
 相原はしたり顔でのたまりやがった。
 っていうか、何さらっと言ってんだこの人!
「ええ、そうなんですか?」
「先輩と神崎ってそんな関係だったんだ……」
「うわ、俺ショック……」
 いや、ちがうちがうちがう、ちがうだろ!
 周りの言葉にオレは心の中だけで否定した。
 何て妄想癖の激しい先輩だ。腹が立つ。神崎はオレの……って、わけでもないけど、さ。
 そこらへんどうこう言う権利、オレにはないのか。オレと神崎の関係って本当に何なんだろう。

「あの神崎を落とすなんて先輩すごいですね。でも、神崎って扱いづらくないですか」
「まあな。だがそんなことは関係ない。あいつは誰もが認める美人だからな」
 オレは嬉しそうに語る相原から2、3歩離れる。
 うわ、こいつすげー嫌な感じ。
 内蔵がねじれてちぎれるような感覚が全身をつらぬいた。何だろう、いらいらする。これは何だ? オレはいったい何に対して腹を立てているんだろう。
 しかし、その正体はすぐにわかった。
 ああ、嫉妬だ。
 神崎は別にオレの彼女ってわけでもないけど、溢れてしまう醜い独占欲。神崎を自分だけのものにできたらいいのに。
 それに、誰かが神崎のことを気にしていたって、おかしなことじゃないのかもしれない。
 神崎は黙っていればすごい美人だ。しかも、真面目に勉強してるから頭も良い。聞いたところによると、入学以来、ずっとトップ3位以内を維持してるとか。
 うわ、オレとは全然釣り合わない――って、そうじゃなくて。
 そーいや神崎ってモテるんだよな。最近、忘れ気味であった事実だ。神崎をもっと身近な存在に感じていたからだろう。
 そうまで思うのなら、神崎の元に行けば良いだけの話だろ。
 自分で自分に呆れた。行かなければ確かにフラれることもないが、同時に可能性も全部ゼロになる。そんなことはわかっているんだ。でも、足はその1歩を踏み出そうとしない。
 情けないほどの優柔不断ぶりだ。踏ん切りがつかない自分に、だんだん嫌気がさしてきた。
「中身がどうであれ、その器がすべてだからな。ま、1種の俺のステータスだ」
 相原がそう言っていた。

 器、だけ?

 呆然とそれを聞いていたオレはハッとした。胸の内から、飲み下すことのできない混沌としたものが沸き上がってくる。続いて、がつんと頭を殴られたかのような衝撃。
 目の前がくらくらする。
 そうだ。自分は一体何を迷っていたんだろう。周りの騒音が引いていった。
 胸の奥からあの言葉が湧き上がってくる。


 why don't you run――?
 走ったら、どうですか。


 足元にボールが転がっていた。ちょうどいい。オレはそれを拾う。
 相原の方を見ると、まだ得意げに神崎のことを語っていた。この人は神崎の何をわかっているというのだろう。あいつは何よりも自分のことを外側だけで判断されることを嫌がるのに。手の中のボールをぎゅっと握る。
 そして、思いっきりそれを。
 投げた。
 球は相原の顔面にクリーンヒットした。
 周りがシンとする。みんな唖然とした表情でこちらを見ている。
 1番混乱してたのは相原だろう。目を白黒させている。
「お、お前、い、いったい何を……1年の分際で……この俺に……」
「すみません、先パイ。手がちょっと滑りました」
「うそつけ! 何だ、今の完璧な投球フォームは!」
「じゃあちょっとした事故です。事故で先パイの顔がミットに見え」
「ふざけんなッ!」
 ああ、そうだ、こんなヤツと話してる暇なんてない。
 っていうか、この人邪魔だ。
 オレは相原を押しのけて、

「腹が痛い……帰る!」
『は……はあ?』

 ビシッとそう宣言すると、素っ頓狂な声を上げる野球部メンバーたちに背を向けて、グランドを飛び出した。



 *


 平日の昼間の住宅街は閑静だった。すれちがう人もあまりいない。静かだ。耳元で風の音だけがしている。
 今は4時20分くらい。時間的にギリギリだ。間に合うかな。こうやって走ってる意味、あるんだろうか。もしも間に合わなかったらどうしよう。神崎、もう帰っちゃったりしてないよな。気持ちが萎えそうになる。そんなこと考えてもしょうがないか。走るしかない。
 身体がカッカッとしてきた。冷たい風が肺に入りこんで、胸が痛くなる。
 すれちがったオバサンが怪訝な顔でこちらを見てきた。無理ないよ。オレ、ユニフォームでスパイクのままだし。
 何も今日、無理に会って話す必要なんて本当はないのかもしれない。他の日でもきちんと話をすれば、神崎はわかってくれるのかもとも思う。でも、あの日からオレは神崎に話をすることを避けていた。わかってもらう努力をしなかった。そうだ、だからこそ今日じゃなきゃダメだ。こっちの誠意ってものをわかってもらわないとダメだ。そのために今、会って話をしなきゃダメなんだ。
 神社に着いた。境内へと続く階段を駆け上がる。鳥居をくぐり、周りを見渡す。広々として静かな空間。左右に設置された狛犬の像。社を取り囲むようにして生えている木立。境内にはベンチが置かれているが、そこには誰も座っていない。静かだ。誰もいない。

 神崎の姿は、ない。

 思わず、その場でへたりこみそうになった。
 嘘、だろ……?
 結局は無駄骨かよ。もう帰ってしまったんだろうか。いや、始めからここに来る気なんてなかったのかも。
 どっちにしろ、オレがここに来る意味なんてなかったんだ。それを認識すると同時に、どっと疲労感が全身を襲った。
 疲れた。けだるい。もうどうでもいいや。がっくりとうなだれる。
 はあ……オレ、何でこんな所にいるんだろう……。ここで、会えると思っていたのに。引き返す気にもなれず、その場に立ちすくむ。
 と、その時。

「工藤……」

 小さな声が耳をかすめた。一瞬、聞き間違いかと思った。それは焦がれるほどに欲していた声だった。
 顔を上げる。社の後ろから、1人の少女の姿が現れる。
 不機嫌そうだけど、恐ろしく整った顔立ち。白い頬。綺麗な髪。華奢な体つき。何度も思い描いていた姿。
 頭がボーッとなるのがわかった。胸がじんと痺れる。
 神崎だ、神崎がいるよ!
 何でだろう……たった1人の女の子に会えただけで、どうしてこんなに嬉しい気持ちになれるんだろう。
 そうだ、理屈じゃない、感覚なんだ。神崎がそこにいるって。それだけで、そしてそれがわかるだけでいいんだ。これが自分のほしかったものだ。この先、決して手放してはいけない、大事なものなんだ。
 1度、フラれたからってなんだ。可能性はゼロじゃないんだ。だから諦めちゃダメだ。一度ダメだったとしても、そしたら次に希望を繋げばいい。
 オレは諦めない。諦めたらそこで終わりだから。手探りでもいいから道を見つける。そして、何度でもぶつかっていってやるんだ。
「どうして……工藤がここにいるの?」
 神崎の方からこちらに近寄って来た。
 目の前に神崎がいる。手を伸ばせば触れられる距離。
 神崎は驚いているみたいだった。よく状況を理解してないって感じだ。
「どうしてって、神崎も、夏樹に言われたから、ここに、いるんだろ」
 息が乱れてうまく話せない。何とかそれだけを言うと、神崎は戸惑ったように頷いた。
「そ、そうだけど。てっきりルカが来るのかと思ってた」
 ああ、そうか。
 話を持ちかけたのが夏樹だったから、神崎は夏樹と待ち合わせているつもりだったんだ。
「で、でも、工藤。練習は?」
「抜けてきた」
「え……大事な試合って言ってたのに」
「大事だよ、いや、試合じゃなくたって、オレには野球がすごく大事なんだ。今まで野球より優先したものなんてない」
「じゃあ、どうして?」
 神崎が静かな声で言う。その声がオレの内で眠っていた何かを揺り動かした。不思議な力が体の奥からわいてくる。
 その力にすべてを任せた。ためらいも恥ずかしいという気持ちもなかった。言葉は勝手にするりと出て来た。

「……もっと大事なものがあるからだよ」

 あのさ、親父様言ったよな?
 『好きな子ができたらガンガン攻めて落とせ!』って、言ったよな?
 わかったよ、思い切って行ってやるさ、どこまでだって!

「オレは神崎のことが好きだ!」

 思っていたよりも大きな声が出た。神崎は目を丸くしている。
 でも、構うもんか。どんなにみっともなくったって、これが神崎に伝えたい、そして伝えなきゃいけない気持ちなんだから。
 上手い告白の仕方なんてわからない。だから、ただ思ったことを伝える。

「離れるなんて嫌だし、話せなくなるなんてもっと嫌だ!」
「何言って……」
「嫌なものは嫌なんだ!」
「も、もう! うるさい、声が大きい!」
「好きなんだよ! 大切なんだ! だから……」

 神崎の目を真っすぐに捕らえる。
 そして、言った。

「……本当にオレと付き合ってほしい……」

 結局、忘れたようにやって来た気恥ずかしさに負けて、声は尻すぼみになってしまう。それでも最後まで言えた。伝えきった。後は神崎の返事次第だ。
 神崎の瞳が何かの光に揺れた。それは拒絶ではなかったと思う――たぶん。
 しかし、それが何かを確認する前に、神崎はくるりと後ろを向いてしまった。顔が見えない。
 え、それってどういうこと?
 神崎の背中を呆然と見ながら考える。
 つまりダメっていうことか?
 一瞬、絶望的な気持ちになる。だけど、それをすぐに追い払った。いやいや、決め付けちゃダメだ。神崎はまだ何も言ってないんだから。
「神崎、オレが嫌いか? オレじゃあダメなのかな?」
 すがるような思いで言葉を継ぐ。神崎は何も言わない。黙ったままだ。
「神崎?」
 答えるのは沈黙だけ。だんだん、不安の方が大きくなる。もしかして、後ろを向いたのってもうこちらの顔も見たくないってこと? そう考えると、神崎の背中もはっきりと拒絶を示しているように思えてきた。
 そうか……神崎は……

「あ、あのね」
「そっか……」
 神崎がようやく言葉を発してくれたが、オレはそれを遮って言った。

「神崎、実はオレのことが嫌いだったんだな……」
「いや、そうじゃなくて」
「それならそうと言ってくれればいいのに……そんな迷惑だったなんて」
「だからね」
「それなら神崎のことはきっぱりと諦めるよ……いや、でも……やっぱり。どうしよう……」
「あーもー、ウザい! ちょっと黙れ!」

 神崎がようやくこちらを向いて、怒鳴った。
「人の話は最後まで聞く! というか、さっきから1人で突っ走りすぎ! こっちはついていけないの!」
「ご、ごもっともです、ハイ……」
 神崎の前でこくこくと頷く。
 あー、何か一気に雰囲気おかしくなった。もう1度、告白するなんて無理だ。
 そう思いながら、神崎の顔を見て――
 その表情にオレは息を呑んだ。
 神崎は顔を真っ赤にしていた。頬っぺたはもちろん、首の方や耳たぶまで赤くなっている。神崎が頬を染める様子なんて初めてだ。
 後ろを向いてたのって、これを隠すためだったのか?
 そっか、神崎は照れているんだ。さっき怒鳴ったのだって、照れ隠しだったんだ。
「だ、だから……その……こっちが言いたいのは」
 神崎はちょっとうつむいて、目をつぶった。そして、しぼりだすようにして言った。

「……す、好きだよ……」

 聞こえないくらいの小さな声。
 風の音が止んだ。ただでさえ静かな空間が、更に水を打ったかのように静まり返った。音が切り離される。世界も、そして、時間も止まった。ここにはオレと神崎だけ。
 神崎の言葉が浸透するまでに、時間がかかった。数秒の間を空けてから。
「え?」
 と、オレ。ようやく言えたのがそれだ。
 本当ははっきり聞こえていたけど、とぼけたフリをして、
「神崎、もう1度言って」
「何で!?」
「聞こえなかった」
 堂々と嘘を言ってみる。
 神崎は目を逸らし、これ以上赤くなれないってくらいに赤くなった。

「う……す、好き…………」
「もう1回」
「だ、だから…………すき」
「ダメ。ちゃんと声出して」
「す……好きだってばッ」
「誰のことが?」
「えっと、だから、工藤のことが、す……って、だー、しつこい! 本当は聞こえてるくせに!」
「え、そうだけど?」
「否定しろーッ!」

 怒鳴る神崎をオレは笑いながらいさめた。
「まあまあ。何回言うか試してみただけだって」
「試すな!」
 神崎は目を吊り上げて怒ったが、顔が真っ赤だから全く怖くなかった。むしろ、それが照れ隠しなんだとわかったから、可愛いらしく映った。
 やっぱり神崎はちょっと不思議な目の色をしている。瑠璃色の輝き。それに触れてみたかった。抱きしめてみたいな、と思った。
 いや、頭の中で考えているだけじゃダメだ。結局、チャンスを逃すことになってしまう。もう手放したくないんだ。だから、ちゃんとつかんでおこう。いなくなってしまわないように、しっかりと抱き留めておこう。
 オレは神崎を抱きしめることにした。

 手を伸ばして、神崎の背中に触れる。そっとその身体を抱きしめた。思ったよりも神崎の体は小さくて、腕の中にすっぽりとおさまった。
 神崎は驚いたみたいだが、全然嫌がらなかった。それどころか素直に体を預けてくる。そして、こちらの背中にも手を回された。
 夢みたい、だ。こんな風になれたらいいと思ってはいたものの、それは手の届かないずっと遠いところにあるかのような気がしていた。それが現実のものになっている。信じられない。神崎がオレと同じ気持ちでいるなんて。
 神崎の身体は冷え切っていた。長い時間、こんなに寒い中で動かずにいたからだ。そして、待たせてしまったのはオレだ。少しでもこちらの温もりが伝わればいいと思って、更に強くぎゅうと抱きしめた。
 しばらくの間、そうしていた。
 体を離して、視線を下に向ける。神崎がこちらを見つめてくる。至近距離でその瞳を覗き込んだ。
 吸いこまれそうな深みを持った色彩。その色に誘われるようにして、唇を重ねていた。神崎は瞬間、身体を固くしたが、すぐにその緊張は解けていった。
 唇が離れると、神崎はオレを見上げてにっこりと照れたように笑う。
 そして、オレも笑っていた。

「今からでも遅くないよ。学校に戻ったら」

 神崎がそんな提案をしてくる。オレは首を振って、もう1度神崎を抱きしめた。
「やだ、神崎といる」
「……やだじゃない」
「イヤなものはイヤだ」
「何わけのわかんないこと言ってんの。戻りなよ」
「後で帰る」
「他の人に迷惑かかってるよ」
「それくらい考えたさ」
「じゃあ行きなよ」
「でも、きっともうオレの代わりに誰か」
「いいから行けっ!」
 とうとう怒鳴られた。
 しぶしぶ神崎から離れる。
 ……ま、いいか。
 どうせこれから毎日会えるんだから。
「早く行って」
「はいはい」
 後ろ髪引かれる思いで、神崎に背を向ける。

「走る!」

 とろとろ歩いていたら、再び怒鳴られた。うわ、また走らなきゃいけないのか。めんどくさいな。でも、今回は行きとちがって、やけに足が軽い。学校までの距離なんて、きっとあっという間だ。
 地面をけり上げ、駆け出した。

「あ、ちょ、ちょっと待って、工藤っ!」

 距離が開いたところで、呼ばれた。
 振り返る。
 何か丸いものが弧を描いて飛んできた。長年つちかってきた経験の条件反射みたいなもので、オレはそれをキャッチした。
「それ、階段の所で拾った!」
 神崎がそう言う。
 受け取ったものを見た。それはオレのボールだった。親父様の宝物で、オレが初めて野球を教えてもらった時の、ボールだ。
 握ってみる。確かな感触がある。これはただのボールじゃない。大事なボールなんだ。
 ――でも。
 オレはそれを神崎に投げ返した。
「やるよっ!」
 って、しまった。言ってから、後悔する。あれ、親父様の形見とは言っても、他の人から見たらただのボールだし。一応、サイン入りだけどさ、神崎は野球に興味ないもんな。あんなボールもらっても困るだけだろう。
 と、そう思ったのだけど……

「うん!」

 神崎はボールを抱えて、笑っていた。にこにこと笑っていた。満面の笑顔だった。
 それはもうどんな人間でも、それこそ老若男女を恋に落としそうなほどの、素晴らしい笑顔だった。


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