ひとりぼっちになれない





 長引いてしまった榊監督とのミーティング。5限目の授業はもうとっくに始まり、廊下はシンと静まり返っていた。時折聞こえてくるのは、通り過ぎる教室で行われている教師の授業の声。自分の足音と、ドア越しに聞こえる教師の声だけの誰もいない廊下を歩き、俺は階段を降りた。
 階段の踊り場まで来ると、ひとりの女子生徒の後姿が見えた。壁によりかかり、階段に座り込んでいる。
 その後姿は、見覚えのある、見慣れたものだった。



 授業ももう始まっているというのに、こんなところでコイツは何をしているんだ。
 驚きとも、呆れともつかない感情が俺の中に浮かんだ。は俺が名を呼んでも驚くそぶりを見せず、壁に体を預けたままゆっくりと顔だけをこちらに向けた。

「景吾」

 そうしても、俺の名だけを呼ぶ。お互いに、それ以上何も発しなかった。俺は緩い足取りで階段を降り、はそれをただ見ていた。
 が座っている段に立ち、を見下ろす。はただ俺を見上げていた。

「んなとこに座ってたら汚ぇだろ」
「いいの」
「冷えるぞ」
「いいの」

 授業は、とは聞かなかった。同じように「いいの」と返事が来ることが分かっていたからだ。最初のふたつの返事も、「いいの」だということは分かっていたが。

「部室…は遠いか、仕方ねぇ生徒会室に行くか」
「いいの」

 首を振って、はそう答えた。

「こんなところにいたら教師に見つかるだろ」
「いいの」
「お前、それしか言えなくなったのか」

 溜息をつけば、はそこで初めて表情を変え、微笑んだ。

「それ面白いね」
「面白くねぇよ」

 俺はの隣に腰を降ろした。するとは、壁に寄りかけていた体を動かし、今度は俺に寄りかかった。

「こんなところに座ってたらお尻汚れちゃうよ」
「いいんだよ」
「冷えるよ」
「いいんだよ」
「先生に見つかったら、景吾まで怒られちゃうよ」
「俺は怒られねぇからいいんだよ」
「えー、怒られるの私だけ?」

 の真似をして答えてやれば、先ほどより弾んだの声が聞こえた。けれど最後の言葉にだけ、一言付け足してやればは不満そうな声を出した。そんなの表情は、俺からは読み取れない。見えるのは、の頭、前髪だけだ。
 教師からの信頼が厚い人はいいねぇ、と抑揚なく響いた声を最後に、俺もも言葉を発しなかった。




 それから、どれくらいの沈黙が続いたかは分からない。静まり返り気配の空間、そこに微かに聞こえてくる教師の声。いつもとは違うその空間に、時間の感覚は掴みづらかった。5分だったのか、その倍だったのか、それよりもっとか。

 こんなところで何をしているんだ

 最初に感じた疑問を、俺は口にしていなかった。タイミングを伺っているわけでも、聞きづらいわけでもない。けれどそれを聞くのは、なんだか野暮ったく感じるのだ。それに俺が聞かなくとも、は自分から口を開くだろうと、そう思っていた。

「わたしね」

 ぽつり、と。が口を開いた。

「ひとりぼっちになりたかったの」

 そうして、再びそれ以上が口を開くことはなく沈黙が流れた。俺の予想通り、俺が聞かなくともの口から紡がれた、ここにいる理由。

 ひとりぼっちになりたかったの

 それで授業を抜け出し、ひとりでここに座り込んでいたっていうのか?
 確かに今ここは、いつもいる教師も生徒もいない、ひとりぼっちの空間だったはずだ。俺が来る、までは。けれど微かに聞こえる教師の声や、生徒の気配。静かな空間に広がるこの気配は、“ひとり”を感じられるものだったのだろうか。
 俺は眼下に見える前髪をただ眺めた。

「いつもは皆がいる場所に誰もいなくて、私だけ、ひとりぼっち」

 だけどね、と。
 ぽつりぽつり、とは言葉を紡いだ。静かな空気に言葉を乗せるように、ゆっくりと、静かに。

「私から遠い場所、教室から感じる気配にね、私は今ここでひとりだって最初は感じていたのに」

 それなのに、と。
 は俺が思ったことと同じことを感じたようだった。

「遠くから感じる気配に、私って全然ひとりじゃないんだって、逆に感じちゃった」

 ひとりぼっちにはなれないんだね。

 息を吐き出すように、それまでゆっくりと空気に乗せるように話していたが、最後は吐き出すように、空気を動かすように声を出した。

「みんながいるから、私はひとりでいることを実感するだなんて、そんなの全然ひとりぼっちじゃないよね」

 ──────ひとりぼっちにはなれないんだね。

 のその言葉は、声は、ひどく表現のしにくいものだった。ひとりぼっちを望んだはずなのに、それを得られなかった不満、つまらなさ。あっけないような、肩透かしをくらったような感覚に、ひとりぼっちではないということの漠然とした温かみだろうか。溶けて消えてしまったの言葉には、声には、どんな感情が含まれていたのだろうか。

「わたし、なんでひとりぼっちになりたかったんだろうね」
「さあな」
「なんでだったんだろう」
「ひとりぼっちになれなくて不満か?」
「…ううん。そもそも私はひとりぼっちになる気がなかったんだよ」
「どういう意味だ?」
「ねえ、わたしは…」

 眼下にあった、前髪が揺れる。は顔を上げて、俺を見上げた。お互いの瞳に、お互いの顔が映る。

「ひとりぼっちになれると思う?」

 は、そう問うて俺をじっと見つめた。その瞳には、俺しか映らない。
 ──────ひとりぼっちになれると思う?
 その質問には期待も、不安も、何も込められていなかった。ただ確かめるように、問うように、は俺を見つめていた。

「なれねぇだろうな」
「どうして?」

 俺の答えに、は微笑んだ。そして質問を重ねる。俺はその質問に笑い返して、口を開いた。

「ひとりぼっちにはさせてもらえないからだろ」
「誰に?」
「俺に」

 うん、とは笑って、満足げに俺を見つめた。

「私ね、ひとりぼっちなりたかったのに、こうやってここに座って、景吾のこと考えてたの」

 きっと、ほんとうに世界中に私しかいない、ひとりぼっちになっても、私は ひとりぼっちにはなれないんだよ。だって、心の中にも、頭の中にも、景吾がいるんだもん。ひとり膝を抱えてうずくまって、そうしてきっと景吾のことを想うの。これって、ひとりぼっちって言わないよね?

「そうだな」

 俺はの額に口付けを落として、そう答えた。


 俺もきっと、 ひとりぼっちにはなれないのだろう。世界中に俺しかいない、そんな状態になっても。俺はひとり佇んで、そしてを想うのだろう。瞳を閉じれば、瞼の裏にが映るのだろう。

 それは、ひとりぼっちではない。



 俺もも、決して ひとりぼっちにはなれないのだ。






20110220
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