失った後も、永遠に失われないもの





 やわらかな陽射しが差し込む午後。ローテーブルの上には二人分のティーセットと、私の分のラズベリーケーキ。私は床に座って、ソファに背をもたれかからせながらフォークを掴んだ。「床に座らないでソファに座れ」と初めて景吾の部屋に招かれた時は注意されていたのも「この方が落ち着くんだもん」という私の意見に押されたのか、もう今では何も言われず、私のお尻の下には私専用のクッションが用意されている。景吾は私の背にあるソファにゆったりと座っていた。座り心地最高の景吾のソファが、落ち着かないわけがない。ただ私は、ソファに座りながら上手にケーキを食べる自信がないだけなのだ。初めてこのソファに座って、ケーキを出された時。こぼしたら困ると思って「降りていい?」と私が景吾に聞いた時の、景吾の怪訝な顔は今でも忘れられない。何を「降りる」のかと不審に思った景吾が私の「ソファから床に降りていい?」という意味を理解したときの、呆れた笑顔も、もちろん今でも忘れられない。
 そんなことをふと思い出しながら、私はラズベリーケーキにフォークを刺した。そういえば初めて出されたケーキも、ラズベリーケーキだった。

「ねえ景吾」

 テニス雑誌を見ているんだか、見ていないんだか分からないほど適当にぺらりぺらりとページを捲る景吾の斜め下で、私はケーキをひとくち口に運んでから景吾に声をかけた。景吾は返事をせずに顔だけ私に向けて、ページを捲る手を止めた。私は紅茶にもひとくちだけ口をつけてから「─もし」と話を続ける。

「もし、好きなものを手に入れた後に、いつかは必ず失うと言われたらどうする?」
「ハァ?」
「失うその日まで、手にしとく?それとも、失ったショックが大きくなる前に、今すぐ手放す?」
「なんのオハナシだ」

 私は上半身を景吾の方へ向けて、身を乗り出すように両腕をソファに乗せた。「なんのオハナシだ」だなんて、バカにしたような言い方してるわりに、景吾は私の話に乗ってくれるようで読んでいたテニス雑誌を閉じた。

「ねえ、景吾ならどっち?」
「好きなもんは手放さねぇ」
「それはダメ。いつかは必ず失うの」
「それでも俺は自ら手放したりしねぇな」
「じゃあ、失うその日まで手にしとくんだ…そっちの方が幸せだと思う?」
「好きなモンを自ら手放すことに幸せなんかあるのかよ」
「だって、早く手放したほうがきっとショックは少なくてすむよ。ずっとずっと手にしてたら、失った後は立ち直れないかもしれない」
「だから、なんのオハナシしてんだ」

 私が何か、映画か小説のオハナシをしていると思っているらしい景吾は、あまりに真面目に問いかける私を鼻で笑った。映画でも、小説でもないよ。私は、景吾のオハナシをしてるんだ。
 景吾と出会って、たいせつな、しあわせな毎日をいちにち、またいちにちと過ごしていた私は、あるときふと気がついたの。私は景吾とのこのたいせつな、しあわせな毎日を失ったらどうなってしまうんだろう?って。いちにち、またいちにちと過ぎていくにつれて、少しずつ少しずつ、こわくなるんだよ。景吾との毎日を重ねるたびに、失うこわさが増えていくの。そうしたら、ねぇ?こわさが増える前に手放すのと、それでもしあわせな毎日を重ねるのと、どっちがしあわせなんだろう、なんて考えるようになってしまったの。日々増えていく、大きなしあわせを知る前に手放した方が、上手に手放せるかもしれない。少しずつ、増えていくしあわせを知れば知るほど失う時の代償は、きっと計り知れないほど大きいと思うんだ。
 もう今でも、私にとって失う代償は計りきれないほどだけれど。

「ずっと手にしてたら、失ったときのショックが大きすぎて死んじゃいそうになるかもよ」
「じゃあ死ねばいいだろ」
「……ひどい」
「好きなモンを自ら手放した後の人生なんて、それこそ死んだようなもんだろ」
「………」
「それに、失ったとしても失うまでの間は俺のものだ」

 鼻で笑って、バカにしていた瞳はどこへ消えたのか。真剣な色をしたアイスブルーの瞳に見つめられて、私は瞬きも出来なかった。

「失った後も、俺のものだった時間は永遠に失われず、俺のものだろ」
「…うん」
「じゃあ手放す理由がどこにある?」
「………ない、です」

 私がこわくて、悩んだり、涙を流したあの日々はいったいなんだったんだろう。こんなにも簡単に、答えはでるものだった?
 私はアイスブルーの瞳に見つめられながら、ゆっくりと瞬きを一回した。開いた瞳には、優しく微笑む景吾が映る。
 喉につっかえていたものがストンと落ちたような、開かなかった扉が急に開いたような。胸につかえていたものが、あまりに急になくなってしまって、私はあっけにとられていた。私がどうしてこんな“オハナシ”をして、私の言う“好きなもの”が何なのかなんて、景吾に言ったらきっとバカにされるから、絶対に言わないでおこう。
 私の瞳に映る景吾は“永遠に失われず私のもの”なのだと思ったら、うれしくて、しあわせで、頬が緩んできてしまった。

「まァ、でも。どうしても失いたいっつーんなら」
「…え?」

 急に景吾の片腕が伸びてきて、抱き寄せられるのかと思えばそのまま私を素通りしてゆく。思わず景吾の手が伸びた方に顔を向ければ、私の目の前を再び通り過ぎてゆく景吾の腕と、可愛らしい赤色をした───ラズベリーケーキ。
 あ、と声を出すも間に合わず、私のひとくちしか食べていないラズベリーケーキは景吾の口の中へと、ひとくちでおさまってしまった。まだひとくちしか食べてないのに、この男はひとくちで全部を食べたあげく、眉間に皺までよせている。私はソファに飛び乗り、景吾に詰め寄った。

「私のケーキ!」
「甘すぎねェかこれ」
「だってそれ私用に用意してくれたやつだもん!」

 私の好みに合わせて、執事さんが用意してくれたやつなのに!それなのに、ひとくちで全部食べちゃうなんてひどい。ケーキの場合は、すぐ手放すよりも、失うときまで食べてた方が幸せなこと、分かりきってるのに!

「いつもこんな甘いの用意してんのか、あいつ」
「違うよ、今日は紅茶だから特別。ホットチョコレートの時は甘さ控えめなの出してくれるもん」
「あ、そ」
「なんでそんな興味ないくせに食べちゃったの!?」
「お前が失いたがってるからだろ」
「ケーキのことじゃないし、失いたくないから聞いたのっ」

 ラズベリーケーキ、久しぶりだったからすっごくすっごく嬉しかったのに!食べ物の恨みはオソロシイ、だなんて景吾には分からないんだろうけど、なんて思いながら景吾の指についたラズベリージャムと、景吾を交互に睨めば、そんな私にはおかまいなしとでも言うように景吾は笑って私の頭に手を置いた。

「その時は、死なねぇように振ってやるから安心しろよ」
「え…………………振るの!?」

 急に何の話かと思えば、どうやら景吾には私がどうしてあんな“オハナシ”をして、私の言った“好きなもの”が何だったのか全てお見通しだったようだ。その事実に呆然としていた私の頭に遅れて入ってきたのが「死なねぇように振ってやる」というありがたいような、ありがたくない景吾の言葉。衝撃を受けて息が詰まる私を見て、景吾は瞳を細めて声を出して笑った。私とは全然違う会話をしていたかのように、衝撃を受けている私とは正反対に、それはそれはとても楽しそうに。
 …こんなに楽しそうに笑っている景吾はちょっと久しぶりかもしれない。

「でも今の景吾は“永遠に失われず私のもの”だからね。“これ”も」

 私はラズベリージャムがついている景吾の指にかぶりついた。私のラズベリーケーキを食べちゃったことも、私の不安を簡単に解決しちゃったことも、私をバカにしてこんなに楽しそうに笑っていることも。ぜんぶぜんぶ悔しくて、私は景吾の指にがぶりと歯を立てた。




永遠に、あなたとわたしのもの






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