だって僕のお姫様





 空気が肌寒くなってきた季節の変わり目。あたたかいココアのマグカップがふたつ寄り添うようにテーブルに並んでいた。そのマグカップと同じように、私とジローちゃんも仲良く二人くっついてお喋りをしていた。私の膝に、ジローちゃんが頭を乗せて私を見上げながら楽しそうに昨日の部活での出来事を話す。そんなジローちゃんを見下ろしながら、私はふわふわの頭を撫でて頷くのだ。
 そんな穏やかな空間を壊したのは、私だった。今朝から少し調子が悪いと思っていた喉が、今になって突然不調を訴え始めた。

「でさでさ!そしたら跡部が」
「コンコンッ、ん、跡部が?」
「宍戸と」
「コンコン、コホッ…コン、ん、ごめ、コホッ、コンコン」

 ジローちゃんの会話も、私の言葉も、遮るように突然出始めた咳は中々治まってはくれなかった。私は顔を逸らし、口を押さえて咳き込んだ。さっきまで平気だったのに、いきなりどうしたんだろう。ジローちゃんは私の膝から頭を上げて、座りなおしながら心配そうに私を見つめた。

「だいじょうぶ?」
「ん、大丈夫。コホッ、ごめんね、コホッ」

 すぐに治まると思ったのに、ひとつ咳をすればふたつ、ふたつ咳をすればみっつ、どうしてか咳が止まることはなかった。苦しい…うっすら涙まで浮かんでくるほど咳き込む私に、ジローちゃんの手のひらが優しく私の背中を撫ぜてくれた。

「…だいじょうぶ?」
「うん、コホッ、平気だよ。コホコホ、…ジロー?」

 咳き込みながらも笑顔で返事をすれば、ジローの様子が変だった。咳き込んで苦しいのは私の方なのに、何故かジローの瞳にも涙が浮かんでいる。

「おれ…おれ」
「コンコン、コホッ、え、ちょ、ジ、コホッ、ジロ?」

 涙目で私を見つめるジローに困惑していると、ポロリとジローの瞳から涙が落ちた。

「やだよ…おれ」
「え?コンコン、なんで泣い」
「やだぁぁ〜〜〜〜〜!!!」
「ええ!?コンコン、ちょっと、な、コホッ、なに」

 泣いていると思えば私に思い切り抱きついてきて、わんわんと泣き始めてしまった。咳が止まらなくて苦しくて背中を撫でてもらいたいのは私の方なのに、何故か私が片手で自分の口元を覆って咳をしながら泣いているジローの背中を撫でた。なんでいきなり泣き始めちゃったの、と言おうとすれば耳がキーンとなるほどのジローの大声が私の鼓膜を刺激した。

「おれをおいて死なないで〜〜〜〜!!」
「死!?コホッ、んなワケ」
「それびょうきなんだよね!?」
「コホッ、ち、ちが」

 勝手に殺すな!と言いたくても咳が止まらなくて言葉にならない。それを肯定ととったのかジローはわんわんと泣き続けている。きっと最近乾燥してきてるからそれでちょっと喉を痛めちゃって、なんのタイミングか分からないけど咳が止まらないだけなのに、それだけで死んじゃうだなんて、なんて病気なのそれ!

「やだよ…おれ、やだよ!」
「違うから、泣、コホコホッ」
「うわぁああああああああああん!」

 今までも“不思議なジローちゃん”は数多く見てきたけど、流石にこれはふざけてるの?と言いたくなる。私一体なんの病気なの?そんな簡単に死んじゃうの?まったくもって病気じゃないし死ぬわけもないけど、本当に苦しいんだってば!咳は止まらないしジローも泣き止まないし、もォ〜…助けて!
 私はジローの背中を撫でる気も弁解する気も起きなくて、ただジローの背中にしがみついて咳き込んだ。私と同じようにジローも私にしがみついて泣き続けている。ああもう…どっちも止まって。
 治まったかと思えば咳き込んで、治まったかと思えば咳き込んで、そうして数分咳をし続けてジローも泣き続けて、いい加減私は腹筋も喉も痛くて、耳元で泣くジローの声に耳も体も疲れてきた頃、何故かピタリとジローの泣き声が止まった。相変わらず私の咳は治まってくれないみたいだけど。今度は一体どうしたのかと思えば、ジローは「こうしちゃいられない!」と私の体を離して慌てて携帯を掴んで耳元に当てた。

「跡部!今すぐ行くから最高の医者を用意しておいて!が死にそうなんだ!!」

 ジローは一気にそれだけ叫ぶとすぐに携帯をポケットにしまい、私に振り向いた。私はあまりのセリフに唖然としていると突然腕を引かれ何も言えないまま気付いたら自転車の後ろに乗せられていた。待って、ただの咳だから!びっくりして今もう咳止まっちゃったし!それに私、靴、靴も履いてないよ!!走り出した自転車を運転するジローに叫ぼうと口を開けば、私の口から出るのは止まったはずの咳だけだった。






「坊ちゃま?」
「…ジローが後10分くらいで来る、とりあえず医者を呼んでおけ」
「景吾坊ちゃまの私室でよろしいのでしょうか」
「あァ、医者もジローもこっちに通せ」
「かしこまりました」

 着信を知らせる携帯の通話ボタンを押し、耳元に当てる前に受話器から聞こえたジローの叫び声は当然使用人にも十分聞こえているようだった。冗談なのか何なのか分からないジローの叫び声に軽く困惑する使用人に指示を出せば微笑んで部屋を出て行った。ジローのおかしな行動は今に始まったことじゃねぇ、微笑ましいとでも思ってんだろ。とりあえず受話器を耳に当てていなくて良かったぜ、と俺は溜息をついて読みかけていた本に目を通した。が死にそうだなんて大袈裟な、きっと風邪でもひいて熱がある程度だろ。


 数ページめくった所でバタバタと騒がしい足音が廊下に響いた。バン、と開かれる扉に顔だけ向けるとゼエハアと息を切らしながら涙で顔がぐちゃぐちゃのジローと、そのジローに横抱きにされながら苦笑いを浮かべるが見えた。ジローの慌てように使用人も焦っていたようだが、の顔色はまったく悪くなくむしろ恥ずかしがっているのか血色の良い頬をしている。予想以上に元気じゃねぇか。

「跡部!医者は!?」
「もう5分ほどでお着きになられます」
「だとよ」
「早くしないとが死んじゃうよ!」

 なんだこの取り乱しっぷりは。どこぞのドラマか。泣き叫ぶジローに呆れながらに視線を向けると相変わらず苦笑いをしたまま、片手で口元を多いひとつ咳をしただけだった。
 とりあえずをソファに座らせろ、とジローを落ち着かせるように指示すればちょうど医者がついたようで部屋の扉がノックされた。「お見えになられました」という使用人の声を聞いてジローは立ち上がり扉へと走った。その隙に向かえに座るに「お前一体どんな難病だよ」と呆れながら聞けば小さな声で「…咳」と一言返ってきただけだった。おいおいふざけんなよ。

「お前咳だけで死ねるのか」
「…なワケないでしょ」
「ったく、飴でも食ってろよ」
「だってジローちゃんが突然泣き出して、気付いたらコ、コホッ、コンコン」

 今まで大人しかったが突然咳き込みだした。それを聞きつけたジローが医者の腕を引いてソファへと血相を変えて戻ってくる。確かに、咳き込みだしたの咳は止まる気配がなく苦しそうではあるが、お医者様ごっこしてんじゃねーんだぞ。今更始まったことじゃないにしろ、いい加減にしろよと思いながら俺は読みかけていた本を開いた。
 ジローの声だけを聞いていればは今まさに死にそうに聞こえて俺は更に呆れた。

!喋るなって言ったのに!」
「コンコンコン、コホッ、へ、いき」
「平気じゃないよ!先生、早くを見てあげて!」
「あ、あぁ、はい。咳が止まらないんですね?」
「先生お願い、を死なせないで!」
「え、えぇ大丈夫ですよ。症状は咳だけですか?」
…きっと助かるからね」

 困惑しきった医者はうるせぇジローの相手をしつつの診察を始めれば、見ての通り熱もなく特に体調不良もない。ただ喉が炎症しているだけだから咳止めを飲んでいれば大丈夫だとジローに告げた。風邪の引きはじめのようだから温かい格好をして悪化させないようにね、と微笑めジローはそれでも信じられないと言う顔をして「本当に死なないの!?病気じゃないの!?ちゃんと見てよ!」と医者に詰め寄った。いい加減にしろ、と医者に詰め寄るジローを引き剥がせばも申し訳なさそうに医者に頭を下げた。





 押しかけただけでも迷惑なのにお医者さんまで呼ばせちゃうなんて本当にありえない…。まさか跡部も本当にお医者さん呼んで待ってるだなんて!跡部んちまで来ても「風邪だバカ」って跡部に怒られればジローも大人しくなると思ったのに。ほんとに…色々と申し訳なくて疲れた…ジローは未だに病気じゃないかって疑ってるし。
 とりあえず私はもらった薬を飲んだ。ハァ、と溜息をついて跡部に謝れば「まったくだ」とふんぞり返られた。跡部がお医者さん呼んでくれなければ良かったと思うんですけど…と言いたいのを堪えて私は再び頭を下げた。これ以上迷惑をかけないように帰ろうとすれば膝にいつもの重みが。膝を見て見れば案の定ジローが私の膝に頭を乗せて寝転がっている。あああもう、いい加減跡部に怒られちゃうから!

「オイ、薬も飲んだんだから帰れよ」
「だってまだ咳してる」
「んなすぐに効くわけねぇだろ!」
「やっぱ病気だったんじゃ…もう一度ちゃんと見てもらうから医者呼んでよ跡部!」
「テメーの友達じゃねーんだからホイホイ呼べると思うな!」
「ジローちゃん…もうあんまり跡部を困らせちゃダメだよ、咳も止まってきたし、ね!」
「ほんとに?」
「ほんとほんと、もう大丈、コホッ、コンコンコホッ、ケホケホッ」

 しまった。黙っていれば平気なんだけど、どうにも喋り始めると咳が出始めてしまう。だから喋らないようにしてたのに、空気の読めない私の咳は止まってはくれないようだった。そんな私の咳にジローちゃんは目を丸くして瞳に涙を溜め始めた。ちょっとちょっとちょっと…!

「…また!」
「コホコホッ、ジロ、コホッ、へいき」
「平気じゃないよ…あの医者やぶ医者だよ跡部!」
「いい加減にしろ!!」

 そしてついに跡部のカミナリが落ちた。






20090929
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