夜よりももっと暗い街並みでふたり





 景吾から電話が来たのは、夜の23時。今から30分ほど前のことだった。

『後30分でそっちに行く。出られるか?』

 という簡潔な一言。平気だと返事をすれば、着いたらまた電話する、と言って電話は切れた。
 景吾が来るまでの間、私は深夜番組を見流しながら簡単に身なりを整えた。と言ってもTシャツにショートパンツという格好は変わらず、髪を梳かしてリップを塗った程度だけれど。そろそろ寝ようとしていた状態で、部屋着のまま迎えるのはどうかと思ったが、こんな時間にあえて気合いを入れて着替え直すのもなんだか不自然な気がした。
 明日も学校があるのに、どうしたんだろう。
 そんなことを思っていれば、再び携帯が鳴った。ボタンを押して耳に当てれば『着いた』という景吾の声が耳に響いた。

 家の外に出て、私は軽く驚いた。スーツを着た景吾がひとりで立っていたからだ。スーツを着ていることよりも、ひとりで立っていたことの方に私は驚いていた。

「ひとりで来たの?」
「車は先に戻らせた」
「帰りは?」
「タクシーでも拾う」

 そう言って、景吾は私の返事も待たずに歩きだした。私も追いかけるように一歩を踏み出して、景吾の隣に並んだ。いつも車で来て、帰りだってまた迎えに来させるのに、先に帰らせただなんて珍しいことだった。
 どこに行くのかも分からずに、黙って歩く景吾の横を黙って歩く。黙っているけれど、景吾の歩幅は私に合わせてゆっくりだった。
 Tシャツにショートパンツにサンダル。化粧もしていない私の横を、スーツを着こみいつもより髪を固めた景吾が歩く。なんとも不思議な光景だと思う。私たちの格好は、不釣り合いだ。けれど、それを気にしているのは私よりも景吾の方な気がした。気にしている、というよりは自分の着ているスーツを煩わしそうにしていた。

 景吾は気怠げにネクタイを緩めて外し、スーツのポケットにねじ込んだ。
 上品な佇まいに二合わない、乱暴で雑な手つき。私は景吾のそんな仕草を見るのが好きだった。
 景吾の手は、大事なものとそうでないものを分かっている手だ。
 きっと私が想像するよりも高いであろうネクタイを、景吾は何でもない物かのように、まるで紙くずのように握り潰す。景吾のそんな仕草を見るたびに、景吾が大事にしているものが際立って見えて、私は好きだった。
 だから、ネクタイを握り潰した景吾の手が私の手を優しく包んだことが、私は嬉しかった。

 手を繋いでも、私と景吾は黙ったままで歩いた。
 きっちりとしたスーツの背中と、ゆるいTシャツの私の背中が夜の闇の中で揺れている。
 なんでスーツを着ているんだろう?
 どこへ行った帰りなんだろう?
 どうして、スーツを煩わしそうにしているんだろう?
 想像がつくようで、つかない。そんな疑問を私は口にはしなかった。景吾が自分から言わないなら、私も口にはしたくなかった。

 10分ほど歩いた所で、景吾は「帰るか」と言って私を見下ろした。私が「うん」と答えると、景吾は左の道へ曲がり、そこから更に左へ曲がり私の家の方向へと歩き出した。来た道とは違う、帰り道。いつも車で私の家まで来るのに、どうして道が分かるんだろう。不思議に思いながらも、相変わらず無言のまま私たちは歩いていた。
 夜よりも、もっと暗い色に包まれた町並みはとても静かだった。家の明かりはまだいくつも漏れているのに、みんな寝静まってしまったように静かだ。耳をすませば、景吾の息遣いまで聞こえてきそうなほど。
 景吾に手を引かれるまま暗い街並みをぼんやり視界に映しながら歩いていた私は、ふと顔を景吾へ向けた。景吾も私と同じように真っ直ぐに前を見ている。真っ直ぐに前を向いたまま、その口が開いた。

「何見てんだよ」
「景吾の息遣いが聞きたいと思って」

 私がそう答えると、景吾は笑って私を見下ろした。
 鼻で笑われると思ったのに、気が抜けたような、そんな笑いを返された。そうして私の耳元に顔を寄せてくるものだから、キスをされるのかと思わず身構えてしまった。けれど私の耳元が感じたのは、景吾の唇ではなく”フッ”と吐いた息だった。
 突然のことと、予想外のことに私が肩をはねらせると景吾は楽しそうに笑った。
 スーツを着て、いつも以上に大人びていた景吾に似合わない、年相応の男の子の笑い声。その声を聞いて、今度は私の心がはねる。
 普段の大人っぽい景吾に翻弄されて、私の心はいつも騒がしくはねるけれど、それとは違う。こんな風に笑う景吾を見ると、私の心はいつもはしゃいだようにはねるのだ。何故か分からないけれど、とっても嬉しくなる。
 私ははしゃぐ心を抑えるように息をかけられた耳に手を当てて、景吾を小さく睨んだ。

「今のは息遣いじゃない」
「バァーカ」

 景吾の瞳に映る自分を見て、私はようやくほっとした。
 やっと、景吾の瞳に私が映った。
 景吾がどうしてスーツを着ているのかも、どこへ行った帰りなのかも、どうしてそのスーツを煩わしそうにしているのかも、全てもう、どうでも良いことだった。
 景吾ももう、私がTシャツを着ていて、自分がスーツを着ていて、ふたりの格好が何だか不釣り合いなことも、煩わしそうなスーツも、どうでも良さそうだった。
 今すぐ脱ぎたそうにしていたスーツも、今はしっかりと景吾の身体を包ませてもらっている、そんな感じがした。それまでは、跳ねのけされそうなのを堪えて、必死に景吾の身体にしがみついている、そんな風だったのだ。
 私はほどけてしまった手を繋ぎ直して、はしゃぐ心に揺らされるように前後へと振った。

 景吾の手も、私の手と同じように前後へと大きく揺れている。
 景吾は先ほどと変わらず、黙ったままだ。私も、何も言わない。けれど景吾の顔は穏やかで、こうして腕を大きく振って歩くのを楽しんでいるようにも見えて、私は嬉しかった。


 私達は子供のように腕を大きく振って、夜よりももっと暗い街並みの中を歩いた。






20120726
2style.net