小望月





それは、満月の夜のことだった。





「おい、起きろ」

 寝ている耳にそう聞こえた、と思った時には「」と名前を呼ばれ、既に身体は持ち上げられていた。
 そうして私が目を覚ました視界の先には、愉快そうに口角を上げた晋助の顔があった。

「目ェ覚めたかよ」
「……どうしたの?」

 いま何時?と重ねるように質問をして、眠たいのだということをアピールしてみても、晋助は迷うことなくどんどんとどこかへ足を進めている。

「月見酒だ」

 そう言った晋助からは微かに日本酒の香りがしていて、眠気を一切感じない彼の声色にすんなりと布団へは戻らせてもらえないことを悟った。

「月なんか見える?今日ずっと曇りだったよ」
「晴れたんだよ。月が俺に会いたがったんだろうなァ」

 またそんなことを言って。そう思うのに、否定する気になれないのだから困る。月が彼に会いに来ても、なんら不思議ではないと思ってしまうのだ。
 こんな話を万斉にすれば笑われてしまうだろうか。それとも、お通ちゃんのアルバムの曲を一曲、私に作詞を任せてもらえたりするのかな。

「もー……わたしねむいよ」
「昨晩は来島と夜遅くまでお楽しみだったじゃねェか。俺には付き合えねェのか?」

 お酒のせいだろうか、いつもよりほんのりと体温の高い晋助の腕の中で、本当にそのまま眠ってしまいそうだった。彼の肩におでこを擦り寄せれば、手で撫でられない代わりのように、頬を寄せてくれた。
 そんな風に甘やかされては、余計に眠ってしまいそうになる。

 閉じた瞼をひんやりとした夜風が撫ぜた。晋助は私を甲板にまで連れて来たようだったけれど、私の眠気は未だ覚める気配はなく、晋助の体温を布団代わりに眠れそうなほどだった。

「ほら……よ!」
「……っ!?」

 穏やかな彼の声と仕草に、そのまま眠ってしまおうと思った刹那。
 柔らかな「ほら」という言葉は、何の合図もなしていなかった。気が付いた時には私の身体は宙へと投げられていて、そしてあっという間に晋助の腕の中に戻っていた。

 今この一瞬。
 何が起きたのかもわからないし、何が「ほら」だったのかも、晋助が何をしたかったのかも分からない。ただ、ばくばくとする心臓を抑えながら晋助を見上げれば、彼はやっぱり愉快そうに口角を持ち上げていて、私はただ困惑の表情で彼を見つめることしか出来なかった。
 まさに、驚いて声も出ない、とはこのことだ。

「見えたか?」
「……なに、が?」
「しょうがねェ、もう一度か」
「待って待って!なに?なんの話?」

 もうすっかり目は覚めていたけれど、「もう一度」という晋助の言葉に完全に叩き起こされたような感覚で、私はもう一度投げとばそうとする晋助の着流しの襟を必死に掴んで抵抗をした。
 信じられないほど投げ飛ばされたわけじゃない。ましてや晋助が私を落とすとも思えない。かといって、理由もなく宙に投げられて喜ぶのは小さな子どもまでだ。目が覚める前に連れ去られてこんなことをされて、残念ながら私は喜ぶことが出来なかった。
 意地悪な顔をして、晋助もそんなことは分かっているくせに。

 殊勝に大人ぶっているけれど、晋助は突然本当に、子どもじみたことをする。これが大人の嗜みなのだと言わんばかりの態度で、本当に子どものような悪戯をするのだ。
 悪餓鬼、と悪態をつきたくなるのに、そんな晋助の姿を見ているのが本当は好きだった。

「お前ェは本当に色気がねェな」

 先に色気のないことをしたのはどっちだ、と心の中で呟いて、晋助の次の言葉を待った。

「月見、つったろ」
「もう起きたよ、ちゃんと見るから」

 襟を掴んで身体を寄せて、もう絶対に投げ飛ばされないようにしながら私は顔を上げた。
 月見にそんなにこだわらなくても、とつい先ほどまで眠りたくて仕方がなかった頭ではそう思ってしまう。けれど、見上げた夜空には大きな大きな満月が浮かんでいて、晋助が月見酒をしたくなるのも頷けるほどだった。
 私が寝るまではずっと曇り空だったから、雲の後ろにこんなに綺麗な満月が浮かんでいるだなんて思いもしなかった。

「見えたか?」
「あんなことしなくても、ここからでもちゃんと見えるよ」
「そりゃ悪いことをしたな」

 微塵もそんなことを思っていない、そんな顔で晋助は先ほどまでひとりで呑んでいたのであろう、お酒が置いてある場所へと歩みを進めた。






 彼は私を座らせた後、自分の羽織を私の膝に掛けてから隣に腰を下ろした。
 ふたりで並んで満月を見上げれば、ようやく落ち着いた私の心に満月の美しさがじんわりと心に染み込んだ。
 この綺麗な満月を見上げながら、晋助が私を呼ぼうと思ってくれたことに今更ながら嬉しさが込み上げてくる。

「綺麗だね」
「もっと近くで見たいか?」
「もういいってば」

 笑いながらお猪口を持ち上げた晋助にお酌をして、こんな寝起きの私が綺麗な満月と高級な日本酒、そして晋助の隣に座っていて釣り合うのだろうかと思った。けれどそんな私の不安をよそに、晋助は満足そうにお猪口を傾けて、満月を見上げた。
 晋助が楽しいのなら、それで良い。月を見上げる彼の横顔を見ながらそう思った。

 けれど晋助はすぐに月から目を離し、私の方へと顔を向けた。

「綺麗だな」

 満月の話をしているというのに。
 月を見るよりも長く、じっと見つめられてそんなことを言われると、まるで自分のことを言われているように感じてしまう。
 勝手な勘違いをして照れてしまう自分を誤魔化すように、私は月へと顔を向けながら小さく返事をした。


 黙って月を見上げていると、ふと晋助がこちらを見ているような気がした。
 視線を彼へと戻すと確かに私を見ていて、お酒を注いでもらうのを待っていたのかもしれないと慌てて徳利に手を伸ばすものの、お猪口にはまだお酒が残ったままだった。
 お酒の催促ではなく、もしかしてあれからずっと私を見ていたの?

「……なに?」
「贅沢だなァと思ってよ」
「月見酒が?」
「あァ」

 クツクツと笑う晋助は、そう言いながらも月は見ずに私のことを見ながらお酒を煽った。
 彼の言葉通り月見を楽しんでいたようにも思えないけれど、私のことをずっと見ていたと考えるのもなんだか居心地が良くない。とりあえず空になったお猪口にお酒を注いでみれば、晋助は変わらずに私を見ながら口をつけた。

「あの、月はあちらですけど」
「俺が何見て酒飲もうがかまやしねぇだろ」
「そうだけど……」
「いつもはこうして向かい合ってるじゃねェか」

 それもそうなんだけど。
 ふたり隣同士に座って月と向かいあっているのに、月を見上げずに顔だけ私に向けて月見酒だと言われても、そんなの不自然じゃないかと思ってしまう。

「良い夜だ」

 そう言って、ようやく晋助は月を見上げた。今度は代わりに、私が彼を見つめた。

 確かに、贅沢な夜だと思う。

 私はすぐに空になったお猪口にお酒を注いで勝手に仕事を終えたような気分になって、胡座をかいている晋助の太ももに頭を乗せて横になった。

「またおねんねか?」

 愛しい人に寄り添って、満月を見上げる夜。

 一緒にお酒も飲まずに、子どものようにすぐに眠ってしまう私をからかう声を聞きながら、私は瞼を下ろした。
 硬い指先が優しく私の額を撫でる心地良さを感じながら、眠りにつく。



 とても、贅沢な夜だった。














 落ちてきそうな満月が輝く夜だった。


 一日中厚い雲が空を覆っていたが、戦艦に戻った深夜にはその雲がいつの間にか晴れていた。
 たいそうなモンを隠していたなと言いたくなるほど、迫り来るような満月が夜空を照らしている。月見酒をするのは当然のような、そんな夜だった。

 甲板に適当に腰掛けて日本酒を喉へと流せば、ふと物足りなさを感じた。目の前の満月に瞳は奪われるのに、俺が見ている先はどこか別のもののようだった。

 静かな夜だ。
 昨晩のこの時間は、来島の部屋から何やら騒がしい声が漏れていたが、今夜はそんな様子もなく、戦艦内も静まっている。あいつも寝ているのだろう。そう思いながら、俺はたった一杯の猪口を空にしただけで立ち上がった。




 案の定、は眠っていた。昨晩のはしゃいだ声はどこへやら、気持ち良さそうに、静かに寝息を立てている。髪を撫でてみても、身じろぎひとつしない。この程度では起きる気配がまったくなかった。

「おい、起きろ」

 声をかけても起きねェだろう、と思いながら名前を呼び、布団を捲って身体を抱き上げた。
 ここまでしても眠ったままならたいしたもんだ、と思えば流石にそうもいかないらしく、困惑したように目を窄めたが俺を見上げた。

「目ェ覚めたかよ」
「……どうしたの?」

 いま何時?と、起きることに抵抗するように強く瞼を閉じるに小さく笑いながら、俺は先ほどまで飲んでいた場所へと足を進めた。
 時間も、の眠気も、俺には関係がない。ただひとつ、これから何をするかだけをに答えてやることにした。

「月見酒だ」
「月なんか見える?今日ずっと曇りだったよ」
「晴れたんだよ。月が俺に会いたがってるんだろうなァ」
「もー……わたしねむいよ」
「昨晩は来島と夜遅くまでお楽しみだったじゃねェか。俺には付き合えねェのか?」

 どんどんと部屋から遠ざけられているというのに、は布団に戻りたくて仕方がないようだった。
 甘えるように肩にすり寄る態度を愛らしいと思いつつ、そんな態度で男が揺れるたァどこで覚えたんだ?と問うてやりたくなった。
 甲板に出て夜風がひやりと肌を撫でても、は身じろぎすることもなく俺にすり寄ったまま、もう一度眠ろうとしている。

「ほら……よ!」

 仕方がねェ。そんなことは微塵も思っちゃいねぇが、目が覚めるような綺麗な月を見せてやろう、と俺はを宙へと放った。

 ほんの一、二秒のことだ。
 は当然のように理解が追いつかなかったらしく、月を見上げることもなく腕の中に戻ってきて、呆然としたように俺を見つめていた。

「見えたか?」

 笑いながらそう問いかければ、寝起きに衝撃が強かったのだろう、は呆けた状態で言葉を失ったように口を小さく開けたまま、しばらくたって絞り出すように声を出した。

「……なに、が?」
「しょうがねェ、もう一度か」

 そう言って腕に力を入れれば、は慌てたように俺の着流しの襟を握り、投げ飛ばされないようにと身を寄せた。

「待って待って!なに?なんの話?」
「お前ェは本当に色気がねェな」

 そう言いつつ、俺はの色気のねェ態度が気に入っていた。
 何の取り繕いもねェ素の表情でいるこいつを見ているのが、一等心が踊る。

「月見、つったろ」
「もう起きたよ、ちゃんと見るから」

 証明して見せるように、は襟元を強く握ったまま顔を夜空へと向けた。そうして夜空よりも深い瞳の中に満月を写して、溜息をつくような声を漏らした。

「見えたか?」
「あんなことしなくても、ここからでもちゃんと見えるよ」
「そりゃ悪いことをしたな」

 不満そうに襟から手を離そうとしないの体温を感じながら、俺は再び歩き出した。






 先ほどまで座っていた場所にを下ろし、羽織を膝にかけてやってから隣に腰を下ろすと、はようやく落ち着いたように「綺麗だね」と、満月を堪能するような声を出した。

「もっと近くで見たいか?」
「もういいってば」

 腕の中から放り投げた馬鹿みてェな瞬間を思い出してふたりで笑いながら、注がれた日本酒に口をつけて、ふと満月を見上げる。そうしてようやく、俺は満ち足りたような気持ちになった。

 隣で同じように満月を見上げるを見ながら、思った言葉を声に出す。

「綺麗だな」

 は満月へと顔を向け、小さく「うん」と呟いた。
 照れた顔を隠す様に背けたに、間違っちゃいねェよ、と心の中で声をかける。お前ェが照れた理由は、勘違いなんかじゃねェ。


 俺は満月を見上げるの横顔を眺めながら、小さく酒を舐めた。月見酒だというのに、俺の足りねェもんはこんなにもすぐ隣にある。
 再び雲が月を覆い隠そうとも、俺には関係のないことだった。
 どんな天気になろうとも、俺はもう満足だ。


 月も見上げずにただじっとを眺めていたことに、ようやく気付いたのだろう。
 は最初こそ慌てたように徳利に手を伸ばし酒を注ごうとしたものの、催促のために俺がを見ていたわけではないことを察したのか、どこか居心地が悪そうに俺に視線を向けた。

「……なに?」
「贅沢だなァと思ってよ」
「月見酒が?」
「あァ」

 腑に落ちない、そんな顔を向けるに笑いながら酒を煽った。
 鈍いんだか、勘が良いんだか、答えは分からないくせに「違う」ということだけは見抜きやがる。

「あの、月はあちらですけど」
「俺が何見て酒飲もうがかまやしねぇだろ」
「そうだけど……」
「いつもはこうして向かい合ってるじゃねェか」

 返す言葉もないのか、は恥ずかしそうに徳利を手の中で遊ばせている。

「良い夜だ」

 月見酒だろうと、花見酒だろうと、きっと物足りなさを感じるのはこいつの存在の有無なのだろう。
 艶やかな満月を見上げながら、そんなことを思う。

 贅沢な夜だ。

 は視線が自分から外れたことに安心したのか、空いた猪口に酒を注ぎ、俺の足に頭を預けて横になった。
 の瞳の中で大きな満月が揺れているのが見える。

「またおねんねか?」

 瞼を下ろしたの額に手を乗せれば、嬉しそうに口元が緩んだ。そのまま頭を撫でりゃ、あっという間には眠りに落ちた。
 膝に掛けてやった羽織を肩まで引き上げてやってから、俺は手酌で酒を煽った。

 見上げた空はいつの間にか雲がかかっていて、再び満月が姿を隠そうとしている。だというのに、酒の美味さは一向に落ちる気配はなかった。

 足の重みにかかる、あたたかな体温。指に絡む髪を弄びながら、思わず笑い声が漏れる。

「情けねェ男だ」

 この女がいれば、満ち足りる。
 そんな女を膝に抱えて酒が飲めるなんざ、なんとも贅沢で、仕方がねぇほどに情けない男だな、俺ァ。

 月が隠れて暗くなった宵闇の中でも、変わらずに思う。




 沢なだ。







20210228
小望月(こもちづき):満月の前夜の月のこと
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