なみだあめ





「こんなところで何やってんでィ」
「…………おひるね」

 たっぷりと時間をかけて返ってきた彼女の声は、涙に濡れていた。




 肌寒い曇天が立ち込める縁側で、誰がわざわざ昼寝をしようだなんて考えるだろうか。昼寝常習犯の俺ですら、こんな場所で寝ようとは思わない。いつ雨粒が落ちてくるか分からない、そんな天気だ。
 猫のように体を丸め、着物の袖で顔を隠すように寝ている彼女の体は震えてこそいないが、震えているのではと思うほどに頼りなかった。そのまま小さく小さく丸くなり、消えてしまいそうだった。いつもなら足蹴にして起こすところが、今ばっかりはそれすら、する気にはなれないほどに。今の彼女は、足蹴にすればぺたりと潰れて消えてしまいそうだった。この天気のせいなのか、彼女の放つオーラのせいなのか、その両方なのか。
 俺はしゃがみこんで、彼女の顔を見下ろした。けれど覗き込んだところで、彼女の表情は袖に隠され伺うことは出来なかった。

「任務に行く前に、なんか甘いもんが食いてェ」

 あぐらをかき、頬杖をつきながら口を開けば、わずかに彼女の肩が揺れた。それは呼吸の揺れだったのか、嗚咽のそれだったのか。
 顔が見れなければ、確信を持つことが出来ない。いい加減、不確かな推測をすることに俺は飽きていた。
 そうして彼女の顔を隠す着物の袖をめくれば、瞳は予想通り涙に濡れていた。彼女の瞳から落ちる涙と同じように、空からぽたりぽたりと雨が落ち始める。目が合った彼女は堪えていた唇を緩め、そろりと息を吸い込んだ。

「なんでィ」

 昼寝とは心地良く、あたたかいもんじゃないのか。そんな風に、瞳も体も、息さえも震わせるようなもんだってェのか。
 促すような目線を送れば、彼女はゆっくりと口を動かした。

「総…」

 ──────そう…ちゃん

 途切れた彼女の言葉に重なるように、どこか遠くから俺の名前を呼ぶ声が聞こえたような気がした。

 ──────総ちゃん

 なつかしい、声だった。俺の心臓はわし掴まれたように止まり、そしてそれを掃うように激しく動いた。

 あの日も、こんな曇天の日ではなかったか。

 ──────総ちゃん

 あの日も、こんな風に昼寝をしていたんじゃなかったか。

「ゆめを、みたの」

 ──────総ちゃん、どうしたの?
 ──────ゆめ…みた
 ──────あら、こわい夢?
 ──────あねうえ、ぼく、いやなゆめをみた
 ──────大丈夫よ、夢なのでしょう?
 ──────でも

 縁側に寝転んで泣きじゃくっていたのは、俺だ。
 それを見下ろしていたのは──────姉上だった。

「夢、だろ」
「総悟…」

 あの時、俺の見た夢。それは何だっただろうか。今はもう思い出せない。そんなことがあったことすら、今彼女がこの天気の中に泣いていなければ、思い出さなかっただろう。ただ──────姉上行かないで、と。俺はそう泣きじゃくっていた。手を伸ばして、姉上のぬくもりを求めていた。そのことは覚えている。今、確かに思い出した。
 あの日の自分と姉上を今の俺と彼女に重ねながら、静かに涙を流す彼女を見下ろしていれば、彼女はゆっくりと手を伸ばしてきた。彼女も、俺と同じように嫌な夢を見たのだろうか。俺と同じように、

「そうご」
「なに、泣いてんでさァ」

 俺の頬に触れる彼女の手に手を重ねれば、彼女はぎゅっと眉を寄せた。
 彼女も、俺と同じように、俺が姉上に乞うたように、俺に側にいてと言うのだろうか。

 ──────あねうえ、いかないで

「そう、ご」

 ──────あねうえ
 ──────総ちゃん、私はここにいるわよ

「ここにいるよ」

 ──────総ちゃんのそばにいるわ

「総悟のそばに、私はいるからね」
「…な、」
「私は離れないから」

 なんで──────泣いていたのは、昔の俺だろう。今の彼女だろう。それなのにどうして、彼女が姉上と同じ言葉を発するのだ。どうして、

「どうして総悟が泣いてるの」

 夢を見たのは私なのに、と言う彼女の頬にぽたり、と小さなしずくが落ちていた。雨粒だと思っていたそれは、俺の涙だったらしい。彼女の頬の上ですうっと消えたしずくは、それ以上落ちてはこなかった。俺は泣いていたのか?悲しい感情など、あの日のような不安など、今俺の胸の中にはないというのに。
 それでも彼女は俺の頬をゆるりと、涙を拭うように撫でた。

「どんな夢を見たんでィ」
「…子供の頃の総悟が、こわい夢を見たって言って、泣いてたの」
「それでなんでが泣くんでさァ」
「そばにいて、って…総悟が泣いてた」

 怖い夢を見たと言って泣いている俺が、そばにいてと乞うたのは。

「……姉上にかィ」

 あの日の光景を思い出しながら、俺は口を開いた。縁側で寝転がり丸くなる俺を、姉上は隣で座りながら優しく微笑んでくれていた。その膝に縋りつく俺の頭を、そっとあたたかく撫でてくれていた。“そばにいるわ”と、あのやわらかい声で、何度も何度も俺を安心させるように紡ぎながら。
 彼女は小さく頷いて、俺の頬を撫でる。まさか俺の過去と同じ光景を彼女が夢に見たなんてことは信じられなかったが、俺自身今思い出した過去のことを彼女が知っているはずもなかった。だから、例え彼女が俺の過去と同じ光景を夢に見ていたとしても、

「それでが泣く理由にはならねぇだろ」
「…うん」
「なんで泣くんでィ」

 今度は俺が、彼女の涙を拭った。泣いていたのはあの日の俺だろう、夢の中の俺だろう。
 が小さく小さく丸くなり、消えそうになる必要なんかどこにもねェだろ。お前が悲しい想いを抱える必要なんか、どこにもねェよ。

「そうご」

 俺は、彼女を慰めているつもりだった。それなのに、彼女は次から次へと大粒の涙を瞳から溢れさせた。促すように声をかけ、涙に触れれば彼女は震えた唇を開いた。

「総悟が、ひとりだったの」
「俺が、ひとり?」
「そばにいて、って総悟が泣いてたのに、私がそばに行ってあげられなかった」

 ひとつ、言葉を零すごとに、ひとつ、涙を零しながら彼女は声を震わせた。それでも決して自分の涙を拭おうとはせず、泣いてもいない俺の目元を頬を、涙を拭うように何度も撫でていた。彼女は、夢の中の俺が姉上に乞うていたというのに、それでも自分がそばにいけなかったと涙を落としている。俺がひとりでいたことに、大粒の涙を落とすのだ。
 彼女の涙を拭っていた手を、俺の頬を撫でる彼女の手に再び重ねた。乾いた彼女の手の甲に、彼女の涙で湿った俺の手が吸い込まれていく。拭うのを止めた彼女の涙は、あっという間に彼女の頬を濡らしていった。

「そばにいる」

 あの日の姉上の声を耳元で感じながら、俺は瞼を閉じた。そうして、ゆっくりと持ち上げる。

が、俺のそばにいるんだろ?」

 そう問えば、彼女は何度も何度も、必死に顔を頷かせた。あまりの必死さに、俺は思わず笑みを零した。

「夢なんか知らねェや。ここにいる俺のそばにいてくれりゃあ十分だ」
「そばにいる、私が総悟のそばにいる」

 さっきまで震えた声をしていたのに、彼女はやけにはっきりと通る声を出した。そうして俺の首に腕を回して、自分の身体に引き寄せてきた。泣いているのは彼女の方なのに、先ほどからまるで俺が泣いてるみたいだった。頬を撫でられ、抱きしめられ、俺の方が慰められている。そのことに俺は声を出して笑った。俺の心の中には、悲しみも不安も、これっぽちもないというのに。さっきから、雨粒とは反対にあったかくてしゃあねぇってのに。彼女は必死で俺を抱きしめてくれるのだ。
 自分で感じるのも莫迦みてェだが、俺の笑い声はたいそう幸せそうで、穏やかだった。

 先ほどひとつぶ落ちた俺の涙。あの涙は、過去の悲しみのひとつぶだったのか、俺はひとりではないという、あたたかいひとつぶだったのか。どちらも含まれたひとつぶだったように思う。
 なァ、。今俺が姉上を乞うても、が夢で見たように俺はひとりぼっちだ。返ってくる声はない。でもな、がそばにいるから俺はひとりにはならねェし、そばにいてくれるから、こうして姉上のことを感じていられる。あたたかい気持ちで、姉上が俺のそばにいてくれる。
 声に出して言やしねェが、ひとつぶ落としたあの涙が、の頬に沁み込んで伝わればいいと思う。

 冷えた空気の中に暖かいものがじわりと広がっていく。
 あの日の俺も、彼女の夢の中の俺も、そして彼女も。泣く必要などないのだ。今も、そして未来も、俺の隣にはがいる。
 俺もも、ひとりではない。

 ──────なァ、そうだろ?






20110709
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