そんな貴方が私のヒーロー





「はい、お味噌汁です」
「あ、ありがと」

 もじもじとした動きでお味噌汁を受け取り、一瞬目が合ったと思えば顔ごと逸らす近藤さんに私は首をかしげた。

「はい、どうぞ」

 近藤さんの向かいに座る総悟と土方さんにもお味噌汁を渡せば、ちらちらと近藤さんの視線を感じる。何だろうと思って見れば、またふいっと顔を逸らされる。

「近藤さん?どうしたの」
「な、なんでもない!」

 なんでもないと言うのなら、どうしてどもってるんだろう。顔だって逸らしたりして、いつもと違うのは明らかなのに。
 近藤さんはお味噌汁に口をつけて、ぼそりと呟いた。

「美味しいです」
「あ、ありがとうございます」

 なんだか私もつられてどもってしまった。
 え、本当にどうしたっていうの?いつもなら豪快に笑いながら「うまい!」とか、眠い目をしょぼしょぼさせながら「ん〜…うめぇなぁ」とかしみじみ言うのに、そんなかしこまっちゃって、近藤さん本当にどうしたの?
 私は助けを求めるように土方さんを見た。土方さんは面倒くさそうに欠伸をひとつして、口を開いた。

「夢を見たんだとよ」
「ゆめ?」
「ト、トシィ!言うなよぉ!」
「女々しいんだよ、夢見てめそめそすんな」
「正夢って言葉を知らねーのかトシは!」
「今ここで正夢か確かめればいいじゃねーか」
「やだ無理こわい!」
さんに捨てられた夢を見たらしいんでさァ」

 一体何の夢を見たのだろうと、話の進まない近藤さんと土方さんの話に耳を傾けていれば、あっさりと総悟が口を開いた。
 えっ、近藤さんを捨てたの?…私が?

「総悟ォ!なんで言うんだよォォオ!」
「さっさと正夢にしてもらいやしょーぜ」
「正夢になること確定ィ!?」

 涙目、そして上目遣いで私を見る近藤さんに私は笑った。

「それでどうして、もじもじしてしおらしくしてたの?」
「否定してくれないの!?確定なの!?」
「がさつでケツ毛ボーボーなゴリラは嫌いだって言ったそうじゃねーですかィ」
「そこまで言われてなィィイ!」
「ゴリラが足されただけで変わんねーじゃねぇか」
「変わるもん!そこまで言ってないよね!?」
「え、いや言ったの私じゃ…」

 なくて、夢の中の私だよね?
 それなのに私が言ったんだと言わんばかりに必死に見つめてくる近藤さんに、私は思わず一歩下がった。

「あ、ほら引かれてやすぜ」
「正夢だったな近藤さん」
「うそォォォォオオオオん!?」
「あっ、危ない!」

 涙目だった瞳から大量に涙をこぼし、私の腰にすがろうとする近藤さんに私は慌てて後ろに下がった。お盆にお味噌汁をまだ乗せているのだ、抱きつかれた衝撃で近藤さんにこぼしたら火傷させてしまう。そう思って下がった一歩だったのだけれど、どうやらそうは受け取ってもらえなかったらしく、近藤さんはいたく傷ついた目をして顔を伏せてしまった。

「夢なら覚めてェェェェエエ!」
「残念ながら現実でさァ」
「再び引かれるとは決定打だな」
「違いますって!お味噌汁危なかったから…とりあえずお味噌汁配ってきます!」
「あ、引いた上に逃げやしたぜ」
「駄目押しだな」
「うぁぁぁぁああああああん!」

 近藤さんの泣き声に後ろ髪引かれながらも、私は慌てて残りのお味噌汁を配った。冷めかけたお味噌汁を配れば隊士達は眉尻を下げていて、配るのが遅かったことに文句を言われるのかと思えば「局長を捨てないでやってください」とのこと。だから、そう言ったのは夢の中の私です!
 私は残りのお味噌汁を配り終え、すぐに近藤さんの所に戻った。何事もなかったかのように朝食を取る土方さんと総悟に、朝食に手をつけず食卓に突っ伏したまま泣き続ける近藤さん。私は近藤さんの隣に座り、声をかけた。

「近藤さん、せっかく作った朝ご飯食べてくれないと悲しいです」
「っう、うぅ」

 泣きながら顔を上げてご飯を食べ始めた近藤さんに、私は笑った。叱られた後の子供みたいだ。子供にしてはあまりにも大きすぎるけど。

「私、細かい男よりがさつな方が好きですよ」
「ほんとう?」
「ほんとう」
「ケツつるっつるより毛ェボーボーの方が良いんですかィ?」
「う、うん」
「じゃあ人間よりゴリラの方が良いんですねィ?」
「ぇえっ?ゴリラはちょっと…」
「ゴリラは駄目なの!?」
「いや、だって近藤さん人間でしょ!?」

 ゴリラっぽいだけで!
 総悟の質問がおかしい、というか今にはじまったことじゃないけどさっきから総悟が話をややこしくしている。やっぱりゴリラは嫌なんだァァァアア、と泣き叫ぶ近藤さんに私は流石に笑えず、ため息をついた。ゴリラは嫌ですよ、私は近藤勲という人間とお付き合いしてたつもりだったんだから。なのに本当はゴリラだったって言うの?喋るゴリラ?人間っぽいゴリラだったの?

「私は近藤さんのこと人間だと思ってたけど、ゴリラって言うなら人間よりゴリラの方が好きです。でもそれは近藤さんだからであってゴリラが好きなわけじゃなくて、近藤ゴリラが好きなんですからね!」

 朝からどうしてこんな告白まがいのことを叫ばなきゃいけないんだと思いながら近藤さんの瞳を見つめれば、せっかく涙が引っ込んだのと思ったのに横から総悟がチャチャを入れた。

「近藤さんのことゴリラだと思ってたんですかィ」
「そうなのォ!?」
「もう仕事行け!土方さん連れて行って!」
「ホラ近藤さん見廻り行くぞ」

 俺は人間だからァァァァァァアアアア!ちょっとゴリラっぽいだけェェェェエエ!と泣き叫びながら土方さんに首根っこを掴まれて引きずられる近藤さんに、私はひらひらと手を振った。だから、私は最初からそう言ったんですけど。
 私は近藤さんの残したご飯を頬張りながら、にやにやと笑う総悟を睨んだ。

「ゴリラと付き合えるなんざ、お見逸れしやした」





* * * * * *





 洗濯物をたたみながら陽に当てられてうつらうつらしていると、突然大声で名前を呼ばれ驚いて眠気が吹っ飛んで行った。誰が私を呼んでいるのだと思えば、その声は退ちゃんのものだった。

ちゃん!ちゃん!ちゃんんんんんん!」

 慌ててドタドタと走る足音に、私は何事かと立ち上がって声のする方に走り出した。すると角から凄い勢いで退ちゃんが現れ、あまりの勢いに思わず私は立ち止まった。けれど私が走ろうと立ち止まろうと、意味がないほどの勢いで退ちゃんは走り、私の目の前でビタリと止まって肩を掴んできた。

ちゃんんんんんんん!」
「どっ、どうしたの!?」

 汗だくで息を切らし、真剣な瞳で見つめてくる退ちゃんに私は血の気が引いた。誰かに何かがあったんだろうか。駆け巡る嫌な想像に、私は無意識に唇を噛み締めた。

「けっ、携帯は!?」
「……はぁ?」

 携帯?なにそれ?誰かが怪我したとか、大事件が起きたとかじゃなくて、携帯?

ちゃん携帯は!?携帯ィィィィィイイイイ!」
「えっ、ちょっ」

 なんなの一体!?ぐらぐらと肩を揺らして携帯携帯と叫ぶ退ちゃんに、ワケが分からずも私は携帯のある場所を指差して口を開いた。

「へ、部屋」
「部屋!」

 退ちゃんは私の返事を繰り返し、肩を掴んで揺らしていた手をさっと放した。揺れがおさまったことにホッとしていると、今度は体に突然の浮遊感。退ちゃんが、私のことをお姫様抱っこしているのだ。驚いて変な声を漏らす私をおかまいなしに、退ちゃんは再び走り出していた。

「なななっ、なに急に!どうしたの!?」
「携帯電話は携帯するから携帯電話って言うんだよ!!」
「っぇえ!?」

 ワケの分からないことを言う退ちゃんに、とりあえず私は落とされないようにと首に腕を回してしがみついた。
 退ちゃんの慌てている理由が一向に把握出来ない。もの凄い速さで廊下を駆け抜け、私の部屋の障子を乱暴に開け、退ちゃんは叫んだ。

「携帯は!?早く見て!!」
「え、えと」

 鏡台の上に置きっぱなしだったはず、と私は退ちゃんの腕から降りながら携帯に手を伸ばした。よく分からないけれど、とりあえず携帯が問題らしい。言われるがまま携帯の画面を見れば、そこに表示されていたのは
──────着信 50件>

「…え゛」

 携帯が壊れた?50件って、0が多いよね、5件の間違いだよね?
 そう思いながら着信履歴を見れば…

       近藤局長
       近藤局長
       近藤局長
       近藤局長
       近藤局長
       近藤局長
       近藤局長
       近藤局長
       近藤局長
       近藤局長
       近藤局長
       近藤局長
       近藤局長
       近藤局長
       近藤局長
       近藤局長
       近藤局長
       近藤局長
       近藤局長
       近藤局長
       近藤局長
       近藤局長
       近藤局長
       近藤局長
       近藤局長
       近藤局長
       近藤局長
       近藤局長
       近藤局長
       近藤局長
       近藤局長
       近藤局長
       近藤局長
       近藤局長
       近藤局長
       近藤局長
       近藤局長
       近藤局長
       近藤局長
       近藤局長
       近藤局長
       近藤局長
       近藤局長
       近藤局長
       近藤局長
       近藤局長
       近藤局長
       近藤局長
       近藤局長
       近藤局長

「なっ…なにこれ」

 携帯の故障ではなく、本当に50件続く名前の羅列に恐ろしくなっていると、携帯の画面が変わり着信メロディーが流れてきた。着信相手は言わずもがな──────近藤局長。
 現在進行形で電話がかかってきたのだ。私は電話に出ず、着信画面を退ちゃんに見せた。

「ど、どういうこと?」
「出てっ!いいから早く出て!」
「やだこわい!なにこの着信件数!?ストーカーなんだけど!」
「そのストーカーがあんたの彼氏だろォォォオ!いいから早く出てェェェエエエ!」

 退ちゃんは私から携帯を奪い取り通話ボタンを押し、無理矢理私の耳に押し当てた。すると大きな涙声が響いた。キーン、とする耳を押さえながら、もう片方の手で退ちゃんの腕ごと離せば『やっと繋がったァァァァアア』という声が漏れた。

「だから、なんだっていうの?」
「話せば分かると思うよ…」

 私が電話に出るまでが任務だったらしく、退ちゃんは疲れた顔をして私を見ていた。耳に当てなくても聞こえる声に、口元だけ携帯に近づけて私は声を出した。

「もしもし?」
!?もしもし!?!?』
ですけど…」
『なんで電話に出なかったの!?浮気しないでェェェエエエエエエ!!』
「え、ぇえ!?部屋に携帯置いたままお洗濯してたんです、なに浮気って」
『ほ、ほんとう?』
「本当です。退ちゃん走らせてまで一体どうしたんですか?」
『えっ……べ、別に用はないけど…なにしてるかなって』
「それだけ!?」
『う、うん──────近藤さん、それって用がなきゃ電話してくんなってことですぜィ、関係が冷めてきてる証拠でさァ』
「ちょ、また余計な」
『そうなの!?そうなの!?それで電話でてくれなかったのォォオオオオオ!?』
「違いますって!だから、お洗濯してたって言ったでしょ!どうしたの今日の被害妄想!」
『だっ、だって今朝…がさつケツ毛ダルマなゴリラは嫌いだって』
「夢の中ででしょ!夢!私はひとこともそんなこと言ってません!」
『ほんとうに夢?──────オイ!山崎が持ち場にいねェぞ!どういうことだ!!』

 近藤さんの声を遮って響き渡る土方さんの声に、思わず退ちゃんを見れば顔面蒼白で、携帯を手放してあっという間に部屋から出て行ってしまった。まさか仕事中に来させたんじゃないかな、とは思ってたけど、そのまさかとは。しかも持ち場にいない、って。見廻りとかじゃなくて重要なお仕事中だったんじゃないの…?近藤さん、真選組の局長なんだから、もっとこう…。
 何故か私が申し訳なりつつ、畳に転がる携帯を拾い上げ耳元に寄せた。

「近藤さん、土方さんに代わって」
『え、トシ?──────近藤さん、それ土方さんに乗り換えるって意味でさァ』
「総悟!」
『そうなのォォオ!?』
「もういいから代われ!!」

 近藤さんは泣く泣く土方さんに電話を代わり、私はなんとか退ちゃんが怒られないようにと土方さんを説得した。その後に、携帯を携帯しろと再び怒られる破目になったのだけれど。
 …これって、私が悪いの?





* * * * * *





 寝る前に厠に行こうと部屋を出て、昼間とは違い静まり返った廊下を歩いていると局長室から顔を出している近藤さんの姿があった。きょろきょろと顔を動かしていたのだけれど、私の姿に気がついたのか嬉しそうな顔をこちらに向けた。私を見て嬉しそうな顔をしてくれるだなんて、と頬を緩めていたのもつかの間。近藤さんの発言でその微笑もアッサリと消されてしまった。

「ちょうど良いところに!か、厠に…」
「厠?」
「厠に…一緒についてきてくんない?」

 ……呆れた。私を見て喜んだ顔をしたのは“私”だったから、ではなくて“厠についてきてくれる誰か”だったからなのか。体をかがめて部屋から顔だけをだしている近藤さんは懇願するように私を見つめた。

「また何か怖い話でも聞いたんですか」
「そ、総悟が…って、思い出させないでェ!お願い厠まででいいから!」
「私も行こうと思ってたところだから別にいいですけど」
「お願いします!」

 部屋から飛び出して抱きついてきた近藤さんに、私はなんとも言い難い気分だった。近藤さんは怖いから一緒にいてくれる“誰か”を求めていたんだろうけど、そんな近藤さんに“私だから”とか、抱きつかれて嬉しいとか、思っちゃう自分がちょっぴり恥ずかしかったのだ。
 私の背後にまわり、がっちりと腰に腕を回してくる近藤さんを私は見上げた。

「あの…」
「なに!?怖い話は禁止だからな!」
「そうじゃなくて…私、足浮いてるんですけど」
「なんでェェェェェエエ!?」

 なんで、って。腰に腕を回すどころかそのまま抱き上げてくれてるからですよ。それはさながら、小さい女の子がクマの人形を抱っこして歩いてるみたいだった。女の子じゃなくてゴリラだけど。というか怖い話されたら普通背後が怖いもんなんじゃないのかなぁ。私はそう思って私を抱き上げたまま歩く近藤さんを再び見上げた。

「ねぇ近藤さん」
「怖い話はナシって言ったでしょうがァァァアア!」
「怖い話なんてしてないから!近藤さんが私のこと持ち上げちゃってるから、私の足ついてないですって言ったの!」
「え、あ、そう?だってかがんで歩くよりこっちの方が歩きやすいだろ」
「ならいいですけど…普通、背後が怖いんじゃないんですか?」
「えっ背後!?はははは背後になんかいる!?」

 近藤さんは慌てて背中をビタリと壁につけた。

「いない!いないけど!普通は背後が怖いのに、私を背後にまわらせないでどうするんですか、って言ってるの!」
「び、びっくりさせるなよォ」
「近藤さんビビって早とちりしすぎ」
「び、ビビってないぞ!背後だってな、背後が危険だからこそ、の背後を俺が守ってるのだ」

 その言葉が嬉しかったくせに、私は腰に回された腕に手を添えてにっこり笑って意地悪を言った。さっきの、ぬか喜びのお返し。

「私に先陣切らせようってわけじゃなかったのね」
「ち、違いますゥ!」
「じゃあ今度は私が近藤さんの背後守るから、交代しよ」
「だ、駄目だ!背後は危険いっぱい!漏れそうだから行くぞ!」

 そうして私をぎゅうっと抱き上げたまま、近藤さんは厠まで小走りで向かった。どもってたあたり、何割かは図星だな。



「近藤さん?」

 厠の前までついたというのに、腰に回された近藤さんの腕は一向に緩む気配がない。私が声をかけても返事もしないで、どうしたのかと思えば急に一歩を踏み出した。男厠の方に。

「ちょっ、ちょっと!降ろしてください!」
「ついてきてくれるって言ったじゃん!」
「厠まででしょ!?こ・こ・ま・で!」
「ひとりで厠にいるの怖いから中までお願いィィ!」
「嫌ですよ、私も厠に行きたいの!」
「こっちでいいじゃん、ちゃんと個室あるから!」
「嫌に決まってんでしょ!?降ろして!」
「お願いィィィィイイ!」
「三十路近い男が何言ってんの!」
「チャイナ娘は俺を心配して厠まで来てくれたぞ!」
「神楽ちゃんに何させてんの!?」

 あまりの事実に驚き、降ろしてと暴れていた体が止まる。その隙に近藤さんは私をがっちりと抱いたまま男厠の中に入って行ってしまった。
 あぁ、もう本当に…!

「どこまで連れてく気ですか!扉の所で立ってるから早くしてきて!」
「逃げたり電気消したりしないでね!?」
「しない!!」

 なんかもう本当に、逆に気が抜けてしまう。そんな怖い話をされたくらいで厠に一人で行けなくなるだなんて、そんなんで真選組局長がどうするんだか。
 私は脱力しながら扉によしかかり、両手で顔を覆った。

 とりあえず、神楽ちゃんを厠までついてこさせただなんて説教しなくちゃいけない。





* * * * * *





 ぐっ──と伸びをして、私は布団から起き上がった。布団を畳んで押入れにしまい、身支度を整える。部屋を出て、朝一番の空気を体一杯に吸い込んで私は門へ向かった。

 鳥の鳴き声だけが聞こえる静かな朝。私は箒を持ち、門の周りを掃除していた。隊士達が気持ちよく屯所を出発できるように、そして帰ってこられるように。
 朝の清々しい空気の中掃除をしていると、徐々に屯所から起きた隊士達の声が聞こえてきた。

さん、おはようございます」
「おはよう、もう隊務?」
「うっす、見廻りに行ってきます」
「いってらっしゃい、気をつけてね」

 隊士数人を見送りながらも、私は掃除を続けていた。

 そろそろいいかな、と屯所に戻ろうとしたとき。ふ、と男の視線を感じた。気配のする方に顔を向けると、門の下にひとりの男が立っている。乱れた髪に、顔を俯け手にはぐしゃぐしゃになった新聞紙が握られていた。普通じゃない気配に、思わず肩が揺れた。声をかけるべきか否か迷っていると、その男の方から口を開いた。

「局長はいるか」
「…え」
「こ、ん藤勲はいるか!」

 顔を上げた男の目は見開かれており、口はわなわなと震えていた。普通じゃないその状態に、私は危険を感じ、震えそうになる体を抑えながら首を横に振った。箒を握る手に自然と力が入る。

「いません、只今隊務で外出しております」
「嘘をつくな!ここにいるだろう!」
「どちら様でしょうか?伝えておきますので、本日はお引取─」
「近藤勲を出せ!!」

 明らかに危険な男だというのに、近藤さんを呼ぶわけにはいかない。かといって、背を向けて走って屯所に逃げるのも得策だとは思えなかった。とりあえず相手を刺激しないように冷静を装い声をかけてみるものの、それも無意味なようだった。男がこの場を離れる気配は少しもない。男は一歩、また一歩とわなわなと震えながら近付き、手に握る新聞紙を私に突きつけた。30センチほどの距離を開け突きつけられているそれに思わず目をやれば、はらりと新聞紙が落ちた。
 男が握っていたのは包丁だった。

「こ、ちらには…」
「近藤を出せェェエ!」

 それは台所でいつも私が握っているものだ。見慣れた、慣れ親しんだもの。それでも、男が持っているそれは禍々しい光を放っていた。いつも私が握っているそれとは、違う。

 どうしよう、誰か気付いて…!

 そのまま男は突くように包丁を前に出し、私に襲いかかってきた。私は目を瞑り、盾になるのか分からない箒を胸の前で握り締めた。

「う゛あ゛あ゛あ゛ぁぁぁぁぁあああああああ!!」
「─っや」

 体が強張り、頭が真っ白になる。

 堪えるように目を瞑り、その衝撃を待つ。

 けれど私に届いたのは鈍い衝撃でも、痛みでもなく

「そいつぁ、料理に向けるもんだろ」

 それは聞きなれた声。いつもより凛とした、近藤さんの声だった。

「なんであろうと、こいつを傷つけるモンを向けてるやつを俺は許さねェがな」

 全身の緊張がとけ、ゆっくりと目を開けると目の前にあるのは大きな、黒い背中だった。冷たくなっていた心臓に、じんわりと温かい血液が流れる感覚がする。
 男は小さく呻き声を上げ、その場にドサリと倒れた。近藤さんの背中越しで何も見えないけれど、近藤さんが刀の柄で包丁を受け止め、男の意識を奪ったようだった。
 私は箒を手放し、代わりに近藤さんの大きな背中に縋りついた。温かいその背中に、大きなその背中に、ひどく安心する。

「近藤さん…!」
「大丈夫だったか?」
「う、ん」
「こういう時はすぐに俺を呼べ、お前は相手にしなくていい」
「でも…」
「これは局長命令だ。…それと、俺からのお願い」

 心配でいられねェよ、といつもの優しい近藤さんの声が漏れた。
 近藤さんは振り向き、私の前髪をかき上げるように頭を撫でた。そうしてもう一度「大丈夫か?」と心配そうに私を見下ろす。私の体の中にはもうこれっぽっちも恐怖心は残っていなくて、近藤さんを見上げながらにっこりと笑って返事をした。
 私を心配してくれることろ。私のためにすぐに駆けつけてくれるところ。あたたかくて大きな手と背中。燐とした声に、優しい声。力強いその存在。
 ぜんぶぜんぶ、愛していると心が震える。

“なんであろうと、こいつを傷つけるモンを向けてるやつを俺は許さねェがな”

 例えば今日みたいに包丁を持ち出す男でも、血塗れた刀を振り乱す男でも。それが小さなナイフでも、形のない言葉だったとしても。たとえどんなにどんなに小さなものでも、私を傷つけるものから貴方は私を守ってくれるの?
 近藤さんの言葉を何度も何度も心の中で繰り返して、その度に胸がきゅっと締め付けられた。

「門周りの掃除はこれから隊士にやらせるか」
「なに言ってるの、女中の仕事奪わないでくださいよ」
「でも今日みたいなことがまたいつあるか分からんからなァ」
「その度に近藤さんが守ってくれるでしょう?」
「そうだけど…」

 じゃあ俺が屯所にいない時は禁止ね、それとなるべく隊士の出入りが激しい時とか…と心配を始める近藤さんに、私は笑って話を聞いていた。あんまり近藤さんが心配しないように、私も護身術くらいは教わろうかなぁ、なんて思いながら。

「あ、いやした。近藤さーん」

 頭を撫でられながら近藤さんの話を聞いていると、屯所から総悟の声が聞こえた。二人で振り返って見ると、総悟の手には隊服のズボンが握られている。
 ……隊服の、ズボン?

「近藤さん、厠使ったらちゃんと流してくだせーよ。これも置きっぱなしでしたぜ」
「すまん!まだ途中だったんだ!」
「ガキじゃねぇんだから、勘弁してくだせェ」
のピンチの気配がしたから慌てちまってよォ」
「ピンチ?あぁ、コイツですかィ」

 まさか?いやいやいやいやいやいや、流石にまさか!流石にまさか!!
 私はギ、ギ、ギと音が出そうなほどゆっくりと、顔を下に下げた。

「─っ!!」

 あ、あああああああああああああああああああああああああもう!!ほんっとこの人は!!
 私は震える手を押さえながら地面に落とした箒を拾い上げた。

「よく分からんが襲い掛かってきてな。暴行罪で逮捕したから聴取をブゴォ!」
「逮捕はお前だァァァァアア!」
「おォ、面一本」

 箒は見事に真っ二つ、隣で総悟は私に拍手を送り、近藤さんは頭を押さえしゃがんで悶えている。頭に出来た大きなコブを押さえ信じられないという顔をして涙目で私を見上げる近藤さんを、私は冷たい目で見下ろした。

「なんで!?なんで俺が逮捕!?感謝状じゃなくて!?」
「当たり前だァ!なんで!?こっちが聞きたい!なんで下半身丸出しなの!?」
「だっ、だから厠の途中だったっ言っ…」
「何があろうともまずズボンを上げるでしょ普通!!」
のピンチにズボンなんてかまってられるわけないでしょォ!?」
「あ、近藤さんそんな体制だと途中だったウンコ出やすぜ」
「そうだった!」
「ちょっ、ズボン履いてけェェエエエエエエ!」

 私の叫びも虚しく、総悟の一言に近藤さんはお尻を押さえながら走って屯所へと消えて行った。せめて、せめて、百歩譲ってズボン持ってってよ……厠から出てからまた下半身丸出しで部屋まで歩くの?せめてズボン持ってってよォォォォオオオオオオ!!

「うっ、うぅ…」

 両手で顔を覆い涙を流す私に、総悟がぽんぽんとなだめるように肩を叩く。

「がさつでケツ毛ボーボーで下半身丸出しのゴリラでもお好きなんで?」

 がさつであろうが、ケツ毛ボーボーであろうが、下半身丸出しだろうが、ゴリラであろうが。彼は私の愛しきヒーローなのだ。私のピンチにズボンなんてかまってられるわけがない、と叫ぶ近藤さんに、私の胸はきゅんとしてしまうのだ。けれど総悟にそんなことを言える状況ではない。
 ニヤニヤとした声でそう問う総悟に、私は呻き声を漏らすことしか出来なかった。







“なんであろうと、こいつを傷つけるモンを向けてるやつを俺は許さねェがな”

 あぁ、あの燐とした声は夢ではないと言うのに。






20100921
2style.net