氷上のお姫様





「わぁ…!」

 朝、朝刊を取りに行こうと玄関を出て、私は思わず声を漏らした。昨夜少しの間降っていた雨が凍り、地面一面ぴっかぴかのつるつるになっていたのだ。薄い氷が一面に張り、まるでスケートリンクのようだった。昨晩は寒い寒いと思っていたけれど、まさかこれほどとは思わなかった。私はぶるりと体を震わせ抱き込みながら、どうしようかと考えた。朝刊を取りに行きたいけど、こんな所を歩いたら滑って転ぶ確率の方が高いのは目に見えている。なにせ私が履いているのは玄関履きの薄れた草履だ。でも誰かが取りに行かなきゃ、朝刊が読めない。誰かが転んで犠牲にならなきゃ、朝刊は取りに行けない。
 ……よし、私が行くしかない。
 そうして私はわくわくしながら一歩を踏み出した。だって、江戸に氷が張るなんて滅多にあることじゃない。テレビで見るゴリンピックのフィギュアスケートを見て、私も滑ってみたいと思っていたのだ。誰かが行かなきゃ、なんて言うものの本当は好奇心、私が行きたいだけだった。
 恐る恐る踏み出した一歩にはまだ体重をかけず、足をわざと滑らせて地面の感覚を確かめる。つるり、と草履がすべる。私の心拍数は一気に上がった。わくわくする気持ちと、これじゃ絶対に転ぶ、という恐怖感。それがまた、私の好奇心を刺激した。
 私は意を決して心の中で「よし」と呟いて、踏み出した一歩に体重をかけた。そうしてすぐにもう一歩を踏み出す。寒さで震える体は固く、滑る地面に緊張が走る。ただ立っているだけでも、怖い。だけどもう一歩、もう一歩踏み出さなきゃ。そうして私はもう一歩を踏み出した。

「あっ」

 体重をかけていた方の足が少し滑り、不安定に揺れる。私は慌てて両手でバランスを取り、体勢を立て直した。ドキドキとする心臓を抑えて、乱れた息を整える。一気に体温が上がった。ダメだ、着物を着てるから足が動かせなくて体勢をくずした時にバランスをとりにくい。転ぶ恐怖を実感した私はその場から動けなくなってしまった。
 寒い。
 怖い。
 でももうちょっと、氷の上を歩いてみたい。

「…よし」

 朝刊を取りに行く、という使命が私にはあるんだから、行かなくちゃ。そう決意して、私はまた一歩を踏み出した。すると今度は滑らずに踏み出すことができた。
 よし、もう一歩。
 そう思い足を持ち上げた瞬間、後ろからかけられた声に私は驚き、バランスをくずした。同時に滑った右足は、そのまま体を後ろへと傾けていく。────こ、転ぶ!

「こら、危ないだろ」

 衝撃に耐えるように目を瞑ったのに、私の体が傾いたのは角度で言って20度かそれだけ。すぐに感じなれた体温に包まれて、顔を上げた先には無精髭が見えた。

「こ、んどうさん」
「草履なんかで出たら転ぶぞ」
「近藤さんが転ばせたんでしょ」
「えっ?俺が助けたんだろ」
「急に声かけるからびっくりしたの」

 腑に落ちなさそうな顔をしている近藤さんを見ながら、私はぶるりと体を震わせた。安心して緊張が解けたら、なんだか一気に寒さを感じた。

「ほら、遊びはおしまい。風邪ひくから入るぞ」
「遊んでたんじゃなくて、私には朝刊を取りに行く使命があったの!」

 この間一緒にゴリンピック見てたから、私がスケートやりたかったことがバレてる、と若干恥ずかしさを感じながらも私は反論した。

「その使命は昼になってからしなさい」

 こんな薄着で、しかも氷の上歩くなんて転んだら危ないでしょ、めっ!なんて、子供を宥めるお母さんのような言い方をされ、私は唇を尖らせた。

「昼じゃ朝刊じゃなくなっちゃう」
「はは、ちゅうかんになっちゃうな、ちゅう〜かん」

 そう言いながら、近藤さんは見上げていた私のおでこにちゅう、と唇を寄せた。私のおでこも、近藤さんの唇も、ひやっこかった。お互いになにも羽織らずに寝間着と着物のままだから、だいぶ冷えてしまったみたいだ。それなのに、私の頬と心の中だけはじんわりと熱くなるのが悔しい。眠たげな緩い笑いと、へにゃりとした髪にも、きゅんとしちゃったし。なんか、悔しい。こんな親父ギャグでちゅうされて、きゅんとしちゃうなんて。
 そんな悔しさをぶつけるように、私を見下ろしながら笑う近藤さんの顎を、拳でぐりぐりと押した。

「私は“ちょう”かんを皆に見せてあげたいのっ」

 私に顎を押されて顔を上に向けた近藤さんは「さぶっ」と言い体をぶるりと震わせて、私を支えるように抱いていた状態から、しっかりと抱き上げた。

「っひゃ」

 抱き上げた私の首元に顔を埋めた近藤さんの頬の冷たさに私は小さな悲鳴をあげた。

「や、だ近藤さん冷たい!」
「だからほら中に入ろう」
「私には」
「スケートしたいだけだろ?」
「う…だって、こんな風に氷はることなんてないんだよ!?滑りたい!トリプルアクセルきめたい!」
「無理無理、転びかけバウアーしかできない」
「なにその格好悪い技」
「さっきやってたろ、転びかけて後ろに反り返るやつ」
「だからあれは…近藤さんによしかかろうとしただけですぅ」
「いやん甘えん坊!じゃあ体冷えたし一緒に朝風呂するか」
「ゴリラの毛が湯船に浮くから無理」
「ちょ、ひどいぃ!」
「ひどいのは近藤さんじゃん!せっかくの楽しみ奪わないでよ」

 離して、とジタバタする私に近藤さんは困ったような顔をした。

「頭打ったら危ないだろ」
「大丈夫だもん」
「風邪もひいちゃうだろうしさぁ」
「少しくらい平気だってば」

 まるで私が湯たんぽかのように、ぎゅっと私を抱き込んで暖をとる近藤さんの手をぺちぺちと叩く。こんなことしている間にどんどん体が冷えて行くんだから、それなら数歩でいいから私に氷の上を歩かせてよ!

「も〜じゃあ俺と手繋いで行くぞ」
「やった!でも近藤さんこそ転ばないの?」
「ひとりよりふたりの方が安全だろ」
「えぇ…近藤さんが転んだら手離してよ」
「なんてこと言うのこの子は!」

 近藤さんは私を下ろして、靴箱の中から私の長靴を探した。私の前に置いてくれた長靴に私は足を通して、持ち上げる。その間に近藤さんも自分の長靴に足を通していた。

「これで滑らなくなるのかな」
「草履よりマシだろ。ほら行くぞ」

 そう言って近藤さんは私の手を引いた。私は歩き方を覚えたばかりの子供のように、ぎこちなく近藤さんについて行った。

「えっ、ちょちょちょ、待って!早い!」

 私が慎重に慎重に一歩一歩踏み出していたのが阿呆みたいな勢いで、普通に歩くよりは慎重だけれどそれに近い勢いで近藤さんは歩き出した。それにつられて私も足を出すのだけれど、草履よりは滑らないとはいえ足元が滑る感覚に緊張でじわじわと汗をかく。

「早く使命果たして朝風呂しないと風邪ひくだろォ」
「朝風呂したいだけでしょ!」
「あれ、バレた?」
「ば」

 か、と言おうとした私の声を遮って、私が言おうとした言葉を笑いながら叫ぶ隊士の声が聞こえた。

「バーカ!」

 近藤さんと二人で声がする方を見れば、どうやらこれから見回りに行く隊士達のようだった。見事に転んだひとりの隊士を三人の隊士が笑って、地面に尻餅をついた隊士が悔しげに足を引っ張りもうひとりの隊士が転んだ、と思えば転ぶまいと隣にいた隊士に掴まり、掴まれた隊士が更に隣の隊士に掴まり、結局全員が転んだ。笑い声がすぐに怒声に変わる。

「なにやってんだあいつら…おい!任務行く前に怪我するんじゃねぇぞ!」

 お前のせいだ、なんだとテメェ、と言い合っていたのに、近藤さんが声をかければその声もピタリと止まり、全員がこっちを見た。

「「「「おはようございます!」」」」

 威勢の良い挨拶に返事をすれば、隊士達は滑りつつも立ち上がった。

「なにやってんスか局長、んな薄着で風邪引きますよ」
「朝刊取りに行くんだよ」
「朝刊?俺が取ってきましょうか」
「だめだめだめ!それは私の仕事だから!」
「んなへっぴり腰じゃ門につく前に昼になってまさァ」
「ひゃあ!」
「コラ総悟!危ないだろ!」

 朝刊をとってきてくれると言う隊士に大声で叫べば、こんな時間に聞こえるはずのない声がした。振り向く間もなく足を引っ掛けられ、バランスを崩した私は慌てて近藤さんにしがみついた。なんとか転ぶことを免れつつ背後を思い切り睨めば、声の主、総悟が意地悪く笑っている。

「危ないでしょ!」
「滑っちまったんでさァ」
「嘘つき!」
「総悟お前どうしたこんな時間に。珍しいな」
「どっかの誰かさんと違ってへっぴりスケート遊びなんかしねェで仕事してたもんで」
「だから江戸に氷はったわけね」
「あ?」

 総悟が珍しいことするから、と嫌味を返せば再び私に足をかけようとする総悟の肩を近藤さんが止めた。

「ほら総悟、熱い風呂でも入ってもう寝ろ」

 疲れただろ、と言う近藤さんに、総悟はしれっとした顔で「朝刊が読みたい」と言った。

「今まで一度だって読んでる所見たことないんですけど!」

 思ったことをそのまま声に出せば、総悟の顔に浮かぶのはあの意地悪な笑みだ。どうせ私が転ぶ所を見たいだけでしょ。悔しい、絶対に新聞の隅から隅まで読ませてやるんだから。

「行こう近藤さん!うちの隊長がようやく勉学に目覚めてくれたみたいだから!」
「お、おう。危ないからもっとゆっくり歩けよ」

 がっちりと近藤さんの腕を掴んで私は一歩を踏み出した。ひとりで歩いていた時ほどの恐怖心はなかった。転びそうになったら、近藤さんが支えてくれるから。
 右手で近藤さんの腕をとって、左手で体のバランスをとる。滑っているわけじゃなくてただ歩いてるだけなのだけれど、それでも楽しかった。今度の近藤さんのお休みにはスケート場に連れてってもらおうかなぁ。なんて、私はご機嫌だったっていうのに!

「危ねェから俺も手を繋いでやりまさァ」
「っ!?」

 バランスをとっていた左手を総悟に掴まれて、くいっと引っ張られる。軽くバランスを崩しながらも近藤さんに手を引かれて、私が転ぶことはなかった。私が怒る前に、近藤さんの声が頭上に響く。

「総悟!」
「なんでィ近藤さん、危ねェから掴んでやってるだけですぜ」
「逆に危ないってば!やだ、離してよォ!」
「局長の大事な女を転ばせるわけにはいけねェんでさァ」
「顔!顔はまったく違うこと考えてる!」
「顔に出にくいタイプなもんで」
「いや分かりやすいほどに出てるから!」

 手を離してもらおうと振り払うのに、総悟は痛いほどに私の手を握って離さない。心配だ、なんて口では言いながら顔には悪い笑顔が浮かんでいる。助けを求めるように近藤さんを見れば、近藤さんも困ったような顔をして笑っていた。

「総悟、転んだら本当に危ないんだぞ。絶対に引っ張ったりするなよ」
「分かってやす。そんなことしやせんよ」
「嘘だあ、そんなこと言って何度ひどい目にあったか」
「まぁ、俺が滑って転んじまって手を引いても、そりゃ不可抗力ってやつで仕方ねぇですよね」
「ほら…!転んだフリする気まんまんだよ!」

 助けて近藤さん、と見上げれば、近藤さんは笑っていた。

「総悟も一緒にスケートしたいんだとよ」
「違うってば絶対!」

 近藤さんのお人好し!と叫べば、隣では「どこかの誰かと違って近藤さんは邪心がなくて良い男でさァ」なんて言い出すものだから、私は総悟の手を強く握り返した。

「じゃあ甘えん坊の総ちゃんも一緒にスケートしましょうねぇ」
「ア?なんだと?」
「はいはい、ほんとに風邪引くから行くぞ〜っうお」
「ひゃあ!」
「げっ」

 近藤さんに手を引かれたかと思えば、つるりと近藤さんの身体が傾いた。しっかりと掴まっていた私もその勢いのまま足を滑らせ、そして反射的に総悟の手を引き寄せた。
 転ぶ、と思い目を瞑れば、氷に身体がぶつかる音がした。衝撃に驚いて数秒目を開けられずにいたのだけれど、ふとどこも痛くないことに気がついて私は目を開けた。
 視界に映るのはだんだんと明るむ空と、真っ白い空気だけ。

「痛てて」
「痛てェーなァ」

 近藤さんと、恨めしそうな総悟の声が聞こえて顔を動かせば、私たちは何とも奇妙な体勢をしていた。近藤さんの胸に私の上半身は乗っかっていて、下半身は膝立ちしている総悟の左腕に支えられているのだ。近藤さんの左腕を掴む私の右手も、総悟の右手とつながっていた左手も、離れずにそのままで。どうやら転んだ近藤さんが右手で私の身体を自分の上に引き寄せて、総悟は転びかけながらも私が尻もちをつかないように支えていてくれたようだった。
 心配しながら近寄ってくる隊士達の声に、私は笑いをこぼした。

 私ってば、なんて不格好な氷上のお姫様なんでしょう。






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