さくらいろのねむり





 船べりに座りながら、ぼうっとしている私の背中に声がかけられた。それは穏やかな、たったひとこと呼ばれるだけで、とろけてしまいそうになる、サンジの声。

ちゃん」
「…ん?」
「ちょっとおいで」

 手招きをするサンジに、私は首をかしげながら立ち上がった。要件はなにか、と目線を合わせてみてもサンジが答える気配はない。私から少し離れたところに立ったまま動かないものだから、私は言われた通りにサンジに近づいた。
 船尾では、魚が釣れたのかルフィ達がギャーギャー騒いでいる声が聞こえていた。

「どうしたの?夕食のお手伝い?」

 近づいて見上げて、私がそう問うてもサンジはにっこりと笑って私の手をとっただけだった。私は更に首をかしげ、サンジはそのまま私の腕を引いて歩き出した。
 どこに行くんだろう?そう心の中で思ったはずなのに、サンジの耳には届いていたようで、さんじは私に背を向けたまま「キッチン」とだけ紡いだ。けれどそれ以上喋る様子はなく、そのまま歩き続けている。
 私の心の中の声には答えてくれるのに、私が音にした声には答えてくれないなんて、変なの。

 手を引かれるまま、私はサンジの背中を見つめながら後ろを歩いていた。別に急ぐわけでもなく、むしろゆっくりと一歩一歩を進むサンジ。私の歩幅に合わせてくれてるのだろうか、いつものサンジからは考えられないほどゆっくりと歩くその歩みは本当に遅くて、いくら私に合わせるにしても遅すぎるほどだった。そのおかけで時折、私はサンジの背中におでこをぶつけたり、サンジのかかとを蹴った。その度に私は謝って歩幅を揃え直すのだけれど、サンジの歩みは早くなることはなく、謝まる私を微笑んで見下ろすだけだった。
 キッチンで何をするんだろう?肯定も否定もしてくれなかった夕食のお手伝い?それとも、ルフィが入って来ないように見張り番かな。答えが見つからないままキッチンに辿り着けば、サンジは私の手を引いたままどんどん中へ進んで行って、見張り番の可能性は消えてしまった。それじゃあやっぱり夕食のお手伝い?そう思ったのに、サンジは私の手を引いたままアクアリウムバーのソファに座るように促すものだから、私が予測した可能性は全て消えてしまった。

「ちょっと待ってて」

 私をソファに座らせ、握っていた手をそっと離してひとりキッチンに入るサンジ。
 私はここで、一体何をすれば良いんだろう?分からない答えを探しながら大人しくソファに座っていると、ふんわり甘い香りが漂ってきた。
 3時のおやつは少し前に食べたのに。それなのに、この甘い香りは何?夕食のデザート?もしかして、味見役かな。
 先ほどから何も答えてくれないサンジに、私の頭の中はクエスチョンマークだらけだ。それでも大人しくソファで待っていると、サンジが私のために選んで買ってくれた、私のお気に入りのマグカップを持ったサンジが戻ってきた。

「どうぞ」

 そう差し出されたマグカップを私は受け取り目線を下ろした。
 ふわふわの真っ白な泡が桃色に染まり、甘い湯気がふんわり立ち上がっていた。
 少し控えめな、あまあい香り。湯気と共に舞い上がり私の鼻腔をくすぐった。じんわりと手のひらを温めるマグカップから、全身がふんわり甘く暖まる感覚。

「美味しそう」
「さくらのラテだよ」
「だから桃色なの?」
「そう、その桃色はさくらの粉末の色」
「さくらって、どんな味?」
「それはほら、お試しあれ」
「…でも、おやつはさっき食べたし、夕食前だよ?」
「いらない?」

 にっこり笑いながら隣に腰掛けるサンジに、私はふるふると首を振った。こんなに心をくすぐる美味しそうなもの、いらないわけがなかった。だけど、おやつも食べた後の夕食前なのに、私だけ、いいのかなって思ったの。
 私はそんなことを思いながら「いただきます」と小さく答えてマグカップに口をつけた。
 やわらかいミルクの味の中にほんのり香る、さくらの香り。
 ひとくち、またひとくちと口をつければ甘さと温かさが体にじんわりと染み込んでいく。その感覚に、ほうっと息をついていると、サンジの手のひらが私の頭に乗せられた。緩く撫でられ、サンジの方を向けば、サンジはじっと私の瞳を見つめていた。

「休んでいいんだよ」
「…え?」
「疲れた時は疲れたって言っていいし、ゆっくり休んでいいんだよ。ちゃん、ちょっと疲れてるだろ」
「………」

 なんで知ってるの、と口をついて出そうだった。サンジはもしかして、本当に私の心の中の声が聞こえているの?
 何も言えずただ見つめるだけの私に、サンジは言葉を続ける。

「アイツ等は無駄にタフで疲れたっつう感覚ねぇアホだから、ちゃんはアイツ等に合わせなくていいんだよ」
「……わ、たし」
「疲れてない、って?」

 どう答えようかと思案する私に、サンジは微笑む。

「おれちゃんのことすっげーよく見てるから、ちゃんが疲れてるのも、それを見せないようにしてるのにも気付いたんだけど、違った?」

 そんな風に優しく微笑まれてしまっては、否定することも出来ずにただ頷いて、同意するしかなかった。

 サンジの言う通りだった。チョッパーに診てもらうほど体調を崩しているわけじゃない。そこまでならきっと、チョッパーが気付いてくれて私の所に医療バックをもって駆け寄ってくれるはず。そこまでじゃないんだけれど、少し息をついて、だらりと横になっていたい。いつものように元気いっぱいに走り回っていられるほどの元気は今の私にはなかったのだ。だけど本当にほんの少しの疲れで、いつも通りの生活が出来ないほどじゃなかったから、わざわざ皆に疲れた顔を見せたくなくて我慢していたの。我慢なんて言葉を使っていいのか分からないほどに、ほんの少しだけれど。
 それを全て、どうしてサンジには見抜かれちゃったんだろう。現に皆はきっと気付いていない。だって、気付かれないほどの、私自身やり過ごせてしまうほどの、ほんの少しの疲れなのだ。

 それなのに、どうしてサンジは…

「それでも気になって疲れたって言えないなら、こうやって俺の所においで。ここなら誰も見てないから、ゆっくり休めるだろ?」

 じっと見つめてくるサンジの碧い瞳に吸い込まれそうになりながら、無意識に私はこくんと頭をたてに振っていた。

 疲れた、って言って、ここで休んでいいのかな。瞳を閉じて、一息ついていいのかな。

「いいよ」

 私が心の中で呟いた言葉なのに、サンジにはやっぱり聞こえていたのか微笑みながら頭を撫でられた。
 どうして、私の心の中の声が聞こえているの?

「冷めないうちに、ほら」

 不思議に思いながら、私は体にじんわり温かく染み渡るさくらラテを飲んだ。
 じんわり、じんわりと体に沁み込むものを感じながら、私はぽつりと口を開いた。

「ほんとにちょっとだけ疲れただけで…みんなの前で疲れたって言えないとか、信用してないとか、そういうんじゃないからね?」

 もうひとくち飲む前に、そうサンジを見上げれば「わかってるよ」と微笑みが返ってくる。私はその微笑に安心しながら再びマグカップに口をつけた。




 こくり、と最後のひとくちを飲み干して、ほうっと一息をつく。ソファに背を預けて少しだらしなく座り、私はずり落ちるように隣に座るサンジに体を預けた。

「ごちそうさま、美味しかったです」
「そりゃあ良かった。リクエストがあればいつでもどうぞ」

 …そんなこと言われたら、疲れてなくても来ちゃうよ。
 私を優しく甘やかすサンジに、嬉しさとじれったさを感じながらそんなことを思っていると、頭上から聞こえた声に私は目を丸くした。

「疲れてなくても、いつだって来ていいんだよ」

 どうして、サンジは私の心の中の声に答えるの?
 心の中でそう思いながら驚いて見上げれば、それすら見抜いたようにサンジは笑っていた。


「どうして俺がちゃんの思ってることが分かるのか、その答えは早めに見つけてくれよ」

 サンジには私の心の中の声が聞こえる、その答えはなんだろう。考えてみるものの、じんわりと温まった体に、私の瞼は重くゆるく、閉じてしまったのだった。


 瞼を閉じる前に視界に映った空気の色は、さくらいろのようだった。






20110303
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