僕は君とキスがしたい




「キスしていい?」「ダメ」からはじまるシリーズ
01.神楽亜貴 / 02.大谷羽鳥 / 03.槙慶太 / 04.桧山貴臣






01. 神楽亜貴の場合



「キスしてもいい?」
「……だめ」
「……羽鳥の入れ知恵でしょ」
「い、ひゃい」

 亜貴のお部屋で、亜貴のお気に入りの紅茶と、亜貴に教えてもらってからお気に入りになったチョコレイトケーキを頂きながら、亜貴が衣装を手がけたフランス映画を見ている、そんな亜貴づくしで満たされた柔らかな午後のことだった。
 綺麗な風景や街並みが映る映画はまだ始まったばかりで、亜貴が手がけたドレスが映るのもまだまだ先のことだというのに、どうやら集中していなかったらしい彼は私の頬を撫でてそんなことを聞いてきた。普段ならそんな風にあまり聞いてきたりはしないのに、流石に始まったばかりの映画に思うところがあったのか、顔を近づけながら囁かれたその言葉に、私はほんの少し迷いながらも口を開いた。
 亜貴は私の返事を聞いて一瞬動きを止めた後、すぐに眉間に皺を寄て、優しく撫でてくれていたその指で私の頬を抓った。
 痛みに顔をしかめながら、なんですぐに分かったんだろう、と亜貴の羽鳥センサーに私は驚いていた。

 亜貴の言う通り、これは羽鳥の入れ知恵だった。「ちゃんは神楽のことなんでも受け入れてあげちゃって、ちょっと甘やかしすぎじゃない?」だなんて笑ってグラスを傾けた羽鳥が続けて言葉にしたのが「ダメ、って今度言ってみなよ」という、イタズラのようなアドバイス。羽鳥は亜貴をからかうのが大好きだけれど、私も亜貴も本当に困らせるようなことは絶対に言ってはこないのだ。それが分かっているから、私もほんの少し、亜貴がどんな反応をするのか見てみたくてついつい試してしまった。
 あっという間に羽鳥のせいだということがバレて、亜貴の反応は全然分からず仕舞いになってしまったけれど。

「羽鳥の言うことなんか間に受けて、可愛くない反応しないで」
「……可愛くない?」
「これっぽっちも可愛いくない」

 ほんの少しの拒絶は男心をくすぐる、だなんて羽鳥は付け加えていたはずなのに。私の頬をつねった亜貴は不満そうな顔をしていた。彼のその表情に、そして「可愛くない」というその言葉に、羽鳥のイタズラに乗った私が悪いのは分かっていても悲しくなってしまう。亜貴の気持ちを確認するように聞き返せば、ダメ押しのようにもう一度「可愛くない」の烙印を押されてしまった。
 こんなことなら素直に、いつものように嬉しさで口元が緩むのを堪えながら、瞼を下ろしていれば良かった。そうすれば「可愛くない」だなんて言われることもなく、亜貴の優しい手のひらに包まれながらキスをしてもらえたのに。
 羽鳥のばか。

「いつもみたいに、嬉しそうに口元を緩めてるのが一番可愛いんだから」

 そう言って、亜貴は頬から指を離して私の唇を優しくなぞった。
 羽鳥のことだけじゃなくて、私のことまでもバレている。いつも必死に隠していたはずなのに。

「変な嘘なんてついてないで、僕の言うことだけちゃんと聞いてて」

 そうして落ちてきた唇と頬を撫でる手のひらの優しさに、もう隠す必要なんてないんだと気付かされた私は嬉しくて、幸せで、思わず笑い声を漏らしてしまった。


 ちょっと、だなんて笑いながら咎められても、だって亜貴はこれが可愛いって言ってくれたんだから、と幸せがこぼれた小さな笑い声を私は止めることができなかった。






* * *







02. 大谷羽鳥の場合



「キスしてもいい?」

 そう聞いてきた羽鳥さんに驚いて、返事も出来ずにいた私よりも先に返事をしたのは亜貴ちゃんの方だった。

「はぁ!?」
「亜貴、ちょっと声でかいって」
「みんなで飲んでる時に何考えてんの!?」
「神楽は固いなぁ、いいじゃないキスくらい」
「相変わらず大胆だな」
「情熱的、っていう受け取り方をしてもらえた方が嬉しいけど」

 予想通りの反応をして、私の気持ちを代弁してくれる亜貴ちゃんに、それをいつものようになだめている慶ちゃん。相変わらずほんの少しも動揺しない桧山さんに、羽鳥さんは面白そうに返事をしていた。そのどれもがいつも通りに見えて、羽鳥さんの言葉の意味だけが、私にとっては “いつも通り” とは少し違う気がした。

「情熱的っていうか、付き合ってもいない子に対してどういうつもり」
「あれ、どうして俺とちゃんが付き合ってないって決めつけてるの?」

 聞いてないんだけど!と言わんばかりの勢いで振り返って私を見る亜貴ちゃんに、私は慌てて両手を横に振った。付き合ってない、私と羽鳥さんは決して付き合っていない。だからこそ、わたしも彼の発言に驚いて、硬直してしまったんだから。
 女の子が喜ぶような、戸惑うような、そんな言葉を彼が息を吐くように並べることは知っているし、もれなく私にもその言葉をかけてくれるのは何度か経験しているけれど、だからこそ本気にならないようにと一歩後ろに下がって受け答えて、羽鳥さんもそれを分かってくれていると思っていたのに、なんだか今日の言葉はいつもよりも熱がこもっているような気がした。だけどこうしてみんなのいる前で紡がれた言葉に熱がこもっているはずもなく、きっと私の勘違いだったんだと思う。
 いつものように一歩後ろに引いた言葉を、そう思って口を開いたのに、ふいに私の手を握った羽鳥さんの手のひらが、なんだか汗ばんでいる気がして、再び言葉を失ってしまった。

「付き合っていなくても、好きな子にはキスしたくなっちゃうものでしょ?」
「……えっ、と」
「どうだったとしても、ここでなんてありえない」
「そう?じゃあ、ちょっと席を外すね」

 亜貴ちゃんの言葉に、待っていましたと言わんばかりに立ち上がり、羽鳥さんは私の手を引いてBarを出た。

 やっぱり、おかしい。
 ふたりで話したいことがあるなら、彼ならもっと上手く私を連れ出せたはずだし、そもそも私が返事に本気で困るような言葉をかけてきたりもしない。何度か触れたことのある羽鳥さんの手はいつも穏やかな体温で、焦りも緊張も、そんなものとは無縁なものだったはずなのに、今はまるで彼の鼓動すら聞こえてきてしまいそうなほどに、熱くて、私の体温までが上がりそうだった。

 エレベーターの中でも無言のまま、私の方を見ない羽鳥さんに連れてこられたのは屋上のルーフトップ。
 急かすような足取りではなかったはずなのに、息が切れそうだった。そんな私の気持ちを宥めてくれるような穏やかな風の中で、羽鳥さんは熱っぽい瞳で私のことを見つめた。彼の背後に見える夜景に、いつもならきっとはしゃいでしまうのに、今はもうぼやけてしまって、瞳から視線をそらせなかった。

「ごめんね、困らせちゃった?」

 分かっているくせに、と心の中で答える私の返事を、羽鳥さんはやっぱり分かっていて、私の返事も待たずに言葉を続けた。

ちゃん、誘っても俺とふたりじゃ遊んでくれないでしょ」

 もう一度、同じ言葉を心の中で唱えた。
 私は、羽鳥さんの言葉を冗談以上に受け取ってしまうのが怖かった。ほんの少しでも、そんなきっかけを自分に作りたくなかったのだ。だからこそ、羽鳥さんだって無理に私とふたりになろうとなんて、しなかったはずなのに。
 それなのに、今日の羽鳥さんはどうしちゃったんだろう。

「みんながいないとちゃんに会えないのが、なんだか急に物凄く嫌になっちゃって」

 ───────ふたりっきりになりたかったんだ。

 そう言って、手を握る以上のこともせず、一定の距離を保ったままで羽鳥さんは私を見つめていた。

 キスしてもいい?だなんて聞いてきたくせに。恥ずかしがって、動揺する私をからかうように、急に距離を縮めてきたりするくせに。それなのにこんな、繋いでいるとは言えないような、私の手をただ握るだけで、緊張していると言いたげな汗ばんだ手のひらを、私に隠そうともしないで。まっすぐに、私しか見ないだなんて。
 こんなの、いつもの羽鳥さんじゃない。
 こんなの、おかしい。

「ねぇ、ちゃん。キスしてもいい?」

 きっと、世界中に、誰ひとりとして羽鳥さんのその言葉を、拒める女の子なんていない。
 羽鳥さんはそれを分かっていて、そしてきっと、私も同じように拒めないことが彼にはバレている。だけど、まだだめ。今はまだ、私はこの言葉しか、言ってはいけないのだ。

「……だめ」

 必死に、縦に揺れてしまいそうな頭を押さえつけて、なんとか絞り出した声に、羽鳥さんは情けない顔をして笑った。
 そんな羽鳥さんの表情を、私は初めて見た。

「ずるいなぁ」

 それは羽鳥さんの方だ。
 突然始まったこれはゲームなのか、それとも絶対に知ることが出来ないと思っていた彼の本気なのか、誰か教えて───────





 彼が離せば簡単にほどけてしまう手を、絡めて繋ぎ止めておきたいって、本当は私、ずっとずっと思ってたんだよ。






* * *







03.槙慶太の場合



「キスしていい?」

 車に乗り込んでからそう問いかけた俺に、は一瞬驚いた顔をした後に笑った。

「えぇ、ダメだよ」

 せっかく亜貴ちゃんに塗ってもらったのに、とれちゃうじゃん、と悪びれる様子もないの返事がこうなるであろうことは俺も分かっていた。だからこそ、敢えて聞いたのだ。
 そんな彼女の唇は、控え目だけれども艶やかに光っていた。

「……どうしてもダメ?」
「も〜、慶ちゃんどうしたの?」

 粘る俺に、は少し困惑しているようだった。
 今、の唇を覆っているもの。それは、先ほどが言ったように、亜貴が彼女に塗ってくれたリップクリームだった。
 俺が待ち合わせ時間に少し遅れるからという理由でにカフェで待っているようにお願いしたその場所で、どうやら亜貴とばったり出くわし、唇が乾燥している、と怒られたらしい。俺が迎えに行った時には既に亜貴の姿はなく、車に戻る途中にその話を聞きながら、俺の意識はの唇にばかり向けられていた。
 乾燥している、と亜貴は怒ったようだったけれど、俺から見ると怒られるほどには見えなかった。もそう思ったらしく、乾燥は感じていたものの「やっぱり亜貴ちゃんは厳しい」と、塗られたリップクリームの感触に満足しつつも、少し不満そうに唇を尖らせていた。
 亜貴がわざわざ塗ってくれたのだからきっと効果があるのであろうそのリップクリームが、キスをしたらとれてしまう、とがダメだと言うその理由はよく分かってる。

「ちゃんとケアしてないと、私が亜貴ちゃんに怒られるんだよ?」

 よく、分かってはいるのだ。

「っ───────け、い」

 分かってはいる。けれどどうしても、の唇を覆っているものを剥がしたくて仕方がなかった。

 今、すぐに。どうしようもなく。

 近付く俺に動揺しつつも、が本気で拒むわけもないことも分かっていて、彼女の言葉を無視して俺は艶めく唇に自分の唇を重ねた。
 の唇を覆うそれを、全て絡め取るように。
 深く深く、くちづけをして、リップクリームの味も消えた頃、ようやく拒むようにが俺の胸を押した。弱々しい手に、そっと唇を離せばうるんだ瞳で俺を見上げていて、彼女の唇は先ほどとは違う艶めきがあった。
 自分の瞳に広がる彼女のその姿に、胸の奥がひどく熱くなった。
 罪悪感と、満足感。先ほどまで心の中でくすぶっていたものは消えて、俺ひとりがほっとするように息をついたことを、にうまく説明することもできず、したいとも思えなかった。こんな気持ちを、彼女に知られたくない。それなのに、無性にぶつけてしまいそうになる。
 自分のそんな身勝手さと矛盾を知る由もなく、ただただは突然のことに驚いているだけのようだった。俺の胸を押した手は、すがるようにシャツを握っていた。

「慶ちゃんが、亜貴ちゃんに怒られてよ?」
「ん、ごめん」

 シャツを握るの手に自分の手を重ねて謝れば、彼女はくすりと笑って「いいよ」と答えた。
 今までだって亜貴がに化粧をしてあげたことなんて、何度もあるのに。今日は一体何が違ったのか、俺自身もよく分からなかった。

「これ、亜貴がおすすめしてくれたやつだから効くと思う」

 罪滅ぼしのように、スーツの胸ポケットからリップクリームを取り出してに渡せば、は嬉しそうに目を閉じた。

「慶ちゃんが塗ってくれたら許してあげる」

 可愛い彼女のそんな姿に、俺は吸い寄せられるように再びキスをした。






* * *







04.桧山貴臣の場合



「キスをしてもいいか?」

 桧山さんの仕事終わりに一緒にお食事をして、ほんの束の間のデートが終わり車で家まで送ってもらった最後の言葉。
 玄関前まで送ってくれた桧山さんは、私の髪を撫でながら優しくそう問いかけた。

「……だめ、です」

 こんなことを言って、後で後悔するのは自分なのに。わかっているのに、そんな自分をどうしようも出来なかった。
 桧山さんが忙しいことも、そんな中でも時間が空けば私のために使ってくれることも、十分わかってる。だけどいつも、お別れするこの時間が苦手だった。夜だと特に、ひとりで眠るベッドが寂しくて嫌だった。おやすみ、という言葉と共におりてくるくちづけの優しい温度が忘れられなくて、夜が深まるたびに思い出しては恋しくなってしまう。
 それならいっそのこと、思い出す体温がなければ。
 そうすれば、ほんの少しでも桧山さんを恋しく思う気持ちを薄められるんじゃないかだなんて、そんなことを思って初めて彼に対して紡いだ二文字。
 桧山さんは、どう思ったのかな。

 反応を確認するのがこわくて、私は俯いたまま動けなくなってしまった。
 桧山さんはきっと帰ってからも仕事があって、明日も朝が早いはずだった。それなのに、こんなことで彼を煩わせて、時間を奪って、本当はこんなことをしたかったわけじゃない。素直におやすみなさいを告げて笑顔でお見送りをして、また次に会える日まで、ほんの少しでも桧山さんの記憶の中の私を可愛く彩っていたかったのに。

 うそだよ、と言って顔を上げれば、きっと今ならまだ誤魔化すことが出来る。
 何かを堪えるように手を小さく握りながら顔を上げれば、桧山さんは優しく微笑んだままだった。むしろ先ほどよりももっと、慈しむような眼差しで私を見ていた。困らせるようなことを言っているはずなのに、どうして?と問いかける間も無く、しっかりとした腕に抱きしめられて、胸の奥が苦しくなった。

「ダメな理由を聞くまでは帰せないな」

 やさしい、やさしい声。そんなことを言われてしまったら、余計に話せなくなってしまう。話したく、なくなってしまう。
 そんな私の気持ちすらも見透かしたように、桧山さんの腕の中から見上げた私に、彼は微笑んでくれた。

 もう、目の前は私の家なのに。まるで攫うように私の腰に腕を回して車へと戻る桧山さんに、本当はいつも帰りたくなかったの、と伝えることができたら───────

 ねえ、桧山さん。いつか聞いてくれる?




 憂いていた夜は消えて、甘く深まる夜が私を包んだ。







20200917
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