キミも知らない秘密のフェイス





 強引に引き寄せられた腕に驚いてが顔を上げれば、そこには黄瀬の姿があった。自分にこんなことをするのは黄瀬くらいしか思いつかないは、そこにいるのが黄瀬であることには驚かず、更には引き寄せられたことにも驚かなかった。驚いたのは、黄瀬のその表情にだった。
 真剣なその表情に、わずかに怒りが浮かんでいる。こんな表情は今まで自分に向けられたことはなかった。

「黄、瀬くん、自主トレは?」

 口籠りながらも問いかけたに、黄瀬はすぐに返事をしなかった。いつもなら食い気味にでも返事をしてくるというのに、今は何か言葉を探しているようだった。
 は黄瀬のその態度に、何の見当もつかない。
 ──────黄瀬くん、なんで怒ってるんだろ?
 そわそわとしながら見つめてみても、黄瀬の表情は緩まなかった。
 の所に来るその瞬間まで、黄瀬は先ほどが見た時のように放課後の自主トレを続けていたのだろう。まるでコートがここまで広がったかのような勢いで走り着いた黄瀬は、汗で濡れていた。シャワーを浴びている途中に出てきたかのように額から流れる汗を拭いてあげたいと思うのに、今はそれを許されていないような黄瀬の空気には若干腰が引けてしまっている。
 口数と表情の多い黄瀬が、今はじっと口を結んでを見下ろしていた。粗い呼吸を抑えるような息遣いは、自主トレのハードさを物語っているのか、怒りの強さを表しているのか、には判断が出来なかった。ただでさえ黄瀬は格好良い。ただ見つめられるだけでも、ただ汗で濡れているだけでも、の胸を逸らすというのに今は静かに湛えられた怒りにいつもとは違う動悸が混じり、はどうして良いのか分からなかった。
 ──────早くいつもみたいにその気持ちを教えてくれたらいいのに
 そうが思おうとも、黄瀬はなかなか口を開かなかった。

「黄瀬くん、自主トレもういいの?」

 もう一度、勇気を出してが口を開けば黄瀬は項垂れるように顔を下げた。よりも背の高い黄瀬の表情は、いつもなら顔を下げても見ることが出来た。けれど今は、汗ではりついた前髪が邪魔をしてうまく見ることが出来ない。そのことが更にの不安を煽った。
 ぽたり────と落ちた汗が、まるで涙のように見えて、は自分から黄瀬に一歩を詰め寄った。

「黄──」
「なに、喋ってたんスか」
「え?」
「笠松センパイと!」

 声の勢いと共に上げられた黄瀬の顔は、先ほどと同じように真剣で、そして今度ははっきりと怒りが浮かんでいた。けれどその怒りを堪えようと眉を寄せていた。
 何故、黄瀬が怒っているのかは未だに分からず困惑しながら口を開いた。

「わたし、勝手に待ってたから、みんな終わったみたいなのに黄瀬くん出てこなくって……まだかな、って思って」
「それだけじゃないっスよね」

 その場にはいなかったのに、まるで知っているかのように確信めいて言う黄瀬に、は更に困惑した。問い詰められるような会話をした記憶はない、と思い返していると再び腕が引かれた。



 の腕を握る黄瀬の手は、ひどく熱かった。

「なんであんな顔、してたんスか」

 いつもまるで壊れものを扱うように、自分はお姫様なんじゃないかと思ってしまうほど優しく触れる黄瀬の手が、今は痛いくらいだった。いつもにこにこと笑って、何もなくてもつられて笑顔になってしまう黄瀬の笑顔が、今は見当たらない。

「あんな顔、って?」

 心当たりが見つからないは、首をかしげてしまいそうになるのを堪えた。心当たりがないことすら、黄瀬の怒りを買っているようだったからだ。

「あれは、オレにしか見せない顔っスよ」

 ”オレにしか見せない顔”それがどんな顔なのか、は分からなかった。自分の表情は、鏡を見なければ分からない。黄瀬といる時の自分がどんな顔をしているのか、頬を赤らめているであろうことくらいしか想像がつかなかった。

「オレが好きだから、オレだけに見せてくれてたのに」

 一方的にそう責められても、は返す言葉がなかった。
 ”あんな顔”がどんなものなのかも分からなければ、自分がいつその顔をしたのかも分からないからだ。「オレが好きだから、オレだけに見せてくれてたのに」という相変わらず自信に溢れた黄瀬の発言に否定する部分は見つからないが、頷くことも出来なかった。けれど黄瀬にこんな顔をさせているのは間違いなく自分なのだ。は黄瀬から与えられた言葉を頼りに、その理由を探った。

 ──────私が黄瀬くんを好きだから、黄瀬くんにだけ見せてた顔。いっつも私、黄瀬くんの前でどんな顔をしてるんだろう?黄瀬くんの前だといつもドキドキして、胸が苦しくて、だけどあったかくて安心出来て…それって、どんな顔をしてるんだろう。変な顔じゃなきゃいいんだけど。

 そこまで考えて、はもしかして、と思った。そしてそれはすぐに確信に変わる。
 案外簡単に見つかった答えに、すっきりとした気持ちでは顔を上げたが、黄瀬の顔を見てその気持ちもすぐになくなり、眉を下げた。
 怒りを堪えるように寄せられた眉が、まるで涙を堪えるために寄せられているように見えるのだ。汗ではない、今にも瞳から涙が落ちるのではないか、とは思った。実際は黄瀬の瞳に涙は浮かんでいない。けれど、には見えたのだ。怒りよりも、黄瀬が抑えている悲しみの方が何倍もずっとの心の中に入って来た。

「なんで笠松センパイの前で、あんな顔になるんスか」

 その言葉尻に、笠松に少しでも異性としての好意を感じたからなのか、という問いかけがには聞こえた気がした。
 先ほど伸ばしたかった手を、はすんなりと伸ばした。黄瀬の目尻に触れて、優しく撫でる。汗が流れてくるのは額からだったが、何よりも先に、黄瀬の目尻を拭ってやりたかった。

 ──────あんな一瞬を見て、あんな一瞬に、こんな真剣に想ってくれるなんて

 嬉しいような、そんな顔をさせてしまったことが切ないような、うまく言えない感情にはもどかしさを感じていた。
 伸ばした手で黄瀬の左耳に髪をかけて、ピアスに触れる。そうすると黄瀬は必ず一瞬目を細める。は黄瀬のその顔を見るのが好きだった。黄瀬が言う“あんな顔”がには未だに分からないが、きっとこういうことなのだろうと思った。
 自分だけが知っているはずの、愛しいその表情。

 ──────黄瀬くんはきっと、今の自分の顔を知らない。私だけが知ってるんだ

 だから私が”あんな顔”を知らなくても良いんだ、とは納得した。

 ──────それよりも重要なのは、黄瀬くんが眉を寄せてしまった理由は、私がどうして黄瀬くんの前以外でその顔をしたのかということ。そんなの、とっても簡単なことなのに

「黄瀬くんの話してたんだよ」

 どうして“オレのことが好きだから”なんて自信たっぷりに言える人が、そんな顔をしてしまうのかとは不思議だった。きっとその顔は、黄瀬の前でだけしていたわけではない。黄瀬のことを想った時にしていた顔なのだ。少し考えれば分かるはずなのに、それに気付かずに汗も拭かず走ってくる黄瀬にの胸は締め付けられた。

「オレの話?」
「うん」
「ほんとに?」
「うん」

 それでも納得がいかないのか、黄瀬の表情は緩まない。は真剣な表情の黄瀬も好きだ。けれど今は、早くいつものように笑って欲しいと思った。黄瀬が嫉妬に感じることも、悲しむようなことも、ここにはないのだから。早く笑って欲しい。早く、一緒に帰れることをいつものように喜んで欲しい、はそう思った。
 けれどの気持ちとは反対に、黄瀬は訝しむ様にを見た。

「オレの、何の話っスか」
「えぇ…内容も言うの?」
「言うの」

 言うまでは逃がさない、というように顔を寄せてきた黄瀬に、は視線を逸らした。
 本当は笠松との会話をは黄瀬に言いたくはなかった。言えない内容ではないが、出来るなら秘密にしておきたかったのだ。けれど黄瀬は自分の話をしていた、ということだけでは納得がいかないようで表情は険しいままだった。内容を聞くまで緩むことはないのだろう、と観念したはしぶしぶ口を開いた。

「み、やすい、場所を教えてくれて」
「見やすい場所?オレの?」
「…うん」
「ギャラリーが見やすいって、いつもそこにいるじゃないっスか」

 それはにとって黄瀬を見に来ている女の子に気を使うこともなく、ひとりでもゆっくりと見ていられる場所、という意味だった。上から見ていれば視界を遮られることもなくコート全てが見渡せて確かに見やすいが、黄瀬の表情まではしっかりと見えなかった。はそれがいつも少しつまらなかったのだ。黄瀬と出会いバスケ自体に興味を持ち、試合を見ることも楽しめるようになったがやはり1番見たいのは黄瀬そのものだった。だから本当は、体育館の入り口で騒ぐ女の子にまざって自分も黄瀬の表情を見ていたかった。黄瀬はが見に来ていることを知っている時は顔を上げ目線を送ってくれるのだが、そうした意図したものではなく、が見たいのはバスケに夢中になっている黄瀬の表情なのだ。
 練習が終わり出てきた笠松に黄瀬のことを訊ねれば、これからまだ自主トレがあると聞いたは「じゃあ体育館の入り口から見てようかな」と漏らした。いつもはギャラリーで見ているが、練習が終われば女の子たちも帰り、自主トレまで見ている子はほとんどいないのだ。だから自主トレだけは、が唯一黄瀬の表情を見ることが出来る時間だった。けれどそれすら、あまり練習の邪魔をしたくないと考えるにとっては機会のないことだった。笠松もそれが意外と感じたのか「入り口に来るなんて珍しいな」と零した。誰もが、はギャラリーから見ているのが好きなのだと思っていたのだ。笠松にそう言われ、は笑って首を振った。「本当は入り口から見たいけど女の子がたくさんいるから」と。がいつもギャラリーから見ている理由を知った笠松は、入り口でなくとも黄瀬の表情を見ることが出来る場所をこっそりと教えてくれたのだ。それを聞いたは、今度からは黄瀬の表情を見ることが出来るのだと嬉しくなり、黄瀬が嫉妬してしまう“オレにしか見せない顔”になってしまったというわけだった。

「あそこだと…あんまり、黄瀬くんの顔見れなくて」
「オレの顔?」
「黄瀬くんのバスケもカッコイイんだけど…ほんとは、バスケしてる黄瀬くんの真剣な顔を、もっと…見、たくて」

 やっぱり内容までは言いたくなかった、と今度はが顔を伏せる番だった。今のこの顔は、鏡で見なくとも真っ赤であることが安易に想像が出来る。そんなとは反対に黄瀬の険しかった表情はするすると糸がほどけるように緩んで行った。

「入り口で見てたらいいじゃないっスか」
「あそこだと女の子いっぱいいるでしょ」
「でも、ホントはいつも入り口で見てたかった、ってこと?」
「……うん」

 顔を伏せてしまったの表情を黄瀬からは見ることが出来なかった。けれど髪の隙間から覗く耳は、みるみるうちに赤くなっていく。その顔を見ずとも、黄瀬にはがどんな顔をしているのか簡単に想像が出来た。
 黄瀬が1番好きな”オレにしか見せない顔”だ。
 そんな状態のまま、小さな声で返事をして、小さく頷くを見て黄瀬はたまらなく震えそうになる唇を噛んだ。

「あ〜〜ッ、もう!」

 黄瀬は掴んだままだった手を離し、ぶつかるような勢いでを自分の腕の中に閉じ込めた。このまま胸に押し付けて、自分の体の中に閉じ込めてしまえればいいのに、なんて思いながら。

「く、苦し」
「オレの方が苦しいっス!」

 黄瀬はぎゅうぎゅうと抱きしめる力を緩めることが出来なかった。こうする意外、自分の体に湧きあがる感情をどう堪えればいいのか分からないのだ。

 ──────オレ意外にあんな顔見せるなんて思いもしなかったから、すっげー悲しくて悔しかったけど、まさかそれがオレの話してるからだなんて思わなかった。しかもそれが、もっとオレのことを見てたいだなんて。こんな可愛いこと言って、オレのことどうしようっつーんだよ!

 可愛い、可愛いとまるで唱えるように心の中で思いながら黄瀬はを抱きしめた。は力強く抱きしめる腕に苦しさを感じるだけでなく、黄瀬の熱い体に閉じ込められた息苦しさを感じるものの、真っ赤になってしまった顔を見られないことにほっとしていた。
 けれどこの状態なら、違う意味で顔は赤くなり火照りを冷ますことは出来そうもなかった。

「き、せくん苦しい」
「もう離したくないっス、誰にも見せたくないっス!」

 ずっとこうしてたいっス!と叫ぶ黄瀬に、は嬉しいと思いながらもどうしようかと思っていれば、なんとも気持ちの良い張り手の音がした。いつの間にか後ろにいた笠松が黄瀬の背中にビンタを張ったようだった。いつもなら飛び蹴りをする所が、がいるため加減をしたのだ。

「痛ったァ!」
「お前が自主トレしたいっつったんだろ!」
「空気読んでくださいよ!元はと言えば笠松センパイのせいなんスよ!」
「お前が空気を読め!見ろ!」

 と言って笠松はに指を指した。を腕から解放した黄瀬は、笠松の言うようにを見た。するとの顔は真っ赤なままで、黄瀬の汗と自分の汗とでまるで一試合した後のようだった。
 はようやく解放された体で大きく息を吸いながら汗で張り付いた前髪をかき分けた。

「ほら黄瀬くん、自主トレしなきゃ。笠松先輩すみません」

 困ったように笑うを見て、黄瀬は再びを抱きしめようと腕を伸ばした。けれどそうはさせまいと、今度こそ笠松は黄瀬に飛び蹴りをした。

「オレが言ったことが聞こえなかったのか?ア?」
「じゃあもうのこと見るのやめて欲しいっス!」
「はぁ?」
「黄瀬くん……早く練習行っといで」

 地面に膝をついて叫ぶ黄瀬に、笠松は心底呆れ苛立った顔をし、は鞄から取り出していた黄瀬に渡すはずだったタオルに顔を埋めた。






20120615
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