すれ違う微熱





 日直当番のためにいつもより早く学校に来ると、体育館からボールをつく音がした。キュッとバッシュが床にすれる音も聞こえて、静かな校舎を歩きながら朝の清々しさを感じていた。けれどこの時期は、清々しさよりも寒さの方が勝る。肌に触れる空気の冷たさに私はぶるりと身震いをした。
 職員室に行って先生から日誌と朝配るプリントを受け取って、教室に行く前に温かい飲み物でも買ってから行こうと自動販売機の前で足を止める。お財布からお金を出していると、後ろから「悪い!」と背中に声をかけられた。振り向けば、私とは反対に暑そうにしている笠松がいた。

「あれ?朝練してたんじゃないの?」
「してたけど、オレも今日日直だろ」
「特にすることないんだから朝練してて良かったのに」
「んなワケにいかねーだろ。持つ」

 そう言って、奪うように私の手から日誌とプリントを取り上げた笠松に、私は笑顔を零した。
 バスケはよく分かんないけど、笠松が主将としてすごいという噂はよく耳にする。些細なことだけど、こういう所を見て私はバスケをしている時の笠松はもっと頼れる男なんだろうなぁ、といつも勝手に想像してドキドキしていた。

「なんか飲むのか?」
「うん、寒くて。笠松はあったかそーでいいね」
「オレは朝練してたから……つーか」

 急に言葉を途切ったせいで、自動販売機にお金が落ちる音がやけに大きく響いた。

「つーか?」

 続きを促すように顔を上げれば、10円を入れかけていた私の手に笠松の手が重なった。

「やっぱ冷てェな。お前もっとあったかい格好してこいよ、手赤くなってんじゃん」

 手袋とかねーの、と問いかける笠松の声は私の耳にはまったく入ってなかった。
 ──────わ、私の手が赤くなってたから、冷たいんじゃないかと確認しただけ、それだけ、他に意味なんてない。女の子が苦手な笠松が、それ以外の意味でこんなことをするわけないんだ。しかも、私なんかに!
 いくら必死に言い聞かせても、笠松の大きな手が私の手に重ねられているのは事実なわけであって、笠松の熱い掌が私の冷えた手を温めていることに変わりはない。その事実のせいで、心臓の音ばかりが耳について笠松の声が全然聞こえてこない。冷えていた全身が顔だけやけに熱くて、赤くなってしまっているんじゃないかと不安になる。なんの意味もないのにいきなり顔を赤くされたら、笠松が嫌がるに決まってる。

「おい?……っあ、わ、悪い!」

 先ほどよりも何倍も上擦っている笠松の声に、自分の顔が赤くなってしまったことを悟った。勢い良く離れた掌に、再び私の手は冷たい空気に晒される。でも今は、その冷たさが調度良かった。10円を掴む指が震えそうになるのを堪えながら、最後の1枚を自動販売機に入れる。

「び、びっくりしたぁ、黄瀬くんみたいなことするから」

 なんとか笑って誤魔化せば、笠松は何故か険しい顔をした。

「お前、黄瀬にこんなことされんの」
「え?されたことないけど……なんかほら黄瀬くんってさり気なく手繋ぐとか、そういうの上手そうでしょ。モテるし」
「あぁ」
「笠松はそんなことしないよね」
「……モデルと一緒にすんじゃねぇ」

 笑って返しながら、だから笠松が冗談で私の手に触れて来ることも、触れたとしても何の意味もないんだよね、と心の中で返事をして悲しみを押し込めた。だから、舞い上がっているのも私ひとり。
 ボタンを押して、落ちてきた缶を拾う。
 女の子慣れしている黄瀬くんと、女の子慣れしていない笠松。黄瀬くんを落とすのは誰から見ても困難中の困難だと思うけど、笠松を落とすのも逆に困難だと思う。今度黄瀬くんにでも相談したら、何かいいアドバイスもらえるかな。

「行こうか、先生がそのプリント配っておいてって言ってたし」
「なぁ」
「ん?」
「お前、寒かったんじゃねーの」
「え?……あ゛っ」

 ──────しまった、考え事してたからつい……!
 笠松の手に触れたことで顔だけじゃなく体までもすっかり熱くなってしまったせいで、思わず冷たい飲み物を買ってしまった。寒くて温かい物が飲みたい、と言っていた私が冷たい物を手にしているなんて笠松の目にはきっと不自然に映っているはずだ。
 ──────やだもう、隠してもすぐボロが出る。

「気分変わったの!ほら行こ!」

 上がる体温が笠松にバレないように、早足で教室へ向かった。笠松が後ろにいる間に、顔を向き合わせる前に、落ち着かせなきゃ。そう思うのに、触れられた右手が火傷をしたようにじんじん熱い。追ってくる足音を聞きながら、必死に深呼吸をした。

「おい、肩────ゴミ着いてんぞ」

 振り返れば、笠松が私の右肩に指を差していた。そのまま視線を下に向ければ、制服に白い糸が着いていた。

「ありがと」

 糸を払って、隣に並んだ笠松を見る。プリントに目を向けている姿を見て、必死に隠さなくても大丈夫かな、と思った。
 多少私が不自然な仕草を見せたって、笠松は気付かない。
 意識して欲しいと思うのに、気付かれたくないと思う。レンアイって難しい。やっぱり、レンアイ経験ほーふそうな黄瀬くんに、今度アドバイスを求めに行こうかな。



 未だにじんじんと熱い右手を見ながら、私は息を吐いた。










笠松幸男の場合


 ついいつものように朝練に集中していたら、今日は日直だったことすっかり忘れてしまっていた。日直だと言っても職員室に日誌を取りに行って、黒板が綺麗に消してあるか見るくらいで大した仕事はない。けれど生徒に与えられた義務であり、何より今日はアイツと一緒に日直をする日だった。
 残りのメニューの指示を出し、オレは急いで制服に着替えた。職員室に向かおうと走っていれば、その途中で自動販売機の前に日誌とプリントを抱えた彼女の姿が見えた。
 悪い、と声をかければ、驚いたように振り返った。

「あれ?朝練してたんじゃないの?」
「してたけど、オレも今日日直だろ」
「特にすることないんだから朝練してて良かったのに」
「んなワケにいかねーだろ。持つ」

 片手で抱えていた日誌とプリントを持てば返って来た笑顔に、心臓が不自然に動いた。誤魔化すように視線を彷徨わせれば、自動販売機に落ちて行くお金の音に会話の糸口を見つけて、オレは口を開いた。

「なんか飲むのか?」
「うん、寒くて。笠松はあったかそーでいいね」
「オレは朝練してたから……つーか」

 寒い、と言う彼女の10円を握る手を見て視線が止まる。手が、心なしか赤いように見えるのだ。

「つーか?」

 途切れた会話を促され、オレは思っていたことを確認するように手を伸ばした。10円を掴む彼女の手に自分の手を重ねれば、オレの熱い手とは逆にひどく冷たかった。思った通り、冷たさのせいで手が赤くなっているようだった。

「やっぱ冷てェな。お前もっとあったかい格好してこいよ、手赤くなってんじゃん」

 いつもこんなに体を冷やして寒がっていたんじゃ風邪を引く、と思い「手袋とかねーの」と声をかけても返事はなかった。どれだけ真剣に飲み物悩んでるんだと顔を上げ彼女の顔を見て、オレは慌てて手を離した。

「っあ、わ、悪い!」

 真っ赤な顔をしている彼女を見て、ようやく自分がしている事の意味に気付くなんて、バカにもほどがある。今になって彼女の手の小ささだとか、柔らかな皮膚の感触を思い出して体が騒ぐ。
 集まる熱に、この後何を話せばいいのか分からないでいれば、赤い顔のまま彼女がオレに笑った。

「び、びっくりしたぁ、黄瀬くんみたいなことするから」

 その言葉を聞いて、一気に熱が下がった。一瞬にして下がった熱が留まるのは胸の奥で、黄瀬に対しての嫉妬心に変わった。

「お前、黄瀬にこんなことされんの」
「え?されたことないけど……なんかほら黄瀬くんってさり気なく手繋ぐとか、そういうの上手そうでしょ。モテるし」
「あぁ」

 彼女の言う通り、黄瀬なら簡単に寒そうだからと言って手を握ってしまえるんだろう。それに比べて、オレはただ単純に彼女の手が冷たそうだと思ったままに手を伸ばして、触れているという事実に意識をするのは後になってからだ。

「笠松はそんなことしないよね」
「……モデルと一緒にすんじゃねぇ」

 けど、なんとも思ってない女に手を伸ばすことも、好きな女に触れて意識しないようなことも、ない。彼女の言葉は、まるでオレには恋という文字が存在しないと言われているような気がしてもどかしかった。
 顔を赤くしているくせに、意識していないのはオレじゃなくて彼女の方だ。

「行こうか、先生がそのプリント配っておいてって言ってたし」
「なぁ」
「ん?」
「お前、寒かったんじゃねーの」
「え?……あ゛っ」

 空気を変えるように話す彼女の手元を見て不思議に思う。寒いから温かい飲み物が飲みたい、と言っていたはずだった。それなのに彼女の手に握られているのは冷たいオレンジジュース。

「気分変わったの!ほら行こ!」

 どこに動揺する所があったのか分からないが、オレを置いて行く姿を見て彼女の中で何かがあったことだけは分かった。ただ、遠ざかる背中を見ても答えは分からない。
 だんだんと離れて行く距離に、追いかけるように足を踏み出せば彼女のすぐ後ろまで来て肩についた白い糸が目に入った。

「おい、肩……」

 払ってやろうと手を伸ばして、彼女の肩に触れる前にその手を止めた。

「……ゴミ着いてんぞ」
「ありがと」

 伸ばした手で糸がついている場所を指差してやれば、彼女は自分で糸を払った。
 追いついた彼女の隣に並んで、オレはプリントに目を落とした。意識を彼女に向けてしまうと、次に何をしてしまうか分からないからだ。
 ──────情けねぇ。
 無意識に手を伸ばしてしまうくせに、意識をしてしまえば彼女に触れることすら出来ない。どうして掌を重ねることが出来て、ゴミを払うためだけに小さく触れることが出来ないんだ。彼女の言う通り、黄瀬なら上手くやるんだろうなと思うと何だか腹が立つ。
 彼女と少しでも同じ時間をこうして過ごしたいと思うものの、こうして無意識に触れて、彼女を困らせることだけはしたくないと思った。



 柔らかな感触が残る掌を見て、オレは息を吐いた。






20121020
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