名を詠む 三節目



名を詠む 二節目の続編です。




「せ、征十郎くん」
「なんだい

 教室にある視線が、私と征十郎くんに集まる。教室の後ろのドアから声をかける私に顔を向けている征十郎くんは、その背中いっぱいに注がれているクラスメイトの視線に気付いていないのだろうか。


 長いものではない。ほんの一瞬、けれど確実に注がれたその視線に、私は口ごもった。
 こんな風に視線を感じるのは、初めてのことじゃなかった。ここ最近はよくあることで、最初は理由も分からず特に気にしなかったけれど、理由が分かった今はその視線を感じる度にすごく居心地が悪くなってしまう。
 征十郎くんは、意外とこういうことに鈍いのかな。みんなもきっと征十郎くんに対してだからこそ不躾に長い間視線を注げず、ほんの一瞬だけこちらを見るんだと思う。
 それでも、私が分かってしまうほどの確実な一瞬、なんだけどな。

「……バスケ部の先生が、呼んでたよ」
「今?」
「うん、すぐ終わるって言ってたけど」
「そうか分かった。じゃあ、教科書を持って。一緒に行こう」
「一緒に……なんで教科書も?」
「次の授業は教室移動になったんだよ」

 そう言って、征十郎くんは黒板を指差した。顔を向ければ日直の男の子が書いたのだろう、粗っぽい字で“3限 第2科学室に変更”と書かれていた。それを見て、“教科書を持って”の意味は分かった。でも、どうしてわざわざ一緒に行くの?そんな疑問を見抜いているのか、征十郎くんは椅子から立ち上がり、笑った。

「話があるから。ほら、早く」
「う、うん」

 椅子を綺麗に机へと納める征十郎くんに促されるように、私は自分の席、征十郎くんの隣の席へ駆け寄った。
 自分の席と征十郎くんの席、それが隣同士並んでいるのを見て私は少し恥ずかしくなってしまった。ピタリ、と1ミリのずれもなく配置されているような征十郎くんの机や椅子とは違い、私の机は斜めにずれ、椅子は半分しか納まっていない。授業が終わるのと同時に先生に呼ばれて慌てて職員室に行ったにしても、これじゃああんまりだ。今まであまり気にしたことはなかったけれど、次からはもっと気をつけよう。今までもちゃんと机を揃えていたつもりだったけれど、征十郎くんの隣に並んでみるとそれでもまだ足りないように見える。
 机から教科書を出してから机を真っ直ぐに揃え、椅子の背もたれが机にこつりと音をたてるまで、私はしっかりと押し込んだ。






 教室を出て、誰の視線も感じられなくなってからようやく心の中でじわりとかいていた汗が引いた。

、明日の数学の小テストの自信は?」
「自信?えー……40点くらい」
「それはひどいな。最低70点だ」
「70点だ、って言ってとれたら苦労しないよ」
「そうだな。だから今日の昼休みは苦労しろ」
「え?」

 ──────苦労、しろ?
 征十郎くんの笑顔と、口から発せられた言葉が全然一致しない。

「昼休み、国語資料室でテスト勉強をしようか」
「でも」
「あの教師は小テストの点数を成績に響かせるぞ。この間教えた感じじゃ今回の範囲もまだ理解してないだろう」
「そうなんだけど……」

 この間。その時から、私は彼のことを“征十郎くん”と呼ぶように言われている。
 私に名前を覚えられていないのが嫌だったのか、征十郎くんは名前を呼ばなければ返事をしてくれなかった。名前が覚えられなかったから名字で呼んだわけでも、名前を口にしていなければ忘れてしまうほどバカでもないのに。そりゃあ征十郎くんよりは成績が悪いけど、流石にそこまでバカじゃない。
 だけど征十郎くんは、分かってくれないみたいだった。

「予定があったのか?」
「特には……友達とお昼食べるくらいだけだけど」
「じゃあ何を渋っている?」
「征十郎くん、いいの?」
「いいから誘ったんだろう。遠慮せずとも──」
「そうじゃなくて」

 征十郎くんなら、鋭いから気付いていそうなのに。本当に気付いていないの?それとも、そんなことに興味がないから、意識をしないのかな。

、言いたいことははっきりと言う方が僕は好きだよ」

 その言葉に、私は思わず足を止めてしまった。
 心臓が、変に動いてる。
 ──────やだ、なにこれ?どうしちゃったの?

 征十郎くんは、はっきり意見を言う方が“良い”と言っただけなのに。その“好き”は、私がドキドキしてしまうような意味の“好き”じゃない。
 それなのに、みんなに変な目で見られるせいで私まで変に意識し出してしまったみたいだ。
 こんなの、困る。
 私はわざとハッキリと、彼の名前を呼んだ。

「赤司くん」
「また忘れたのか」

 立ち止った私に合わせて足を止め振り返った赤司くんは、彼の名字を口にした私に呆れた顔をした。

「忘れてないよ。“赤司征十郎”ちゃんと覚えてる」
「じゃあ僕が名前で呼べと言ったことを忘れたのかな」
「それも忘れてない。でも──────赤司くん、気付いてないの?」
「何に?」

 ふわりと微笑む赤司くんに、私は目を丸めた。そんな風に微笑むのを、私は初めて見たのだ。名前を呼ぶようになってから、会話をする機会が増え、凛とした瞳が穏やかに私を映してくれるのを何度も見た。ふっと微笑んでくれることも増えた。
 だけど今みたいにふわり、と。陽だまりを見つけたような微笑みを私は初めて見た。 そしてその微笑みには“全てを悟っている”と、そう描かれているのに、彼は私に「何に?」と問いかけた。

「何に、って、私が赤司くんのことを名前で呼んで、赤司くんが私のことを名前で呼ぶから……みんなが、私達のことを気にしだしてるんだよ」
「そうか」
「視線を感じたり、変に勘ぐってこそこそされたり。私が名前で呼んだりするから、赤司くん困るでしょう?」
「どうして?」

 どうして?
 そんなの、“赤司くんが私とお付き合いをしていると勘違いされてしまうから”に決まってる。
 けれど、私はその理由をどうしてか口に出せなくて、話を逸らしてしまった。
 赤司くんは、もしかして本当に鈍いのだろうか。

「私、呼ばなくてもちゃんと名前覚えてるから大丈夫だよ」
は、僕と付き合っていると思われると困る相手でもいるのかな」
「え……」

 言いたくても言いだせなかったことを、鈍いと思っていた赤司くんにすんなりと言われて驚いてしまった。
 やっぱり、本当は全部気付いてたんだ。

「私は……困る相手は別にいない、けど」
「それならが困ったら言ってくれ。ほら、早く行かないと休み時間が終わってしまう」

 そう言って、赤司くんは歩き出してしまった。
 ──────え?
 なに?話はこれで終わり?この流れだと、私は“征十郎くん”って名前で呼び続けるってこと?

「ちょっと、赤司くん!」

 駆け寄って隣に並べば、赤司くんはひとつ溜息を吐いた。

、何度も同じことを──」
「征十郎くん!だから、私じゃなくて征十郎くんが困るでしょって言ってるの!」
「僕が?どうして」
「どうしてって、だから────征十郎くんだって同じことを何度も言わせてる」
が1度で聞きわけないからだよ」
「……私が悪いの?」
「そうだね。数学だけじゃなくて読解の勉強もしようか」

 納得がいかない。
 ちゃんと答えてくれないのは征十郎くんの方なのに。答えなくても理解してあげられない私が悪いの?でも、ちゃんと言ってくれなきゃ、私が名前を覚えられないなんて誤解のせいで征十郎くんに迷惑をかけてることになる。私はちゃんと征十郎くんの名前を覚えているんだから、名前で呼ばなくたって平気なのに。
 それとも征十郎くんは、クラスメイトの視線なんて本当にどうでもいいことなのかな。

、僕は“嫌”だと思うことを自ら進んでする趣味はないよ。には嫌なことばかり自分で選択する性質でもあるのかな」
「ない、けど」
「僕も同じだ。嫌なことをする気はないよ。自分が欲しいと思うものだけを選んでる」

 そりゃあ誰だって、自ら進んで嫌なことをしようとはしないよ。そんなの、私だって征十郎くんだって同じだということは分かってるけど。だからつまり──────どういうことなの?
 私は物凄く簡単に、ただ征十郎くんが私と付き合っているんじゃないかと勘繰られていることが迷惑じゃないのかどうかを聞いてるんだけど、どうして簡単に”迷惑だ”“迷惑じゃない”のどちらかで答えてくれないんだろう。

「少しここで待っていてくれ。すぐに終わらせてくるから」

 そう言って、征十郎くんは職員室に入って行った。私はその背中を見送って、壁にもたれた。
 すぐ終わると思うから、じゃなくて“すぐ終わらせてくるから”と、まるで主導権は征十郎くんにあるみたいだ。でもそれがまるで、ではないのが赤司征十郎なのだということが今の私には分かる。
 彼には人を動かす空気がある、と思っていたけれどそれはただの印象ではなく事実なのだ。ただのクラスメイトから、名前を呼ぶよう強要されるクラスメイトへと昇級して、隣の席で会話を交えて目で追うようになってから征十郎くんのことを前よりも多く知った。
 征十郎くんの行うことには、いつも迷いがない。彼がそうすべきであったかのように、物事はピタリと征十郎くんの周りに納まる。そう見える、のではなくてそれが事実だった。

 “嫌”だと思うことを自ら進んでする趣味はない
 自分が欲しいと思うものだけを選んでる

 それじゃあ征十郎くんは──────私に名前を呼ばれたいってこと?

 まさか、そんなの飛躍しすぎだよね。いくらなんでもそれはない。
 でも、それならどうして私がちゃんと名前を覚えているよって言っても、名前を呼ばせることをやめなかったの?最初は、私に名前を覚えられていないことが不快だったからとか、私がすぐ忘れるバカだと思っているからとか、そういう理由で名前を呼ばされているのだと思ったけれど。そうじゃないって伝えた今、征十郎くんが私に名前を呼ばせる理由は?名字じゃなくて、名前で呼んで欲しいからなんじゃないの?自分が欲しいと思うものだけを選んでるって、そういうことでしょ?

 でも、征十郎くんに限って──────そんなことある?

 職員室から出て来るなり、征十郎くんは私の顔を見て微笑んだ。この微笑みを見るのは今日が初めてで、そして2回目だった。いつもの征十郎くんからは想像のつかない柔らかな微笑みを見せられて、身体の奥がじりじりとする。

「分かったみたいだな」
「どうして私が分かったって分かるの」
「頬が色付いたから」

 そう言われて、更に顔が熱くなった。
 確かに、まさか征十郎くんが私に名前を呼んで欲しいんじゃないかと考えて顔が赤くなってしまったけれど、“頬が色付いた”だなんて、そんな言い方しなくてもいいのに。余計に恥ずかしくなってしまう。

「征十郎くん、さっきから私の考えが読めてるみたい」
「そうだな」
「そうだな、って。それって本当に読めてるってこと?」
「あぁ」
「うそ、ホントに?私こんなこと考えてるよ!?いいの!?」
「かまわないよ」

 かまわないよ、って。
 さっきから征十郎くんには考えを読まれていると思うのに、私に対する征十郎くんの返事を聞いて本当に分かっているのかと疑いたくなる。
 かまわないよ、って。ねぇ、征十郎くん。私は、もしかして征十郎くんが私に“征十郎くん”って呼んで欲しいから名前で呼ぶことを強要しているんじゃないかとか、クラスメイトから変な勘違いをされても嫌じゃないから視線を集めていることを気にしないんじゃないかとか、そんな風に考えているんだよ?
 自分が欲しいと思うものだけを選んでるってことは、この状況が征十郎くんにとって“どうでも良いこと”ではなくて、私に対して少しでも……気が、あるから、こういう状況を否定せずに選択したんじゃないかって、そう思ってるから顔が赤くなってしまったんだということ、征十郎くんは本当に全て理解している?
 その上で「かまわない」なんて言ってるの?

「征十郎くん、本当は分かってないでしょ。実は鈍感なんでしょ!」
「そんなことを言われたのは初めてだな」

 私だって、本当は征十郎くんが鈍感だなんて思えない。
 だけど、そうじゃなきゃこの状況の辻褄が合わない。征十郎くんが私の考えを全て読めている上で肯定しているなんて、そんなの大変なことになる。

「僕のことを名前で呼んだ女の子も、が初めてだよ」
「それは征十郎くんが呼ばせたから」
「そうか。じゃあ、僕が“名前を呼ばせたのはが初めて”だね」
「……そ、れは」

 どういう意味?なんで改めてそんなことを言うの?
 どうして──────あの朝、私に名前を呼ばせたの?

「後2分で予鈴が鳴る。行こう」

 歩く速度を上げた征十郎くんを追いかけて、私は「待って」と声を上げた。それは歩き出したことにではなくて、会話の続きについて。征十郎くんは先ほどから全て完結しているように話すけれど、私の中では何ひとつ完結していない。
 疑問だらけのままだ。

、僕は同じことを何度も言うのは好きじゃない」

 こういう征十郎くんの発言も、私が何を言いたいのか分かりきっているようだ。まるで私がしようとしている質問が、分かっているみたい。

 それなのに、征十郎くんの肯定の言葉は私の中でしっくりこない。
 それなのに、征十郎くんは私が求める言葉をくれない。

 私の考えが読めているなら、抽象的な答えじゃなくて、私が納得出来る言葉をくれたらいいのに!

「征十郎くんがはっきり言ってくれないからだよ。私の考えが合ってるよ、なんて言っておいてそれが違ったらどうするの」
「どうもしないさ。時期が来れば分かるよ。の考えが合っているという僕の考えが合っているということをね」
「時期にって、いつ?どうして今確認しないの?」
が言いづらいんだと思って敢えて聞かないでおいたけど、言ってくれるのかい?」
「言……わないけど」
「それじゃあ確認の仕様がないじゃないか」

 面白そうに口元を綻ばせ微笑む征十郎くんを見て、ついに私の心臓が大きく弾けた。

 日差しに透けて煌めく赤い髪。短い前髪が小さく揺れる。
 征十郎くんの身の周りにあるものは全て彼の支配下のように、彼の意志で動いているように見えるのに。その前髪だけが無秩序の中で動いているようで、とても愛らしい。
 全てを射抜くようなその瞳も、今は口元と同じように緩く綻んでいる。

 征十郎くんがこんな表情をすることを、私は彼の名前を初めて口にしたあの日の朝には知らなかった。
 征十郎くんがこんな表情をすることを、私以外にも知っている人はいるの?

「時期が来たら……どうやって分かるの?」
、勉強の後は将棋を教えようか」
「話を逸らさないでよ」
「逸らしてないさ。君はもう少し相手の戦略を待つ楽しみを覚えた方が良い」
「そんなこと言って、征十郎くんにはその戦略も全て分かってるんでしょ?」

 征十郎くんこそ、“相手の戦略を待つ楽しみ”を知らないんじゃないの?

「よく分かってるじゃないか」

 意外そうに目を丸くして────そんな征十郎くんの表情の方が私にとっては意外なのだけれど────瞬きをした後、戦いがいのある選手を見つけたような、好奇心に満ちた挑む様な瞳で私を見た。

「珍しく今は待つ楽しみを味わえているよ」
「……誰と対戦してるの」

 そんな私の質問を遮るように、予鈴が鳴った。

 結局まだ征十郎くんから何も答えてもらえていない。しかもそれが、征十郎くんの戦略?何に対する戦略なの?
 答えを見つけたいのに、話せば話すほど疑問が増えるばかりだった。

「数学のテストで70点とれたら、ひとつだけ質問に答えるよ。が望む形でね」
「70点なんて無理だよ!」
「初めから諦める人間は好きじゃないな。それに僕が教えるのに70点もとれないなんてこと、あるかい?」

 語尾には“?”マークがしっかりとついているはずなのに、それはまるで脅迫のようにしか聞こえないから不思議だ。
 だけど、そんなことを言っても50点が精一杯だと思うんだけどなぁ。質問には答えて欲しいけど、自分の頭の出来は自分が1番良く分かってる。

「それじゃあ、昼休みにね」

 科学室に足を踏み入れて、着席しているクラスメイトに背を向け私に向き直って征十郎くんがそう言ったのは、わざととしか思えなかった。
 いつもの教室とは違う科学室で、クラスメイトの声はいつもより小さく、そして教室内はいつもより声が響きやすかった。
 征十郎くんの良く通る声は余韻を残し、先ほど私が教室で彼の名を呼んだ時のようにクラスメイトの視線を引き寄せた。征十郎くんはその視線を全て、背中で受け止めている。
 好奇の目を感じているのは、私だけだ。
 絶対に、わざとたっぷりと背中を見せている。そうしてから、征十郎くんは自分の席へと向かった。

 いつもはほんの一瞬の視線も、征十郎くんが背を向けていたせいで今はたっぷりと数秒注がれていた。
 先ほど教室で口籠ってしまったものと同じ、居心地の悪い視線。

 つい先ほど教室を出るまでは、毎回この空気に居心地の悪さを感じ、嫌だと思っていたのに。
 どうしてか今は、恥ずかしいのに嫌じゃないと感じている。
 ──────この気持ちは、何?




 私は征十郎くんに、どの質問を答えてもらえばいいんだろう。
 たった一言で、私の疑問全てが解けるような答えを征十郎くんがくれたらいいのに。

 あの日の朝と同じ、征十郎くんの柔らかな口元を目にしたのは──────これで何度目だろう。






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