名を詠む 一節目





 朝、日直だった私はいつもより早く登校した。

 静かな校門を通り過ぎて、学校についてすぐに職員室へ向かう。先生から渡されたのは日誌と、昨日行った席替えのために新しく作り直した座席表。
 私はその座席表を眺めながら教室へと向かった。いつもなら廊下でお喋りをしている生徒達も、今は誰もいない。教室から漏れる小さな話し声や、時折通り過ぎる生徒の足音だけが響いている。
 教室のドアを引いても、まだ誰も来ていなかった。

 先生の机のビニールカバーの下に座席表を挟み、私はそのまま椅子に座って新しい座席を眺め続けた。誰がどの席になったのかを一通り眺めた後、私の視線は一点で止まる。
 初めて、隣の席になった人。赤司────

「征十郎」
「呼んだかい」
「──っ!?」

 今時珍しい名前に、征服の“征”だなんて仰々しい漢字。凛として堂々とした彼に、良く似合う名前だと思う。そう思って確かめるように声に出してみれば、横から突然聞こえた声に私の体も心臓もぎゅっ、と縮んだ。
 声のする方へ顔を向ければ、赤司くんが私を見下ろしていた。いつもと変わらず、何事にも動じないような澄ましたその顔に、私は震えそうになりながら口を開いた。

「お、おはよう」

 まともに話したこともないのに、呼び捨てにしたわけではないけれど名前だけを呼んで、きっと彼には呼び捨てにしたように思われただろう。
 誤魔化すように笑ってみても、赤司くんが笑い返してくれるわけもなかった。

「おはよう。それで、今僕のことを呼んだのかい?」
「あ、ええと、征十郎くん、って名前なんだなぁ、と思って」


 私が赤司くんの名前を呼んだ時、一瞬だけれど彼が反応したように感じた。
 そう思ったのも束の間、赤司くんに自分の名前を呼ばれ、彼は反応などしていないと言い切れるほどに私の方が大きく反応してしまった。跳ねた肩と心臓に、顔に集まる熱を赤司くんに見られているのだと思うと余計に恥ずかしい。
 男友達に名前を呼ばれることには慣れているはずなのに、赤司くんに名前を呼ばれると、全然違う。聞きなれた自分の名前が、特別なものかのように感じる。何か使命を帯びているような、意味のあるもののように聞こえた。

「僕は君の名前を知っているのに、僕の名前は知らなかった、と?」

 小さく笑った赤司くんを見て、何故だか背筋が伸びた。
 今までぴくりとも表情を変えなかったのに、どうして今笑うんだろう。今は、笑う所ではない、と思うのだけれど。
 うまい返事が見つからなくて、曖昧に笑い返してみても逃がしてはくれないようで「どうなんだ?」と聞き返されてしまった。答えないわけには、いかない。縮こまりたい気持ちとは反対に、私の背筋は更にピンと伸びていく。

「あの……は、い」

 知らなかったわけではない、けれど知っていたと言い切れるほど頭の中にしっかりと記憶していたわけでもない。それなら、知っていたと言ってしまえば良かったのかもしれない。でも、赤司くんの前で嘘をついても意味がないような気がした。むしろ、そうした嘘をつくことの方が難しい、と思った。嘘をついたら怒られそう、という意味もあるけれどそれだけじゃない。
 彼の前では、本当のことを言わなきゃいけないような気になってしまうのだ。

「僕は赤司征十郎、だ。絶対に忘れるなよ」

 そう言って、赤司くんは私に背を向けた。
 声は相変わらず抑揚なく、表情だって変わらない。それなのに、まるで仕返しを企む悪者が「覚えてろよ」と言い去るような、そんな空気があった。
 名前を呼ばれた時とは違う意味でドキドキしていると、教室を出かけた赤司くんがピタリと足を止めた。どうしたんだろう、と思っていると私に背を向けたまま彼は言葉を発した。

「返事は?」

 その瞬間、私の身長が伸びたんじゃないかと思うほど勢い良く背筋が伸び、ほとんど気を付けをするような姿勢で慌てて口を開いた。

「はいっ!」

 まるで小学生のように元気良くはっきりとした返事に自分では苦笑いだったけれど、教室を出て右へ曲がった赤司くんの表情を見てこれで良かった、と思った。
 私が赤司くんを「征十郎」だなんて呼ぶ日は来ないだろうけれど、それでも絶対にその名前を忘れることはないと思う。




 教室から出て行き、赤司くんの姿が見えなくなっても私はドアから目線を逸らすことが出来なかった。
 ドキドキと高鳴る胸の鼓動が最初は恥ずかしく、次いで息苦しかったけれど。
 今は、とても心地良く感じる。

 にやける口元を誰に見られることもない早朝の教室で、本当に良かった。


 だって──────赤司くんの口元、私とおそろいだった!






20120929
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