09.さよなら囚われのお姫様 中編





 私は昨日確かに“今日で最後”だと、これで全てが元通りになるんだと確信して資料室の鍵を閉めたはずだった。
 それなのに───────





「今日で最後だし、一緒に行こ?」

 SHRが終わった途端、にっこりと笑顔で声をかけてきた黄瀬くんに、心底驚いてしまった。昨日彼が言った「また明日」は、冗談ではなく本気だったらしい。
 言われるがまま、拒否する理由も見つからずに私は初日と同じように黄瀬くんの隣を歩いた。初めて黄瀬くんの横に並んだあの時とは違う変な緊張を感じながら、心の中で“大丈夫、今日で本当に最後だから”と念じるように唱えながら。
 黄瀬くんはただ、先生に言われたことを守っているだけで、おかしなことをしているわけじゃない。だけど、予想もしていない黄瀬くんとの時間がほんの少し増えただけで、私はこんな風に動揺してしまうのだ。




 無事に全部のプリントを束ねて、いざホチキス留めをしようと椅子に座った時だった。黄瀬くんがしみじみと、今日で終わりだ、と声に出したのは。

「今日で終わりっスねぇ」

 なんだか感慨深そうに言うけれど、これまでの数日間に想いを馳せるような出来事は黄瀬くんにはなかったでしょう、というのが正直なところだ。けれどそんなことを言うわけにもいかず、ただ「そうだね」と相槌を打つと、逆に私がこれまでの出来事を思い出して妙な気分になってしまった。

 ドキドキしながら楽しく過ごした放課後は一瞬でなくなり、余計なことを言ってしまった後悔と焦りで重い気持ちのまま過ごした日々がほとんどだった。ようやく切り替えようと気持ちを持ち上げたところで黄瀬くんに名前で呼ばれるという余計なちょっかいを出され、それさえも振り切ろうとしていたのに、突然ご機嫌な黄瀬くんが資料室で待ち構えていたのがつい昨日のこと。
 この全てが、たった一週間ほどで起きた出来事なのだ。
 ジェットコースターのように過ぎて行ったこの数日間は、私の一年分くらいの体力と感情を奪っていったような気がする。
 しみじみ、と溜め息をつきたいのは私の方だ。

 最後の最後に、昨日黄瀬くんが真意の分からないことを言ったのはもうなかったことにして、ぐらぐらと上がり下がりの多かった日々があと一時間足らずでようやく終わるのだと思うと、私は心の底からほっとしていた。
 彼にそんな気はないにしても、どうしたって私は黄瀬くんに振り回されてしまう。もうこんな風に自分の気持ちを持て余して過ごすのは嫌だった。これが終わればもう、頭と心を悩ませなくても良くなる。今日で、黄瀬くんとこんな風にふたりで喋るのは本当に終わり。

 私たちはまた、ただのクラスメイトに戻る。

ちゃん」
「………………ん?」

 これまでのことを考えていたせいで、返事をするのが遅れてしまった。けれど黄瀬くんは何を気にする様子もなく笑顔だった。
 そして、張り切って作業を始めていたように見えていたのに、彼の目の前にあるプリントの束が先ほどから少しも減っていなかった。

「黄瀬くん、全然進んでないよ」
「ねぇねぇちゃん」
「もう、部活行くの遅くなってもいいの?」
「今日は部活ないんス」
「え?」

 そう言われて、いつも外から聞こえてきていたバスケ部の外周をしている声が今日はまだ聞こえてきていないことに気が付いた。

「そういうのは先に言ってよ、今日も急がなきゃって思ってたんだから」
「いや、今日も急いで欲しいっス」
「……自分は何も進んでないくせに?」

 手付かずのプリントの山を見ながらそう言えば、黄瀬くんはにんまりと口元を緩めた。
 部活がない日に急いで欲しい、だなんてデートの約束があると言ってくるのだろうかと身構えると、案の定彼は私の予想通りの返事をした。

「どこにデートに行こうか考えてて」

 ほら、やっぱり。
 あまりこういう話題に触れたくないのに。人の気も知らないで、いや知っていて“デート”。どういうつもりでこういう事を言うんだろう。黄瀬くんの考えていることは、私にはよく分からないことばかりだ。
 胸の奥が詰まったような感覚を飲み込んで、私は次の言葉を探した。
 この数日で色々なことがあった私の心は、最初の時よりはうまく言葉に出来ない気持ちを奥へと追いやれるようになった気がする。

「デートに行きたいなら早く終わらせないと」
「どこに行きたいっスか?」

 手よりも口の方がよく動く。
 黄瀬くんはよっぽどご機嫌なんだろう。にこにこと笑顔で問いかけてくる彼に、私はどんな表情を返すのが正解なのか、また分からなくなってしまった。
 早くしなよと溜め息をつくべき?それだとデートを快く思っていないと思われちゃうかな。でも、一緒にデートプランを楽しく考えるほど上手く嘘はつけない。
 結局、作業に集中しているフリをして顔を伏せながらプリントに手を伸ばせば、面と向かって話さなくても良いことに気付いた私はこの話題が早く終わることを祈りながら返事をした。

「そんなの本人に聞きなよ」

 せっかく顔を見ない、表情を見せない、という選択肢を見つけたのに。
 そんな私にはおかまいなしで、黄瀬くんは体を寄せ、私の顔を覗き込んできた。わくわくしていることが伝わる、楽しそうな笑顔だった。
 そんな風に見つめられたら、どんな会話をしていたとしても言葉を失ってしまう。
 見上げてくる黄瀬くんに体を硬直させていると、彼は更に私を硬直させる一言を放った。

「本人に聞いてるんスよ」

───────本人

 わたしが?さっき黄瀬くんが嬉しそうに言っていたデートの相手が、私だっていうの?

 そんな話、一度も聞いてない。じわじわと全身を駆け上がってくる何かを堪えるのに必死で言葉を発することが出来ずにいると、あることに気が付いた私は一瞬で我に返った。

 そうだった。黄瀬くんは、ふざけているのだ。

「黄瀬くん、そういうのやめてってば」

 上がった体温が一気に冷めるような感覚。
 どうしていつもいつも、必ず一度は動揺してしまうんだろう。本当にぐらぐらとしてばかりいる自分が情けなかった。けれど冷静さを取り戻せば、装っているわけでもなんでもなく、そっけない声が漏れた。
 そんな私の反応に、黄瀬くんは不貞腐れたように机に顎を置いて唇を尖らせた。

「ホントだってば。今日これ終わったらデートしよ?」

 なおも食い下がる黄瀬くんに、今度こそ私は何と返せばいいのか分からなかった。
 素直に言葉にしていいのなら一言「しつこい」と言いたい。黄瀬くんにも、自分にも。
 昨日といい今日といい、黄瀬くんは一体何がしたいんだろう。私と黄瀬くんの間に余計な感情があったとしても、どうにもならないことを誰よりも黄瀬くんが一番分かってるはずなのに。私たちの間に生まれかけたメンドウなことをどうにかしようと私は必死で、そうしてようやく今またこうして元通りに話せているんだってこと、黄瀬くんは全部分かってくれてるはずなのに。

「黄瀬くんとデートしたい子はたくさんいるでしょ」
ちゃんは?」
「したくないです」
「え〜!そんな……ひどいっス」

 泣き真似をする黄瀬くんを見て、どっちがと思った。このおふざけに、いつまで私は付き合わされるんだろう。
 “今日で最後、今日で最後だから大丈夫”
 昨日からずっと、心の中でそう唱えているのに。
 もう無視しよう、と決めてプリントに手を伸ばしたのに、黄瀬くんの次の言葉に私はあっさりと返事をしてしまった。
 あぁもう、私、黄瀬くんに振り回されてばかりだ。

「お礼しようと思ったのに」
「お礼?」
「そう、オレ途中でほっぽっちゃってちゃんひとりでやらせてたから」
「……私がいいっていったんだから、いいよ別に」
「でも」
「それに、私は彼女いる人とデートする気ないから」
「オレ彼女いないよ?」
「え?」

 黄瀬くんは私に「え?」と言わせる才能があると思う。
 あれだけ色んな女の子とべたべたしておいて……いや、色んな女の子とべたべたしてるからこそ、みんなと遊んでいるから本気の彼女はいないって、そういうことなのかな。
 色々と言いたいことはあるけれど、私には理解できないし、そして知る必要のないことだった。黄瀬くんに彼女がいようと、たくさんの女の子と仲良くしていようと、私には関係ない。
 そう思って、私は問いかけようとした口を噤んだ。

「とゆーわけで、お礼にデートしよ?」
「自分とのデートがお礼になると思ってるって図々しいよ」
「も〜〜ちゃんオレにひどいことばっかり!なんかちょっと黒子っちと似てるっス。あ、黒子っちってね、オレが中学の時に───────」

 本当に、黄瀬くんのおふざけがどこまで続くのか私にはさっぱり分からなかった。
 楽しそうに中学の思い出話を話し出した黄瀬くんを遮って、一言だけ告げた後、私は作業に集中することにした。逆に、こうして最後の最後まで黄瀬くんがふざけたことを言って、振り回されて良かったのかもしれない。
 今日で終わり、としんみりした気持ちで帰り道を歩かなくて済んだのだから。

「私、自分の分が終わったら帰るから、黄瀬くんはひとりで残ってね?余ったのは手伝わないからね」




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