08.見落とした螺旋の回転





 私は、黄瀬くんがきらいだ。

 校門を通り過ぎる一歩を踏み出す時、何かを決意するように私は心の中でそう唱えた。
 ここ数日、毎朝なにかしらの決意をさせられている気がする。浮き沈みを繰り返す感情に振り回されるのは、もう昨日で終わりのはずだったのに。また振り出しに戻ってしまったような今朝にため息をついた。全部、ぜんぶ黄瀬くんのせいだ。

 昨日の出来事は何だったんだろう、と思う。だけど考えたところで黄瀬くんの考えていることなんて私には分からないし、分かったところでどうこうするつもりもない。だって、私は振り出しに戻る気なんてこれっぽっちもないんだから。私は、ただのキセリョのファンで、バスケをしている黄瀬くんを見ているのが好きなだけ。
 今となってはもう、そのどちらもやめてしまいたい気もするけれど。

「おはよう」

 脱いだローファーを持ち上げようと体を屈めたところにかけられた声に、一瞬で体が硬直した。恐る恐る顔だけを持ち上げれば、眩しい笑顔を私に向けている黄瀬くんが隣にしゃがんでいる。彼の顔が、私の目線と同じ高さにあって、とても近い。

「っお、はよう」
「おっと」

 驚いて足元のバランスを崩してよろけた私の腕を、黄瀬くんはさっと掴んで自分へと引き寄せた。
 その腕を、振り払ってしまいたかった。

「気をつけてね」

 私がバランスを戻したのを確認して、黄瀬くんは颯爽といなくなってしまった。いつもは朝練をしていて、こんな時間にここにいるはずないのに。黄瀬くんがいたなら、すぐに気づいたはずなのに。どうして今日に限って朝練をしていなくて、どうして今日に限って気づくことが出来なくて、どうして────────よろけてしまったんだろう。

 引き寄せられた腕に残る熱を払いながら、私は教室へと向かった。






 昨日の出来事は、黄瀬くんなりの仲直りの印だったんだろうと思うことにした。教室で顔を合わせても普通だし、あの時以外に名前を呼ばれることもないし、変に馴れ馴れしくしてくるわけでもない。そしてしっかりと自分の中で区切りをつけることが出来たからか、予想外のことに戸惑うことはあるものの、私は自分が思うよりは落ち着いて黄瀬くんと接することが出来ていた。
 望んでいた距離に、ちゃんと戻ることが出来たのだ。

 相変わらずHRが終わるとすぐに出て行く背中を見送って、今日はのんびり1クラス分を終わらせて帰ろう、と思った。色んな意味で慌ただしい1週間を乗り越えることが出来たんだから、今日は落ち着いて過ごしたい。

 生徒の大半が帰宅した廊下を、ようやくいつもの足取りで歩き職員室に鍵を取りに行くと、黄瀬くんがもう持って行ったと担任に言われてしまった。
 昨日から、一体どういうつもりなんだろう。確かにもう変な空気はなくなったとはいえ、今更来てくれる必要なんてないのに。それに、今日は来るだなんて話、黄瀬くんは一言も言ってなかった。すぐに出て行ったのは部活に向かったからだと思っていたのに。
 もう、私の平穏を乱さないで欲しい。

 苦い気持ちで資料室のドアを開ければ、黄瀬くんは既にプリントを重ねていた。笑顔で振り返った彼にかけられた言葉に、肩の力が抜けてしまう。

「遅いっスよ〜」
「遅いって……掃除だったんだけど」
「掃除?げ、じゃあオレもじゃん」
「そうだよ。すぐいなくなったから部活に行ったんだと思ってた」
「えぇ、たまにはオレが先に来てようと思ったのに、やべーチクられっかな」
「黄瀬くんの大ファンの子が代わってくれてたから大丈夫だよ」
「まじ?ラッキー」

 ラッキー、じゃないでしょ。
 その子が誰なのかとか、申し訳ないとか、そういう気持ちはないのかな。ファンの子が勝手にやってることだけど、悪びれもしない黄瀬くんの笑顔を見ていると何だか哀れに思えてしまう。

「美麗子ちゃんだからね、ちゃんとお礼言うんだよ」
「オッケーみれこちゃんね。それよりホラ、もう半分まとめたんスよ!」

 お手伝いを頑張った子供のように自慢気に笑う黄瀬くんにつられて、思わず私の頬も緩んでしまった。なんだか、久しぶりに黄瀬くんの柔らかい表情を見れた気がする。

「ホラ、ちゃんはホチキスやって」

 それなのに、やっぱりこれだ。
 昨日から2回目の“ちゃん”。今日は呼ばれなかったから、変に気にしないで済んでいたのに。眉間に皺が寄りそうになるのを堪えながら、プリントが重ねられていく席に座った。黄瀬くんは私の正面にある長机にページごとに分けられたプリントを、立ちながら一枚ずつ重ねていた。
 束ねたプリントに手を伸ばし、私はホチキスを手に取った。パチン、パチンとプリントを綴じながら黄瀬くんを盗み見れば、彼は何事もないようにプリント重ねている。
 気まずい、と思っていたのはやはり私だけなのだ。
 私が普通に接することが出来るようになったから、黄瀬くんの対応も前と同じように戻ってくれた。
 そうだよね、黄瀬くんは私のような女の子にいちいち気まずい思いなんかしない。自分の言葉や行動に一喜一憂する女の子を見て気まずい思いをしていたら、彼は毎日のようにそんな想いを抱かなきゃいけなくなる。そんなことに、彼がいちいち戸惑わされるわけがないのだ。

「今日は部活いいの?」

 どういうつもりで4日ぶりに顔を出したのか分からないけれど、今日は早く部活に行きたいとも言わず、ジャージに着替えてすらいない。他のバスケ部の子達が体育館に向かうのを見たから、今日が休みというわけでもないはずだった。

「走り込みだから少し遅れてもいーんスよ」
「昨日も走ってたよね」
「え、何で知ってんの?」

 私はホチキスを机に置いて、窓を指差した。もう少しで聞こえてくるはずだ。

「窓から見てたの?」
「んーん、走ってる声が聞こえたの」

 それが合図のように、段々と声が近付いてきた。掛け声をかけながら走る、バスケ部の声。

「ほんとだ、すげー聞こえんね」
「知らなかったでしょ」
「うん」
「練習サボらないで頑張ってるからだね」

 練習をしていれば、校内に響く自分達の声が聞こえるわけがない。やっぱり、黄瀬くんのことはきらいだけれど、バスケに打ち込んでいる黄瀬くんのことは好きだなぁと思う。どの黄瀬くんよりも、その黄瀬くんが、一番格好良い。

「今日も早く行きたいでしょ?」
「ん?うん、そーなんだけど」

 私に褒められると思っていなかったからか、少し予想外そうな顔をした後、黄瀬くんの顔が綻んだ。

ちゃん」

 あどけない笑顔に私の心も緩んでいたというのに、3回目の“ちゃん”に、ついに顔をしかめてしまった。それに気づいた黄瀬くんは、きょとんと瞳を丸めて首を傾げた。

「名前で呼ばれるのイヤだった?」

 わざとでしょ、と思う。私の反応の意味が分からないような鈍い人だなんて言わせない。だからこそ、隠していたって意味がないんだと諦めた私は正直に黄瀬くんに話すことにした。

「……嫌とかじゃないけど、急に呼ぶからちょっと気になったっていうか」
「そう?オレ、女の子のこと名前で呼ぶ方が多いっスよ?」

 あくまでも何でもないことだと言う黄瀬くんに内心ほっとしつつ、じゃあ今まで苗字で呼ばれていた私は何だったんだろうと思った。
 むしろ私としては今までのままで良かったんだけど。

「なーんてね。オレが名前で呼びたくなったの」

 笑いながらしっかりと私の目を見つめて来る黄瀬くんのその言葉に“なんで”とは返せなかった。きっと、聞かない方が良い。何故か分からないけれど、そう感じた。この話はここで終わりにした方が良いと、私の体が無意識に警戒していた。それなのに、返事をしない私にかまうことなく、黄瀬くんは言葉を続けた。
 私は、聞きたくなんかなかったというのに。


ちゃんのこと、好きになっちゃったから」












 ────────どうして?

 締めつけられた心臓が、反動のように騒いだ。
 すぐに“なーんてね”と続くのを待っているのに、黄瀬くんは一向に口を開いてくれない。冗談で零した言葉にすら真面目に反応をして動揺していた私を面倒臭そうにしていたのに。どうして今度は、まるで本当の告白のような言い方をするの?あの時に、私も、黄瀬くんも、私たちの距離をちゃんと理解したはずだよね?

 じくじくと痛む心臓を堪えるようにホチキスを握った。パチン、という音と共に、何も挟んでいない針が机に落ちた。

「冗談でそういうこと言わない方がいいよって言ったじゃん」

 声が震えなかった代わりに、ホチキスを握る手が小さく揺れる。
 私は、ちゃんと笑えているのだろうか。

 痛む心臓のせいで、その他の感覚がなくなってしまって分からない。



 ひどく、ひどく自分が惨めに思えた。
 結局は、私もたくさんいる女の子のひとりなのだと、分かり切っていたはずなのに実感してしまえばこんなに苦しいものはなかった。これならやっぱり、あのままで良かった。遠くで眺めているだけで、あの笑顔を時折見られるだけで良かった。彼にとって女の子にすらなれない、そんな存在で良かった。それが一番、幸せだったのに。

 黄瀬くんの言葉のせいで、心の奥底にあった気持ちに、痛いほど気づかされる。
 こんなにも自分が、黄瀬くんのことを本気で想っているとは思いもしなかった。ほんの少し持ち上がりかけただけの、そんな淡い気持ちだと思っていた。ゆっくりと息を吸うことで元に戻せたと思っていたのに。
 この息苦しさと胸の痛みの大きさのおかげで、気づいてしまった。気付かないままで、昨日までの私たちのままで良かったのに。



 黄瀬くんの周りにいる女の子たちは、どうしてあんなにも楽しそうに笑えているの?こんな状況で、私は少しも笑うことなんか出来ない。
 こんなにも、泣き出してしまいそうなことってないよ。

 黄瀬くんに、好きだと言われることがこんなにも悲しいだなんて

 そんな言葉、私は欲しくなかった。
 それなら、声も届かない場所にいるままで良かった。それで良かったのに。



 私は、本当の気持ちしかいらない。黄瀬くんの振りまく愛想笑いなんて、ほんの少しも向けられたくなかった。

 私は、あの女の子達のひとりにはなれないよ。







 わたしは、黄瀬くんがきらいだ。




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