07.時を変えない秒針





「終わったー……」

 だいぶ慣れたとは言え、ひとりで1クラス分のプリントを綴じるという作業はそれなりに疲れるものだった。最初こそひとりで作業に集中することで黄瀬くんのことを変に意識しないで済んだものの、ひとりでプリントを綴じ続けていくのは予想以上に孤独だった。
 それでも昨日今日と2クラス分ずつ頑張ったおかげで、後2クラス分で終わる。明日も2クラス分頑張ればそれで最後だし、1クラス分だけにしても2日で終わることが出来る。とりあえず今日はもう帰ろう、とプリントを整理してから教室を出た。

 鍵を職員室に返してから携帯を見ると、10分ほど前に友達から連絡が来ていた。裏門にいるから一緒にクレープ食べて帰ろう、というメッセージに、もう先に行ってしまったんじゃないかと思いながら返事をすれば、まだ裏門で待っていてくれているらしく、すぐに行くと返事をして私は玄関へと急いだ。

 けれど、玄関へと急ぐ足は一歩進むごとに重たさを増した。
 どうしてわざわざ裏門にいるんだろう。裏門に向かうには、途中でバスケ部が練習している体育館の横を通らなきゃいけないのに。せっかく距離をとっているのに、これじゃあ黄瀬くんに近付いてしまう。
 上履きを脱ぎ靴箱に入れ、代わりにローファーを出して床に置き、しゃがみこんで眺めながら大きな溜息をついた。
 そんなことを言っても、毎日教室で黄瀬くんと顔を合わせて軽い会話だってするし、いつまでもこんなこと言って変に意識していられないのは分かってる。

 黄瀬くんはきっと何も気にしていない。
 それは私も、同じはずだ。

 意気込むように立ち上がり、ローファーに足を入れた。
 急に黄瀬くんとの距離が近付いて、気持ちが舞い上がっちゃっただけ。それだけのことなのだ。もう今まで通りでいられる、大丈夫。それを確かめるためにも、バスケをしている黄瀬くんの姿を覗いて見るべきだ。
 バスケをしている黄瀬くんが一番好き、という気持ちは今も昔も変わらない。私が黄瀬くんに対して思う“好き”はそういう意味だけなのだ。

 私の気持ちは今も昔も、ただ黄瀬くんに憧れているだけ。

 少しだけ軽くなった足を動かして玄関を出て、私は裏門へと向かった。



 それでも、どうしても心臓の動きが早くなってしまう。緊張しながら体育館の横を歩いていると、開け放たれたドアから練習しているバスケ部の姿が見えた。部員の声が外までも聞こえてきていて、集中力が一番高まっている時間なのか気迫が凄い。いつもは黄瀬くん目当てで群がっている女の子達も、この時間になるともういないようだった。静かな放課後の空気に、彼らの熱気だけが響いている。

 自然と、歩いている足が止まった。眩しい黄色が、私の瞳に映ったからだった。

 黄瀬くんの姿はすぐに見つけることが出来る。黄色い頭が目立つだけじゃない。バスケをしている時の黄瀬くんは、いつも以上に人目を惹くからだ。
 けれど友達にその話をした時には、私服で歩いてる時の方が目を惹くと言われてしまった。雑誌の撮影をたまたま見かけた友達は、やっぱりモデルをやってる時が一番だ、と。私はどちらも見たことがないから分からないけれど、私の知ってる限りで言えば女の子に愛想を振っている黄瀬くんよりも、課題を免除してもらおうと女教師に色目を使う黄瀬くんよりも、友達と騒いで笑ってる黄瀬くんよりも、どんな日常生活の黄瀬くんよりもバスケをしている時の黄瀬くんが一番だと思う。
 一番格好良くて、私の目を惹く。

 目線の先には、私が一番だと思う黄瀬くんがいた。

 久し振りに見た気がする。真剣な眼差しで、ボールだけを見つめている黄瀬くん。
 じんわりと胸があたたかくなって、自然と頬が綻んだ。楽しそうにバスケをする黄瀬くんの姿を見ることが出来て、すごく嬉しかった。

 私は、バスケをしている黄瀬くんが好き

 自然と浮かんでくる自分のこの感情に、これでいいんだと思った。私と黄瀬くんは、こういう関係。格好良い黄瀬くんを遠くで見て、格好良いなぁと思う。今も昔も変わらない感情。これが私の気持ちだ。
 あの日からずっと不安定だった気持ちも落ち着いて、今のこの状況が、自分の気持ちが、胸にすとんと落ちる。確認しに来て良かったと思った。
 これで明日から、黄瀬くんと私は今まで通りのクラスメイトに戻ることが出来る。

 もう行こう、と足を動かしかけた所でボールが体育館から転がってきた。誰かが止めると思ったものの、ボールはそのまま体育館を抜け私の足元に辿り着いた。手に取り持ち上げれば、体育館から出て来たのは黄瀬くんだった。
 まさか黄瀬くんが出て来るとは思わなくて驚いたものの、もうほんの数分前までのような気まずい想いはなかった。
 ボールに力を込めて黄瀬くんに投げれば、今はもう、自然と笑顔になれる。

「バスケ、楽しそうだね」

 良かった、と心の中で添えた。
 黄瀬くんがバスケ楽しそうで良かった、と。

 ボールを受け取った黄瀬くんは2、3度瞬きをしてから笑った。これから意地悪を言われる、それが分かる笑顔で。

ちゃん強いパス出すっスね、男バス入ったら?」

 返ってきた言葉は資料室で交わしたものと変わらないあたたかさが含まれていて、ほっとした。
 私が余計なことを言って気まずくなってから、敏い黄瀬くんは距離をとろうとする私と同じだけの距離を置いてくれた。距離を置くなんて良いものではない、きっと面倒臭いと思われていたのだ。そんな黄瀬くんと交わす言葉はとても味気なかった。言葉こそ変わりはなかったけれど、どこか冷めているような、そんな温度を感じていた。
 その方が良かったし、むしろ私がそうさせてしまっていたのは分かってる。だけどやっぱり今みたいに話せている方が楽しくて、嬉しい。
 きっとこの距離が、私が一番望んでいる距離。

「黄瀬くんの軟弱者」
「言うっスね、じゃあオレのパス受けてみる?」

 軽口を返せば、黄瀬くんは意地悪な表情を濃くしてボールを持つ手に力を込めた。

「遠慮します!じゃあ、部活頑張ってね」

 手をひらひらと振って、慌てたふりをして私は歩き出した。
 もう足は重くない。心臓の鼓動はまだ少しだけ早いけれど、これは緊張しているせいじゃない。楽しくバスケをしている黄瀬くんを見ることが出来たから、黄瀬くんと楽しく会話が出来たから、嬉しくてドキドキしているだけ。
 すっきりしたような、満足したような、そんな気持ちで裏門へと向かっていると背中に黄瀬くんの大きな声がぶつけられた。

ちゃん!ボールありがと!」

 ────────え?

「また明日ね!」

 ────────今、私の名前を、

 黄瀬くんの言葉のせいで止めてしまいそうになった足を何とか持ち上げて、自然に返事をしようと考えるものの真っ白な頭ではどう反応すれば自然なのかが分からなかった。振り返ることも出来ずに顔を少しだけ後ろに向けて、手を振り返すことで精一杯だった。
 絶対に不自然だと思うのに、もうこれ以上の自然な振る舞いが何かを考えることも、それに合わせて体を動かすことも出来そうにない。ただひたすら、頭の中では「真っ赤な顔を見られないように校舎の角を早く曲がってしまいたい。だけど歩く速度だけは変えないように、バレないように歩く速度は変えない」この言葉がぐるぐると巡り、それを唱えながらぎこちない体を動かすことに必死だった。

 なんで────────なんで急に名前で呼んだの?

 今までは苗字で呼んでたのに、私が置いた距離の意味を黄瀬くんだって分かってたはずなのに、なんでまた、距離が近付いたようなことをするの?

 私は黄瀬くんとはこの距離のままで良いって、

 ────────今それを感じたばかりなのに!





 ようやく校舎の角に辿り着き、先程黄瀬くんがいた場所からは見えないように曲がった私は崩れるようにしゃがみこんだ。

 名前で呼ばれたって、何も特別な意味なんてない。

 私は自分にそう言い聞かせて騒ぐ心臓を抑えつけた。私のことを名前で呼ぶ男の子も、黄瀬くんが名前で呼んでいる女の子も、たくさんいる。特別な意味なんてない。席替えをしてから話す機会が増えたから、黄瀬くんは私のことを名前で呼んでくれただけ。もしかしたら仲直りの意味を込めてとか、彼にとっては何の意味もないこと。それだけのこと。ちゃんと分かってる。

 ちゃんと、分かってるんだから。


 少し離れた所から、私の名前を呼ぶ友達の声がした。
 顔を上げると、裏門から手を振っている。私が動かないのを見て、彼女はこちらに近付いてきた。

「どうしたの急にしゃがみこんで。具合悪いの?」
「ちがうの」

 そう言って見上げた私の顔を見ながら、彼女は不思議そうな顔をした。

「なんか迷子になったみたいな顔してるけど」

 ────────迷子
 私は迷う気なんてないのに、黄瀬くんが私を迷わせようとする。

 俯いて、私は唇を噛んだ。

「わたし……黄瀬くんきらい」
「え!?キセリョ嫌いとかありえないでしょ!」

 驚く彼女にしかめ面を向ければ、何を思ったのか気まずそうな顔を返された。

「なに、もしかしてフラれた?今一緒に残ってたんでしょ」
「好きじゃないのに告白なんかしないよ!」
「じゃあ何で嫌いなの」
「別に、なんとなくそう思うだけ」
「えーありえない、キセリョめっちゃイケメンじゃん。こないだのamanとか見てないの?あれヤバかったから!」
「……あんなの見ない」
「マジで!?絶対に見た方がいいって、明日持ってきてあげるから!」
「いらない」

 だってそれ、私も持ってるもん。
 心の中でそう答えて、部屋にあるamanを思い出してまた唇を噛んだ。黄瀬くんと初めて資料室でプリントを綴じた日に、綺麗な先輩が黄瀬くんに掲げていた雑誌。あの日の帰りに、私も買ってしまったのだ。本当に立ち読みだけをするつもりだったのに、コンビニに並べられていた最後の一冊だったことに気づいて、思わず買ってしまっていた。そんなことすら、黄瀬くんの言葉通りに踊らされてしまったみたいで悔しい。
 今だって、何の意味もない彼の言葉に、また振り出しに戻されそうになっている。



「わたし、黄瀬くんきらい」

 泣きそうになる気持ちをぐっと抑えながら、引き戻そうとする彼の言葉を振り払うように、私はもう一度呟いた。




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