06.砂浜に埋もれた素足





 黄瀬くんと楽しく居残りが出来たのはたった3日間。あと7クラス分のプリントを残して早々にこんな状態になるとは思いもしなかった。
 そもそも黄瀬くんと、こんな気まずい関係になってしまうとは思わなかった。気まずい思いをしているのは、きっと私だけだと思うけど。


 “今日の分まかせちゃっていい?”と誰もが頷いてしまうであろう表情でお願いをされて、私はほっとしていた。気まずいのは私だけなのだから普通にしていればいいと思いつつも、それが出来たら苦労はしない。私に丸投げして颯爽と教室を出て行く黄瀬くんは無責任なように見えて、そうではないことを私は分かっている。自分がいても私が気まずいだけだろうと察してくれていたのだ。それまでの私であれば「少しはやらなきゃダメだよ」とか「次はその分倍やってね」だなんてきっと軽口を返せていたのに、それが出来なかったのが良い証拠だ。
 黄瀬くんはきっと、今までの経験上女の子の気持ちにとても敏い人だと思う。それが助かる反面、そのせいで私は余計に気まずい思いをしているのだ。
 あの時のたった一言で、黄瀬くんは私の想いを察してしまったのだから。






 その日は足取りだけではなく手も重く、放課後にひとりでする作業はなかなか進んではくれなかった。思えば最初から黄瀬くんと作業をしていたのは初日のたった一度だけで、あとの2日は着替えてから来る黄瀬くんを待ちながらひとりでこの資料室にいた。ひとりでこのプリントをまとめるのは初めてのことじゃないはずなのに、黄瀬くんが訪れることがないと分かり切ったこの教室内は、ほっとすると同時にひどく物足りなかった。楽しかったのは、たった2回と半分くらいなのに。

 余計なことを言わなければ良かったとつくずく思う。自分がファンのひとりだと自覚しているのならば、黄瀬くんからの言葉は喜んで受け取っておけば良かったのだ。
 ──────────だけど

 後悔と、僅かにくすぶる本心とが交互に繰り返され答えは出ずに結局は後悔で終わる思いに息が苦しくなる。とりあえずこの教室から早く出て行きたかった。重たい手を動かし、私は急いで作業を進めた。
 今日が終われば明日からは3連休。きっとその間に、私の気持ちも落ち着くはず、そう思って。




* * *





 3連休明けのお昼休み、私はお弁当を握りしめ立ち上がった。連休中に下した決断を黄瀬くんに伝えようと意気込んで。後ろに一歩を踏み出し、そのまま通り過ぎてしまいたい気持ちを抑えて彼の名を呼び、足を止めた。

「今日もひとりでやるから、部活に行っていいよ」

 いつも通りに笑って返事をしてくれた黄瀬くんにそう告げれば、戸惑った声を返され、私はそのまま畳みかけるように言葉を続けた。

「残りも私ひとりで出来るから、真っ直ぐ部活に行って」

 きっと黄瀬くんはYESと言うだろう。それが分かっているからあまり心配はしていなかったけれど、この選択で良かったのかと少し不安にはなる。けれど案外普通に話せている自分に、ちゃんと“戻る”ことが出来たのだとほっとしていた。

「んじゃプリント重いから、資料室にプリントだけは運んどくっスね」
「プリントは先週の金曜日に黄瀬くんが部活に行った後に先生が全部持ってきてくれてるから大丈夫」
「げ、あの後来たんスか担任」
「黄瀬くんはトイレに行ってるって言ったからバレてないよ」
「うわ〜、ありがとちゃん。行ける日には手伝いに行くっスから!」

 予想通りの展開に安心して、私は笑顔で返事をした。これでいい、こうすればあっという間に私と黄瀬くんは元の距離に戻ることが出来る。

 私と黄瀬くんの会話に終止符を打つように、甘ったるい声が黄瀬くんの名前を呼んだ。

「リョータぁ」

 明るい髪の女の子が前方のドアから顔を覗かせていた。丸く大きな瞳にぽってりとした唇がグロスでツヤツヤと光っている、可愛らしい女の子。彼女の恋人が黄瀬くんではなく、黄瀬くんの恋人が彼女ではないことを私は知っている。こうして教室に訪れる女の子が、彼女だけではないことも。

「ほんとありがとね。何かあったらスグ言って」

 申し訳なさそうな顔を見せながら女の子の所へと向かう黄瀬くんの背中を見て、苦い気持ちになる。
 私は黄瀬くんの背中を見ているのが好きだけど、この背中は嫌いだ。

 私も彼女のように、あの女の子達のひとりになれれば良かったのかな。
 少なくとも黄瀬くんは、私があの子達のひとりになって欲しいと望んではいなかった。私はあの中のひとりではないことが、それを望まれてはいないことが、嬉しかったのはずなのに。こうなってしまった今では、何が良い関係だったのか分からなくなってしまう。
 それでも、私は彼女たちのようにはどうしてもなれなかったし、黄瀬くんもそんな私の気持ちを悟ってしまった。私からだけではなく、黄瀬くんからも引いた私達の距離はとても遠い。
 うっかり近付いてしまったせいで、バランスが崩れてしまったのだ。今はただ、元の距離に戻っただけだというのに。前よりも遠く感じてしまうのは何故だろう。

 前は、あの背中は嫌いだなんて、はっきりと思ったこともなかったのに。


 口元を固く結んで、私も黄瀬くんに背を向けた。








 資料室の扉を静かに開けた私は、今日からは2クラス分ずつ進めることに決めた。ここにいると、嫌でも黄瀬くんの笑顔を思い出してしまう。1日でも早く、私はこの教室から、この罰から逃れたかった。

 いつも資料室から走り去るのは黄瀬くんの方だったのに。
 私も、逃げるようにこの資料室に背を向けた。




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