04.きっとまだ地図にない場所





 心も、体も重い。
 きっと、自分の気持ちが良く分からないせいだ。

 どうしてこんな気持ちになっているのか、自分で自分が分からない。






 昨日までが浮足立っていたのだとしたら、今は地面に深く沈んでしまっているようだった。ひどく歩きにくくて、踏み出す一歩が重かった。
 朝、自分の席に座っていると黄瀬くんはいつものように遅く教室へ入って来た。今日も昨日と同じように、前のドアから。それに気付いてから私は最初の授業の準備を始めた。わざとらしく机の中を覗き込み、教科書を探す。顔を下げていれば、どんな表情をしていればいいのか分からない自分の顔を黄瀬くんに見せずに済む。

ちゃんおはよ」
「お、はよう」

 教科書を手にしながら顔を上げれば、黄瀬くんは昨日と同じようににっこりと笑顔を作っていた。

「昨日はマジで助かったっス!おかげで間に合ったよ」
「そっか、良かった」

 自分のこの言葉はそっけないのか、それともいつも通りに出来たのか。どうすればいいのか分からない気持ちが表情に出てしまってはいないか、どちらも判断が出来ないうちに私達の会話は担任によって遮られた。

「おい黄瀬座れ」
「やべ」

 注意された黄瀬くんは笑顔を浮かべたまま私に軽く手を振り、私も反射的に教科書を掴んでいた手のひらを黄瀬くんに見せて応えた。
 黄瀬くんがいつも通り笑って返してくれているということは、私もいつも通りに出来てるってことでいいのかな。黄瀬くんのことだから、私が不自然でもいつも通りの笑顔を向けてくれそうだけど。
 後ろに座った黄瀬くんの気配をいつも以上に感じて、緊張して背筋が強張ったように伸びてしまう。本当は項垂れて、うずくまってしまいたいのに。担任の話す連絡事項も何も耳に入らずに、私は教科書を強く握りしめて時間が過ぎるのを待った。






 黄瀬くんにドキドキしてしまうのは当たり前のことで、何も不自然なことではない。黄瀬くんを見れば誰もがこの想いを抱き、私は黄瀬涼太に恋をしているのではなくただのファンのひとりに過ぎない。
 そう納得していたはずなのに、昨日の私の心は、言葉は、ひどく不自然だった。
 黄瀬くんだってきっと同じように思っていたはずだ。私はクラスメイトのひとりで、ファンのひとりで、たまたま放課後一緒に残るはめになってしまっただけだ、と。お互いそれだけの関係で、その認識に何の間違いもなく、私だって黄瀬くんと同じように考えていた。そのままでいれば何も問題はなかったのに、それを崩したのは私の抑えきれなかった一言。
 勝手に動いてしまった心。


──────── そういうこと、簡単に言わない方が良いよ ────────


 昨日私が黄瀬くんに放った一言は、その言葉だけを聞けば何の変哲もない一言だった。だけどその一言が、ただのクラスメイトである関係を、ただのファンのひとりであることを、たったの一瞬で崩してしまったのだ。
 自分の気持ちに気付くにも、この気持ちが黄瀬くんに伝わってしまうにも、十分すぎる一言だった。

 私は黄瀬くんに  その言葉  を、簡単に紡いで欲しくはなかった。

 それが私の答えで、それが黄瀬くんの答えだった。
 黄瀬くんは私に簡単に言葉を紡ぎ、途切れてしまった空気を簡単に繋ぎ合わせることが出来る。私には出来なくて彼には出来てしまう、それがお互いの答え。

 今朝もこうして簡単にいつも通りを取り戻してしまったことに、喜べばいいのか泣けばいいのか分からなかった。ただただ私にとってはこの空気が居心地の悪いものでしかなく、それでも、これから変わることのないこの空気に慣れてしまう他にないのだ。
 私は黄瀬くんのクラスメイトのひとりで、ファンのひとりで、それ以外の選択肢は与えられていない。
 突然動きだしてしまった心を、後押ししてあげることは出来ない。







 放課後が近付くにつれて、じわりじわりと汗をかくような焦燥感が私を襲った。
 それまでは黙々と作業に没頭していた沈黙が訪れることが、今はこわい。今朝話かけてくれたように、黄瀬くんは私とは違って昨日までと同じようにしてくれることは分かっているのに、それすら今の私にはこわかった。昨日と同じようであっても、そうではなくても、関係がなかった。
 じりじりと擦れるような心に、どうすれば良いのかと不安でいっぱいだった。

 帰りのHRが終わり、教室内の騒がしさが増した。遂にこの時間が来てしまった、と心臓が壊れそうなほど強く動いた瞬間、黄瀬くんが目の前に現れ、顔の前で両手を合わせた。

ちゃんゴメン!どーしても最初から部活出たくて!今日の分まかせちゃってもいい?」

 突然話しかけられたことに驚く間も無く、黄瀬くんの言葉の意味を理解した私は肩の力が抜けるように息が漏れた。
 今日の分をまかせる、というのは今日は一緒に作業をしない、ということだ。

「うん、大丈夫だよ。部活頑張ってね」
「ありがと」

 にっこりと笑い、黄瀬くんはそのまま教室を出て行った。
 昨日とは違いあっという間に見えなくなった背中を見て、私はようやく背中を丸めた。項垂れるように机に顔を伏せて、今度こそ大きく息を吐く。

 これでいい。あの背中が、私の好きな黄瀬くんだ。






 黄瀬くんは何もしていない。私が勝手に動こうとしてしまっただけ。
 大丈夫、私はまだ一歩も踏んでいない。足を上げかけただけ、持ち上げた足は簡単に元に戻すことが出来る。

 騒がしい教室内で、私は必死に  戻れ戻れ戻れ  と心の中で唱えた。




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