03.踏めないスタートライン





 黄瀬くんと居残り3日目の朝。

 今日の私は浮足立つこともなく、平常心で学校に登校することが出来た。ただただ放課後を楽しみにする海常高校1年生の女の子。至って普通なこの心境に逆に安堵していた。普通に学校生活を送り普通に黄瀬くんにドキドキする、この上なく普通のこと。女の子なら誰しも、あの顔にドキドキするものだ。だからこそ彼はモデルなのだから。
 廊下で雑誌を眺め「黄瀬くんカッコイイよね」と騒ぐ女の子の横を通り過ぎながら、心の中で「そうだね」と同意する。黄瀬くんが格好良いのは当たり前のこと。うんうん、と思いながら私はその彼がいる教室へと足を踏み入れた。
 これがいつも通りの日常だ。


 自分の席に座って鞄から教科書を出しながら、今日は前のドアと後ろのドアどちらから彼が入ってくるのかと考える。無意識にいつも考えてしまうこと。こんな風に黄瀬くんのことを考えてしまうことに焦ることも不安を抱く必要もない。この気持ちは、黄瀬くんのファンであれば当たり前に抱くことなんだから。

 朝の教室はいつも騒がしい。その騒がしさが前方で少し増した気がして、私は顔を上げた。

「おはよう」
「はよっス」

 今日、黄瀬くんは前のドアから入って来た。私に向かって、正確には私の後ろの席に向かって歩いて来る彼と目が合い、挨拶をすれば笑顔が返ってくる。私の心臓は小さく跳ねるけれど、これだっていつも通りの日常。おかしなことは何もない。
 鞄を机に置いた黄瀬くんは友達に名前を呼ばれてすぐに私の後ろからは離れて行く。今度は教室後方の騒がしさが増した。私は前の席に座っている友達に声をかけて、今日出されている宿題の答え合わせを始めた。つい数秒前までは私のすぐ後ろにいた黄瀬くんは、今は教室の後ろで男女数人と騒がしく笑い合っている。近くにいるようで、近くにはいない。近付いたようで、近付いてはいない。
 これが私と黄瀬くんの正しい距離だ。

 いちいち自分の行動が普通だと確認をする自分がバカみたいだ。
 でも大丈夫、ちゃんと分かってる。今も昔も私は黄瀬くんとただのクラスメイト以上の関係にはなくて、それ以上を望んだこともない。
 私はこの距離が好きなの。

 全てがいつも通りの日常を確認して、3日ぶりにようやくほっと出来たような気がする。




* * *





 放課後、黄瀬くんは今日も「先に着替えてから行くね」と言ってすぐに教室を出て行ってしまった。昨日私がすんなりと見送ったからか、それとも自分の自由が許されることを確信しているからか、今日はお願いではなく宣言をして教室を出て行った彼の “らしさ” に小さく笑いが漏れた。ちゃんと戻って来てくれることが分かっているから、昨日のように「すっぽかされるんじゃないか」だなんてひどいことを考えずに素直に彼を見送って、私も教室を出た。
 連日ひとりで職員室を訪れる私に担任は怪訝な顔をしていたものの、練習着に先に着替えてすぐ戻ってくると言えばすんなりと納得していた。すぐ、が何分になるのかは担任だけではなく私もさっぱり分からないけれど。結局は女子生徒だけではなく、教師も “海常高校バスケットボール部のエース” である黄瀬くんに何だかんだ甘いのだ。そこに私も含まれている結果、こうしてひとりで重いプリントを抱えるハメになってしまっている。毎日職員室からこのプリントを運ぶのは流石に疲れると感じた私は、印刷されたプリントを資料室に予め置いておいて欲しいと担任にお願いをして職員室を出た。

 今日は黄瀬くんが来るまでに何部まとめておけるかな。そんなことを考えながら資料室の薄暗い室内に足を踏み入れ、机の上にプリントを置いて息を吐いた。
 電気を点けて、ドアを締めて、作業をはじめよう。独り言のように心の中で呟いて、急ぐことなく電気を点けドアを締めて背を向ければ、閉めたばかりのドアが突然勢い良く開いた。驚いて振り向けば、不機嫌な顔をしている黄瀬くんが立っている。練習着に着替えてはいるけれど、今日は軽い練習をして来てはいないようだった。

「びっ…くりした、早いね」

 驚いたせいで、思わず本音が漏れてしまった。これじゃまるで昨日が遅かったと言っているようなものだ。けれど黄瀬くんは私のこの言葉を気にする様子はなかった。むしろ、耳に届いていないんじゃないかと思うほどだった。

「今日先に試合練習あるんスよ!ぜってー出たいのに!」

 遅れたら出してくんねーとか言うから、と文句を言いながら黄瀬くんは慌ただしく私の横を通り過ぎ、机の上にあるプリントをページごとにバサバサと分けた。立ちつくす私を気にもせず、そのまま乱暴にプリントを重ね始め、行動と同じように口から溢れる声も荒々しいままだった。

「つーか遅れたらとか、そもそも出す気ないっしょ!今までだって1時間くらいかかってんのに」

 私の返事など求めていないのだろう。ひとりで話し続ける黄瀬くんに相槌を打つタイミングも口を挟むタイミングも掴めないでいたものの、事情はなんとなく分かった。黄瀬くんの想いはその言葉からも行動からも、十分に伝わってきた。
 とにかく今日は早く終わらせてしまいたい、というより今すぐに戻りたい、と。

 黄瀬くんの勢いに押されて一瞬固まってしまったけれど、大事な練習があるなら協力してあげなくちゃ、と私は小走りで机へと近付いた。机の上には乱暴に分けられたプリントの山が崩れそうに傾いていて、黄瀬くんが乱暴に1枚1枚を掴むせいでどんどんと傾いていた。既に何部かまとめられている束も端がばらばらに重ねられていて、綺麗に端を合わせ直してからじゃないとホチキスで綴じれそうもなかった。
 とりあえず私はいつもと同じようにホチキスで綴じていればいいのかなと考え、黄瀬くんが束ねてくれたプリントを手に取るものの、あんまりにも急いでプリントを重ねるせいであちこち皺がついてしまっている。キセリョがまとめたプリント、とでも書いておけば特定の女子は喜びそうだけれど、流石にちょっとこれは誤魔化しきれない皺が多い。

「黄瀬くん、もう少し丁寧にやらなきゃ紙くしゃくしゃになっちゃってるよ」
「どーせ皆こんなのまともにやってねーからいいんス」
「ちゃんとやってる人もいるってば」

 しかし黄瀬くんは私が何を言っても聞く耳を持ってくれなかった。先程から私は黄瀬くんに話しかけられ会話こそ出来ているものの、まるで視界に入れてもらえていない。彼の視界には今、バスケットボールしか映っていないのだろう。
 女の子には優しく、ファンもないがしろにしない。そんな黄瀬くんが、一応女の子である私を前にして生返事ばかりでむしろ取り合ってもくれない。これは悲しむ場面なのかもしれないけれど、バスケのことで頭がいっぱいになっている黄瀬くんを目にすると、どうにも私はそんな感情が湧き上がってこない。
 それに、それでもこうしてちゃんと顔を出してくれたことも嬉しかった。決して私のためにここに来てくれているわけではないけれど、押しつけて放っておいていいとは思われなかったことが嬉しかった。
 私は、たったそれだけのことで満足なのだ。

「その練習、何時から始まるの?」
「アップ終わってからだから、だいたい1時間もかかんないくらい」
「そっか、じゃあ急ごうか」

 重ねられていくプリントの束は今までで1番早く積み上げられて行くけれど、その全ての端はばらばらであり時には皺になっている。それほど早く練習に出たいという黄瀬くんの気持ちは痛いほどに伝わってくるものの、端が揃っていないせいで私の作業時間が増えてしまって効率が悪かった。けれど改めて注意した所できっと黄瀬くんの焦りは治まらないだろう。それなら、黄瀬くんの焦りの分だけ、私が頑張るしかない。

 多少雑になってしまっているものの、昨日よりも倍のスピードで私達の作業は進んだ。






「黄瀬くん」
「ん?」

 黙々と作業を続けるものの落ち付かない黄瀬くんを目の前にしていると私の心も落ち付かず、10分もしないうちに私は口を開いた。時間はかかってしまうけれどひとりで出来ない量ではないし、こんなにもやりたい練習があるならもう部活に行かせてあげたい。
 私の声に反応はするものの、黄瀬くんは顔も上げず手の動きも止めず、生返事のままだった。お喋りなどしてる暇などないと言いたげに。
 そっけない態度をとられたというのに、そんな必死な姿にやはり私の口元はにやけてしまった。

「いいよ、私がやるから黄瀬くんはもう部活行って」
「え、いーの?」

 そこでようやく黄瀬くんの顔が持ち上がった。

「私今日は用事ないし、大事な練習があるんでしょ?」
「マジでいいの?」
「マジで」

 みるみると笑顔になる黄瀬くんの顔を見て、私も笑顔になる。そんなに嬉しそうな顔をされてしまうと、明日も同じことを言ってしまいそうになるから困る。

ちゃんありがと!」

 机の上に乗っていた私の手を取り、両手で握りお礼を言う黄瀬くんに、体がじんわりと熱くなった。
 だから、私にはこういうことしてくれなくていいのに。
 愛想なんて振らないで、生返事をするくらいがいいのに。熱を持った自分の反応をまた責めてしまう。キセリョのファンなら喜んでしまうことくらい普通だと、さっきまでそう思えていたのに。キセリョにドキドキするのは女の子なら当たり前のことで、おかしいことじゃない。今までだって当たり前に感じてきていたはずだ。だから自分を責める必要はないのに、これが普通の反応なのに。それなのにどうして今になってドキドキしてしまうことを、嫌だと思ってしまうんだろう。
 この反応の方が、きっとおかしい。

 だめだ、一定の距離を保っていれば安定しているのに。私のぽんこつセンサーは黄瀬くんに近付きすぎてしまうとやっぱりおかしくなってしまう。

「どういたしまして」

 センサーがこれ以上おかしくなる前に離れたい、なんて思いながら返事をすれば、黄瀬くんの笑顔が一層深まった。そして放たれた黄瀬くんのその一言が、ひどく耳に響いた。 

 それはいつも通りの会話から決して逸脱しているものではないはずだった。

 違和感はないはずだった。

 だけど私には──────────ひどく、ひどく耳に響いてしまった。



「も〜ちゃんダイスキ!」



 それは聞きなれた、いつも黄瀬くんが紡ぐ言葉のひとつに過ぎないのに。
 私の手を両手で掴み嬉しそうにそう言った黄瀬くんのその言葉に、一瞬、きっと私だけの時が止まった。瞼が貼り着いたように固く、瞬きが出来なくなってしまった。

 聞きなれた言葉ではあるけれど、決して私に向けられたことはなかった言葉。


    ダ イ ス キ   


 黄瀬くんが触れている手のぬくもりから先が、どんどんと冷えていく。体中が、冷たくなる。
 心と、意志と、体が全てバラバラに離れてしまったような感覚がした。全て繋がっているはずなのに、今はなにひとつ自分の意志で動かせる気がしない。

 黄瀬くんのその一言のせいで、私が必死に抑えていたものが弾けてしまった。

 何の意味もない言葉なのは分かっているのに、それなのに、気付いた時には私の唇は既に動きを終えた後だった。
 こんなことを言いたいだなんて今まで考えたこともないはずだった。今だって、こんなことを言いたいだなんて、確かに思っていないはずだった。
 
それなのに、どうして?




「そういうこと、簡単に言わない方が良いよ」

 震えそうな、冷たいその声がまるで自分のものじゃないみたいに聞こえた。
 口から零れた声に、言葉の意味に、自分自身が一番驚いていた。だって、こんなことを言おうとしていたわけじゃない。唇の端すら、今の自分には動かせる気がしないと感じていたはずなのに。
 けれど驚いているのは私だけじゃなかった。嬉しそうだった黄瀬くんの笑顔が、驚きで固まっている。その顔を見て息が詰まった。
 こんな顔をさせたかったわけじゃない、こんなことを言いたかったわけじゃない。
 今はしっかりと唇を動かせたとしても、彼には伝えられない言葉。ぐるぐると後悔と言い訳ばかりが心の中を渦巻いていた。

 なんてバカなことを言ってしまったんだろう。

 冷えていた体に、一気に血が流れこんで来るように熱くなる。
 熱を取り戻した体を必死に動かすように慌てて笑顔を作れば、引き上げた口角につられて心臓が締め付けられるように痛んだ。戻ってきた体温は、決して今までと同じものなんかじゃない。
 痛くて、うまく笑えない。笑いたくなんかなかった。

 でも、今は笑わなくちゃいけない。

「ほら、早く部活行って」
「じゃあ……よろしくっス」

 必死に口角を吊り上げている不恰好な私の笑顔に応えるように、黄瀬くんはにっこりと笑った。その笑顔を見て泣きそうになる。こんな時にだって、黄瀬くんはとても綺麗に笑う。驚いていたあの表情が、まるで私の見間違いだったかのように。
 私は、ひとつも上手に出来ないのに。

 握っていた手を離した黄瀬くんは立ちあがり、私の肩を叩くことも、頭を撫でることもせず静かに教室から出て行った。
 昨日までのように、嬉しそうに体育館へと走る足音が今日は聞こえない。あっという間に見えなくなる背中を、今日は見送ることなんて出来ないのに、教室を出るまでの足取りがひどく遅かった。何事もなかったように振舞ってくれる黄瀬くんのその姿こそが、昨日までとは違う何よりもの証拠だった。

 静かな足音が教室から遠ざかったのを聞いて、私はようやく自分の意志で、自分の意志通りの言葉を発することが出来た。

「黄瀬くんのばか」




 私は、嬉しそうに体育館へ走る黄瀬くんの足音が好きだった。
 あっという間に見えなくなってしまう背中が好きだった。

 それだけで良かった。

 黄瀬くんの眩しさに目を細めて遠くから見つめているだけで良かった。

 あんな言葉なんていらない。
 黄瀬くんの手の温度なんて知りたくない。

 私は黄瀬くんのファンのままで良かったんだよ。




 濡れてしまったプリントを握りしめれば、手が小さく震えた。
 黄瀬くんの手のぬくもりは未だ消えないのに、私の手はひどく冷えている。

 まだプリントは残っているのに、私の体は今度こそ本当に動かすことが出来なくなってしまった。




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