01.あやうく恋するとこだった





「あーもー、最悪っスね」

 放課後、私はSHRが終わったばかりの騒がしい廊下を黄瀬くんと並んで歩いていた。黄瀬くんの手には積み重ねられた大量のプリント、私の手にはホチキス2つと替え芯の箱、そして資料室の鍵が握られていた。黄瀬くんの肩が下がっているように見えるのはプリントの重さのせいか、それとも今の気分が現れているせいか、そのどちらもなのか。隣を歩いていた私は内心「最悪」だなんて少しも思えなかったけれど、彼に合わせるように「そうだね」と笑って応えた。
 部活に帰宅、次々と教室を出て行く生徒で溢れる廊下を、私たちはそのどちらへも向かうことなく静かに歩いていた。どの生徒もきっと向かわないであろう、資料室を目指して。その理由は、本日最後の担任の授業にある。



 私たちの担任の担当教科は世界史。本日最後の授業は担任によるもので、教科書を飛び出し壮大な歴史ロマンを語りだした彼の声はほとんどの生徒にとって子守歌にしか聞こえていなかった。ある程度の熱量があって語られるならまだしも、彼の熱意は静かに燃える炎らしく、ただただ単調に響き続ける声に誰もがぼんやりとしていく頭を抱えていた。ノートに何かを書き記す音も、ページを捲る音も教室内に響かないのがその証拠だった。クラスの全員が “本日最後の授業” と ”担任の子守歌” に押される眠気と戦っていたのだ。
 けれど私は戦うのを早々に諦め、目立たない壁際の席にいるのを良いことに腕枕をしてそこに頭を預けることにした。そうすれば、気持ちが良いほどすんなりと眠りに落ちた。
 それから20分も満たないほどの時間が経った頃に、パシンと何かが頭をかすめた感覚で私の意識はゆっくりと浮上する。しっかりと眠ってしまったせいでぼんやりとしか目が覚めなかったものの、その後すぐに聞こえたバシン!と強く響いた音で、今度こそはっきりと目が覚めた。どうやら担任が、丸めた教科書で私の頭をかすめた後に、後ろの席にいる黄瀬くんの頭を思い切り叩いたようだった。私だけではなく、黄瀬くんも居眠りをしていたらしい。目覚めたばかりの頭でなんとかそこまでの状況を把握し、背後で響く「痛ってェ!」という叫び声を聞いて慌てて身体を起こし姿勢を正したものの、時既に遅し。左半身には担任の怒りのオーラがビシビシと伝わってきていた。私は背筋を伸ばしたまま、恐怖で顔を横に向けることも出来ずに、小さな声で「すみません」と呟いた。きっと、いや絶対に、私たち以外にも居眠りをしていた人はいたはずなのに、何故標的にされたのだと思いながら。

 私と黄瀬くんの前後揃った居眠りは、気持ちよく演説していた担任の気分を相当損ねてしまったらしい。罰として担任が受け持つ授業の配布プリント作りを命じられて、今に至るというわけだった。20枚のプリントをまとめてとじて、各45人の10クラス分。黄瀬くんの手にある900枚のプリントの10倍分をまとめなきゃいけないと考えると、担任が誰かに押し付けたくなる気持ちも少しは分かる。それにしたって、一度の居眠りでこれを押し付けるのは少し横暴すぎるというか、タイミングが悪かったというか。
 再来週から使い始めるから来週中には完成させておくようにと言われたものの、1クラス分のプリントをまとめるのにどれくらいの時間がかかるのか検討もつかない。火曜日の今日から1日1クラス分のペースで進めても、今週は3連休があるから学校がある日は8日間しかなくて間に合わないし、そもそも友達とお喋りをしているなら何時間でも残っていられるけど、黙々とプリント作りをしなきゃいけないと考えるとうんざりとしてしまう。
 と言いつつも、ひとりでやらなければならないルールだったら確かにうんざりなんだけど “あの” 黄瀬くんと一緒、と考えると少なからず私も女の子なわけで、最悪という言葉は心の中には浮かんでこないのが正直な気持ちだった。モデルのキセリョと一緒、というこの状況で嫌だと思う女の子はきっといないと思う。現に、授業後に「手伝ってあげる」と女の子が私と黄瀬くんの席を囲んでいて、いつもはすぐ部活に行ってしまう黄瀬くんと放課後を過ごせるチャンスにみんな喜んでいた。彼女たちにとってこれは罰ではなく、ご褒美なのだ。それを見た担任が「手伝った奴は成績2」と低い声で言い放ったおかげで大ブーイングが起きるほどに。
 そんな担任の絶対的権力のおかげで、黄瀬くんと放課後にふたりで過ごすことになったものの、キセリョファンの女の子に怯えることなく私は黄瀬くんと並んで資料室へ向かうことが出来ていた。担任のあの一言がなければ私のポジションはあっという間に奪われて、いつも通りの放課後を過ごしていたのが目に浮かぶ。

 資料室の鍵を開けて大量のプリントを持った黄瀬くんを先に通そうとすれば、引きとめるように「キセリョー!」と女の子の甘い声が響いた。呼ばれた黄瀬くんだけではなく、思わず私も顔を向ければ先輩と思わしき派手な女の子達が雑誌を掲げていた。
 表紙は、今ちょうど私の隣にいる “キセリョ” だった。

「この表紙超イイ!」
「キセリョ最高!」
「「大スキー!」」

 少し離れた場所から叫ぶように声をかける女の子達に私は目を丸くするものの、黄瀬くんは慣れているようで「ありがと、オレも大スキ!」と笑い、さっと資料室の中に入って行った。あまりのテンポの良さに驚いていると、資料室の中から「入って」と声をかけられ、その声に引っ張られるように私は資料室に足を踏み入れた。黄瀬くんは既にプリントを机に置いていて、自由になった両手で素早くドアを閉めた。
 慣れている一連の動きに、関心してしまう。

「いつもすごいね」
「モテる男の運命っスよ」

 窓が小さな資料室の中は、もう陽が沈みかけてしまっているように薄暗かった。それでも、例えその表情が薄い苦笑いだったとしても、隣に黄瀬くんがいると明るんで見える、だなんて口にしたら余計にその苦笑いを深めさせるだけなんだろうと、私は口を噤んだ。
 ドアを閉めた後に電気をつけた黄瀬くんを見上げながらそんなことを思っていると、私の視線に気付いた黄瀬くんが首を傾けて微笑んだ。雑誌で見たことがあるような、そんな微笑み方。

ちゃんはもうオレが表紙の雑誌買ってくれた?」
「買ってないよ」
「じゃー今日の帰りに買って帰ってね」
「気が向いたら立ち読みしてみる」
「立ち読み!」

 買ってくれないの?と眉尻を下げる黄瀬くんは、買って損はさせない巻頭特集っスよ?と、今度は不敵に微笑んだ。ころころと変わるその表情に、思わず私の頬が緩んでしまう。彼の表情を見ているとこっちまで楽しい気分になってしまうのは何故だろう。
 慣れているんだなぁ、と思う。毎日のように、毎時間のように、黄瀬くんには黄色い声が届く。いつもそれに嫌な顔ひとつ見せずに応えるサービス精神の旺盛さが、彼の人気に拍車をかけるのだろう。今だって、別に私なんかにサービスしてくれなくていいのに、綺麗に整えられた微笑みを向けてくれた。そうすることが彼のクセなのか、それともわざとではなく、ただ彼にとって普通のことを私たちが意識してしまうだけなのか。それはきっと黄瀬くんにしか分からないこと。
 女の子の視線を集めるっていうのは、やっぱり嬉しいものなのかな。そんな視線を集めたことがない私には分からない。それでも、毎回かけられる “スキ” や “アイシテル” の言葉に、戸惑わずに返事をする自信はないなぁと思った。
 それこそ、黄瀬くんは慣れているのだろう。

「ちゃっちゃとやっちゃお。遅くなると先輩にドヤされるんスよ」

 私の手からホチキスを取った黄瀬くんに促されるように、私は机の上に載せられたプリントの山をに手を伸ばした。
 ドヤされるからではなく、バスケがしたいから、早く体育館に行きたいくせに。素直にそれを口にしない黄瀬くんに、何と表現すれば良いのか、うずうずするような、そんな気持ちになった。そんなこと言って本当は早くバスケがしたいんでしょ、だなんて知った風なことを言いたくなってしまう。けれどそれを気軽に口に出せないほど、私たちの関係には距離があった。だからこそ、黄瀬くんもバスケが大好きなことを敢えて表に出さないのだ。
 私は心の中にある気持ちを口にはせずに、早くプリントをまとめて終わらせてあげようと思った。彼が大好きなバスケの練習に、少しでも早く行かせてあげられるように。

「先に全部プリントまとめてからホチキスした方が効率が良さそうだよね」
「じゃあその順番でやろ」

 そうして、私と黄瀬くんは1枚ずつプリントを手に取り重ねていく作業から始めた。
 何か話した方が良いのかなと思いつつも、席替えをして黄瀬くんが私の後ろの席になるまでは特に会話をすることもなかった関係ではいざ2人きりになって浮かぶ話題がなかった。先ほどから普通に会話をする分には問題がなくても、敢えて何か話をするとなると話題の内容を考えてしまって、男友達にするように気軽な話題を持ちかけられないくらいには、私も黄瀬くんのことを意識しているのだ。好みのタイプは人それぞれあれど、彼の顔立ちが美しく整っているということは紛れもない事実で、そして正直なところ私は彼の顔が好きだった。黄色い声援を送ったり、彼を囲んだりしたことは一度もないけれど、心の中で彼を格好良いと思ったことは何度もある。

 静かな沈黙の空間。こういう時、黄瀬くんの方が上手に話題を作ってくれるタイプだと思っていたものの、私と同じように彼も黙ったままプリントを重ねていた。
 ふたりとも無言のままでも嫌な沈黙が流れているわけではなく、そして居心地が悪いわけでもなかった。それなら変な気を回さずに黙ったまま作業に集中しよう、と決めた私はプリントを重ねることだけに意識を向けた。
 その方が、黄瀬くんも早く部活に行くことが出来るから。

 そうして10分ほど無言でプリントをまとめていた時、先に口を開いたのは私の方だった。

「痛っ……!」

 早く終わらせてあげなきゃと思いながら急いでプリントを束ねていたせいで、紙の端で指を掠め、鋭く走った痛みに思わず声が漏れてしまった。

「切っちゃった?」
「うん」

 切れた指を見ればまだ血は滲んでいなかったものの、薄くめくれた皮膚の奥がじりじりと痛んだ。
 紙で切った傷は小さくても痛みがなかなか消えない。そのせいで一度切るとその後に紙を触るのが怖くなるから嫌だ。重ねていないプリントはまだまだ残っているのに、無意識に手が強張ってしまって先ほどと同じペースで紙を触るのがこわかった。でもそれじゃあ、作業のペースが落ちて作業が遅れてしまう。
 急がなきゃいけないのにどうしよう、と気分が落ちながらも私は溜息を堪えた。なんとなく、黄瀬くんの隣で溜め息はつきたくなかった。

「だいじょーぶ?」

 作業を中断した黄瀬くんは私に近付き、血が滲み出した指に顔を寄せ確かめるように傷口の横を指でなぞった。

「紙で切ると地味に痛いんスよね」
「う、ん」

 傷が、余計に熱を帯びたように感じる。
 ふいに触れられたことに、私は動揺してしまった。たった少しのことなのに、当たり前のことだけれど黄瀬くんの指があたたかかったことや、綺麗だと思っていても黄瀬くんも男の子で、その指がごつごつと固かったこと。
 たったそれだけのことで、私の意識は奪われてしまう。

「血でてきちゃったね」

 指先から顔を上げ、眉根を寄せた黄瀬くんはきょろきょろと教室内を見渡した。そして隅に置かれていたティッシュを見つけて1枚取り出し、私の指先にふわりとかけた。
 私はティッシュの上から自分の指先を思わず強く握りしめてお礼を言った。指を強く握りしめたのは、血を止めるためなのか、奪われかけている意識を止めるためなのか、自分でもよく分からなかった。

「だいぶまとまったし、ちゃんは先にホチキスはじめて。女の子が傷なんてつけちゃダメっスよ」
「でも、黄瀬くんだって手に傷作ったらバスケしにくくなっちゃうよ」
「紙で手切ったくらいじゃ支障ないよ。ほらほら紳士なオレの言うとーりに、ね?」

 笑って肩を叩かれてしまえば、それ以上粘ることも出来ずに私は大人しく椅子に座った。
 というよりも、触れられた肩が熱くて黄瀬くんから離れたかった、というのが本音だ。せっかく指先を握って、引き留めていたのに。血はすぐに止まっても、黄瀬くんに奪われかけている意識がこれじゃあ進んで行く一方だ。
 これくらいのやり取り、クラスの男の子とだってよくあることで特別に馴れ馴れしいわけじゃない。だけど、黄瀬くんがこれをやっちゃダメだよ。黄瀬くんがするだけで───────

ちゃんも居眠りするんスね」
「……え?」

 頭の中でぐるぐると黄瀬くんの行動を思い返していたせいで、話しかけられた言葉に反応が遅れてしまった。遅れて届いた言葉の意味を確かめるように顔を上げれば、黄瀬くんは不満そうに唇を尖らせていた。

ちゃんが起きててくれたら、オレが寝てても隠れられたのにさぁ」
「えぇ、そんな、黄瀬くんおっきいから隠せないよ」
「隠せる隠せる!つか気を引かずにすむじゃん。だからちゃんは今後居眠り禁止ね」
「それずるくない?」

 黄瀬くんの一方的なわがままに、呆れて笑い声が漏れた。
 ほんの少し黄瀬くんに触れられるだけで勝手に意識してしまって、頭の中でぐるぐると余計なことを考えてしまうのに、こうして話していると急に肩の力が抜けてすんなりと口から言葉がこぼれるから不思議だ。
 黄瀬くんが格好良いせいだ、と思う。ちょっと触られただけで私がどぎまぎしてしまうのは、きっとそのせいなのだ。そんな風に変に意識をしてしまう時は妙に居心地が悪い。それよりも、こうして気軽に話をしている方がよっぽど楽しい。そう思うと、変に意識していた気持ちもふいに解けていった。
 指先を握っていた手を放して血が止まったのを確認してから、私はホチキスを手に取った。

「仕事で授業抜けたりするから平常点稼いどきたいんスよ」
「じゃあ起きてることをオススメします」
「目の前の子が気持ち良さそうに寝てたら眠くなっちゃうよねぇ」
「またそうやって私のせいにする!」
「ピーンと真っ直ぐに伸びた背中が目の前にあればオレも真面目に授業受けるケド」
「じゃあ明日から背中に ”寝るな黄瀬!” って書いた紙貼っといたげる」
「あはは!それいーっスね!」

 黄瀬くんの理不尽な言い分に冗談を返せば、楽しそうな笑い声が響いた。
 屈託なく笑う黄瀬くんのその笑顔に、私の胸の奥がむずむずと動く。先ほど変に意識してしまった時とは違う、居心地の良い心の疼きだった。


 あの日、体育館で見ていた笑顔と似ている。
 楽しそうにバスケをして楽しそうに彼等と笑っている、あの笑顔。


 いつも女の子に振り撒いている笑顔よりも、あの笑顔の方がよっぽど格好良くて私は好きだった。
 普段目にする機会が少ないから余計に、とても眩しく見える。まさかこんな風に黄瀬くんのあの笑顔を見られるとは思わなかった。私はそれが嬉しくて、居眠りをして良かったと思ってしまった。黄瀬くんとこうしてふたりでいられるからじゃない。
 黄瀬くんの、あの笑顔を見られたから。

「つかツイてないよなぁ、寝てることなんてケッコーあんのに」
「そうなの?」

 そんな私の内心なんて当然知らない黄瀬くんは、こうして居残りをさせられている不満を重ねた。どう転んだって、悪いのは授業中に寝ていた私たちなのに。

ちゃんの背中に隠れて見えてないけどね」
「隠れれるわけないじゃん、絶対バレてるって!」
「バレてねーもん」
「注意されてなかっただけでバレてるよ絶対!そのツケが回ったんだよ、私の方がとばっちりじゃん」
「いやいや引き金を引いたのはちゃんでしょ」
「ちがーう、黄瀬くんの自業自得!もう責任の擦り付けあいはいいから早く終わらせちゃおうよ、黄瀬くんプリントまとめるの遅い!」

 誰のために急いでプリントをまとめているせいで指を切ったと思っているんだ、と心の中で鼻を鳴らした。もちろん、黄瀬くんのせいじゃない。ただただ私がどんくさいだけだ。でも、早く終わらせて部活に行きたいのは黄瀬くんの方で、私もそれに協力してあげたい気持ちでいることくらいは分かって欲しい。



 分厚いプリントに力を込めながらホチキスをとめる作業は意外と大変だった。力が弱いと針が曲がってしまい上手くとめることが出来なくて、手が痛くならない程度に力を込めるのが難しい。だけど黄瀬くんについつい奪われてしまう意識を集中させるには丁度良い作業だった。
 黙々と作業を進めて次、次、とテンポ良くまとめられたプリントの山に手を伸ばしていけば、積み重ねられていた山の高さはどんどんと低くなっていった。けれど私が作業を進めれば進めるほど低くなっていく一方で、黄瀬くんがまとめているはずのプリントの束が新しく重ねられる気配がまったくない。それに気付き不審に思い顔を上げれば、黄瀬くんは中途半端に束ねたプリントを手にしたまま私を見下ろしていた。まさかずっと見られていたのではないかという考えが過ぎり開いた口が強張った。

「……どうしたの?」

 先ほど最後に私が発言してから返事がなかったのは、お互い再び作業に没頭しているからだと思っていたのに、どうやらそうじゃないようだった。まさか自分の責任ではないと憤慨しているのか、遅いと言ったことに腹を立てたのか。どちらも黄瀬くんのイメージではないけれど、この状況で考えられる理由はそのふたつだけだった。
 それに私は本当の黄瀬涼太を知らないから、どちらでもないとも言いきれない。気分を損ねているような表情には見えないけど、もしそうだったらどうしよう、と身構えた。上手に機嫌をとる方法なんて私には分からない。
 けれどそんな心配は不要だと言わんばかりに黄瀬くんはあっけらかんと口を開いた。

「いやぁ、珍しいっスね」
「え?」
ちゃん彼氏とかいんの」

 その突然の質問に、理解が追い付かなかった。いや、質問の意味は分かる。そうじゃなくて、どうして「珍しい」の後に続く質問が「彼氏いるの?」に繋がるのかが分からなかった。ましてや、黄瀬くんは憤慨しているわけでも、腹を立てているわけでもない。珍しい、とただ驚いている。一体、黄瀬くんは何の話の続きをしているんだろう。私が最後に話した言葉と何一つ繋がってはいない。
 困惑しながらも、とりあえず私は返事をした。

「いない、けど」

 黄瀬くんの声のトーンは疑問というよりは私に彼氏がいると確信した上で、確認するための質問のように聞こえた。しかし彼氏がいることもいないことも別に珍しいことじゃないはずだ。
 もしかして私に彼氏がいることが珍しい、って言いたいのかな。私、バカにされてる?

「いないの!?尚更珍しいっスよ!」

 やっぱり、彼氏がいると思った上で聞いてきていたのは間違いじゃなかったみたいだった。なんだか余計に会話の意図が掴めない。彼氏がいないことをバカにされてるのなら悲しい、と思いながら口を開くと自然と声のトーンも落ちてしまった。

「……彼氏いる子もいない子も別に珍しくはないと思うけど」
「あー、ちがうちがう」

 私の声のトーンが下がったことに気づいて、黄瀬くんは私の考えを悟ったようだった。少し惨めになった私の気持ちを吹き飛ばすように、おどけたような声を出して笑ってくれた。

「女の子と何かやると絶対長引かされるんスよ。でもちゃんは早く終わらそうって言うから、オレに興味ないんだなぁと思って」
「黄瀬くん……それ自意識過剰」
「事実っスもーん」

 ウインクをひとつ飛ばしてきた黄瀬くんに、私はわざと苦い顔をして見せた。
 確かに、普通の女の子だったら少しでも長く黄瀬くんと一緒にいたいと思うよね。それなのに私は早く終らせようと躍起になってるから驚いた、と言われて納得してしまった。自意識過剰だなんて言ったけど、本当は黄瀬くんの言う通りだと私も思う。

「でもそれと彼氏が何の関係があるの?」
「好きな男がいるからオレに興味ないんだと思って」
「黄瀬くん、世界中の女の子みんなが黄瀬くんのことを好きになるわけじゃないんだよ」
「そーなんスか!?」
「そーなんスか!?じゃないから!笑ってないで早くプリントちょうだい!」

 楽しそうに笑う黄瀬くんを咎めて、催促するようにプリントの山を叩いた。
 本当は私だって、このまま会話を続けていたい。珍しい、なんてまるで褒めるようなことを言ってくれたけど、私だって珍しくも何ともない普通の女の子なんだよ。黄瀬くんともっとお喋りをして、放課後のこの時間を共有したいと思ってる。だけどそんなことをしたって黄瀬くんは喜ばないだろうし、こんな風に笑い続けてもくれないことを私は知ってるのだ。

 黄瀬くんが一番大切にしたいもの

 私はそれをよく知っている。自分が黄瀬くんと一緒にいられることよりも黄瀬くんが大好きなバスケをして楽しんでくれている方が、よっぽど嬉しい。だから私は、少しでも早くこの作業が終われるように頑張ってるのに、彼はほんの少しもそのことに気づいていないようだった。

「あとちょっとで部活に行けるんだから頑張ってよ」
ちゃんも部活あんの?」
「ないけど」
「えー、じゃあオレのために頑張ってくれてんスか!やーさしーい」

 急かしてみても、なかなか黄瀬くんのお喋りは止まってくれなかった。それどころか、語尾にハートが付いていそうな声に私は必死にホチキスを握り、針を押し出すことで耐えた。顔を上げて黄瀬くんがどんな顔をしているのかを見たくても、自分が今どんな表情をしているのか分からなくてそれが出来ない。口許がにやけているかもしれないし、眉が八の字に下がっているかもしれない、もしかしたら頬が赤くなってるかもしれないし、その全部かもしれない。
 ただ分かるのは、黄瀬くんにこんな顔を見られちゃいけないってこと。

「私も早く帰りたい用事があるの」
「つれないっスねぇ、もっとオレとの時間を楽しんでくれてもいーのに」
「あのねぇ」

 いい加減、さっきからあれこれ考えている自分の努力が虚しくなってきた。黄瀬くんが早く部活に行けるようにだとか、変に思われないように顔を上げられなかったりだとか、平静を装いながら一人で必死になっているのに。
 私の心の内は分からなくったって、誰のために急いでいるのかは今ので分かったんだから少しぐらい手を早めてくれてもいいでしょ?気と表情を引き締めて顔を上げれば、黄瀬くんはにっこりと笑って両手を広げて見せた。
 何かを、私にアピールしたげに。

「……なに?」
「でーきた」

 困惑する私の声に被さるのは、楽しそうな黄瀬くんの声。「でーきた」と、そうは言っても、私の手元にあるプリントの山は少しも増えていない。黄瀬くんの手のひらと手元にあるプリントの山とを交互に見る私の視線で言いたいことを理解したのか、黄瀬くんは先ほどから増えていない、あとほんの数部しか残っていないプリントの山に手を置いた。

ちゃんはたくさんやってくれたから、後はここにあるので終わり」
「え?」
「こっちのプリントはオレの分」
「もう出来てたの?」

 「こっち」と言って黄瀬くんはもう片方の手を新しく出来上がっていたプリントの山に乗せた。黄瀬くんから意識を逸らすようにホチキスの針を綺麗にとめることに集中していたせいで、積み上がっていくもう一方のプリントの山に全然気が付かなかった。

「オシャベリしてただけじゃないんスよ」

 そんなことを言いながらプリントを手にしてパチンとホチキスをとめた黄瀬くんは、まるで私がカメラのレンズだと言わんばかりの笑顔を向けた。その笑顔に、引き締めていた表情が不意に崩れてしまった。
 やっぱり、黄瀬くんはずるい。
 黄瀬くんのせいですぐに緩められてしまう表情を、さっきまで必死に隠していたのにこうもあっさりと崩されてしまう。困ったようなこの私の表情を、この状況なら呆れているのだと受け取って貰えてるかな。だけど本当は表情の通り。私、黄瀬くんに困らされてるんだよ。
 自分の魅力を惜しげもなく相手に晒して、さりげなく気遣いまでする。
 これじゃダメだ、と思った。私は止まっていた手を再び動かし、残っていたプリントを手に取りなるべく力強く、けれどそれがやっぱり黄瀬くんにはバレないようにと加減をしてホチキスを握った。
 バチン、という音で気を引き締めるように。握りしめる力で、自分の意識を引き留めておけるように。
 さっきから私、こればっかりだ。

「早く終われそうだね」

 残っていたプリントを素早く綴じて、私は立ち上がり黄瀬くんが自分の分にと積み重ねたプリントの山に手を伸ばした。
 これなら本当に、あと10分もかからずに終われそうだ。

「えー、カッコつけさせてくんないんスか」
「大丈夫、黄瀬くんもう格好良いから」
「ほーんと、つれないっスねぇ」

 それから再びお互い無言でプリントを綴じ続け「でーきた!」という黄瀬くんの声で私の集中が途切れた。あと2、3部で終わると思いながらプリントの四隅を整えている間に、黄瀬くんが最後のプリントを綴じ終えたようだった。彼の言葉を締めくくるように、私も自分の手元にある最後の一束にホチキスの針を通した。

 ─────────パチン

 資料室に来てから1時間が過ぎた頃だった。

「じゃあ私は職員室に鍵を返しておくから、黄瀬くんは部活に行っていいよ」

 最後に綴じ終わったプリントを重ねて顔を上げれば、黄瀬くんは既に立ち上がっていた。
 担任からは出来上がったプリントはそのまま資料室に置いて帰って良い、と言われている。後は鍵を閉めて、その鍵を職員室に返しに行けばとりあえず今日の分の罰は終わる。

ちゃんありがと!また明日ね!」

 重そうな鞄を持ち上げた黄瀬くんは、私の肩にポンと手を置いて走って教室を出て行った。出ていく背中に部活頑張ってねと声をかければ「おう!」と、なんだか黄瀬くんに似つかわしくない少年のような、元気な声が返ってきた。
 これから行く部活が楽しみで仕方ないっていうような、そんな声。





 どうしよう

 半開きになっているドアを閉めに行く気にもなれず、私は机の上に倒れ込んだ。
 触れられた肩がじんじんと熱い。長く息を吐ききれば、最後に小さな呻き声が漏れた。振り返りもせずに行ってくれて良かった、と思う。
 きっと私はまた、見られてはいけない顔をしている。

 だめだ。ダメ

 おでこを机につけて、少しでも冷えるようにと念じた。黄瀬くんとたった1時間一緒にいただけで浮かれてしまった心が、冷めるように。
 そもそも、私が顔を赤くしようと黄瀬くんにはきっとどうでも良いこと。彼はどの子に対しても分け隔てなく同じように優しくて、サービス精神旺盛。全てはただのアイサツに過ぎなくて、一瞬にして見えなくなった大きな背中がそれを物語っている。黄瀬くんにとっては私の胸の鼓動も、熱くなる頬も、どれも他の女の子と同じ見慣れたいつもの光景なのだ。気にも留めない流れ行く景色と同じ。そんなことはずっと前から知っている。分かっていても、それでもやっぱりこうして笑顔を向けられたり少しでも触れられてしまえば心が揺れずにはいられなかった。

 ずるい

 黄瀬くんは女の子達のそんなココロを分かっている。きっと女の子達だってそんな黄瀬くんのズルさを見抜いてる。だけど胸がときめいてしまったら、黄瀬くんに笑顔を向けられてしまったら、もう抗いようがないのだ。
 不毛だ、と思う。それを楽しめる子達は楽しいのだろうけれど、楽しめない子にとっては地獄だ。
 私にとっては────────



「帰る!」

 わざと、終了ボタンを押すように声を出して立ち上がった。黄瀬くんに揺らされた心を止めるように、リセットするように。
 黄瀬くんは格好良い、黄瀬くんはたくさんのファンがいるモデル。私は、そんな黄瀬くんに胸をときめかせるファンのひとり。
 ────────彼は、恋する相手じゃない。
 ────────黄瀬くんに感じるのは、恋心じゃない。

 あやうく恋するとこだった、とわざと心の中で呟きながら、出来あがった2つのプリントの山を並べ直して私も教室を出た。黄瀬くんがまとめたプリントの山よりも高い、私がまとめたプリントの山。ただ私の方が先にホチキスで綴じ始めただけの話なのに、気持ちの大きさを物語っているように見えた。
 もう一度、確かめるように心の中で唱えた。



 ────────黄瀬くんに感じるのは、恋心じゃない。

 たくさんの女の子の中のひとりになって楽しむことは、私には出来ない。




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