蛍くんとお姉ちゃんの元気と不機嫌

月島家兄弟構成
長女:/長男:明光/次男:蛍








「ねぇちゃんは?」
「帰って来てからずっと部屋にいるから寝てるんじゃない?」

 ただいま、に次いですぐ発した蛍の言葉に、母は返事をしながら夕食をテーブルに並べ始めた。
 一人分、自分の分だけの夕食が並ぶテーブルを見ながらもう一度同じ質問をしそうになった蛍は不満そうに鼻を鳴らし、二階の部屋へと足早に向かった。
 他の家族は先に夕食を済ませていて、部活後に帰宅した蛍がひとりで夕食を食べることはよくあることだった。けれど帰って来てから ”ずっと” 部屋にいるのであれば、姉のも未だ夕食を食べていないはずだ。それなのに姉の分の夕食を用意しない母を見て、蛍の眉間に寄る皺が深くなった。







 ガチャリと無遠慮に開けられたドアは蛍の自室のものではなく、姉のの部屋だった。予想通りの真っ暗な部屋は、ここだけ切り取られているかのように静かだった。寝返りをうつ音も、寝息も聞こえてはこない。その静けさに、蛍の胸の奥のもやもやとしたものは大きく膨れ上がるばかりだった。
 部屋に足を踏み入れた蛍は、先ほどと変わらず不機嫌そうな声で姉を呼んだ。 

「ねえちゃん」

 起きてるんだろ、そう言いたげな態度で重たい鞄をわざと乱暴に床に置き、部屋の扉を閉めた。けれどからは何の反応もない。
 真っ暗な部屋に目が慣れれば、がベッドにうつ伏せに寝転んでいる姿が浮かび上がった。布団もかけず、倒れたままのような姿勢で少しも動く気配がない。それでも蛍は姉が起きていることを確信していた。寝ているのなら、絶対にこんな状態にはならない、と。
 が着替えもせずに寝てしまうことは多々あった。けれどそんな時でも彼女は必ず布団にもぐりこんでいたし、布団に入ることすらままならない時は決まって電気をつけっ放しにした状態で、部屋のドアも中途半端に開けていることがほとんどだった。しっかりとドアを閉め、電気もつけずに真っ暗な部屋の中で布団にも入らずに出かけたままの格好でベッドの上に倒れている。これは “いつも” のじゃない。
 顔を覗き込めば瞼を下ろしていて、声をかけても返事はない。それでもは起きている。蛍にはそれが分かっていた。

 寝てるふりして、僕が黙って部屋を出て行くのを待ってるってワケ?

 そう考えるだけで蛍は更にいらいらとした。
 それとも、そんなことすら考えていないほど、姉の意識はどこか遠くへ行ってしまっているのだろうか。どちらにせよ、この状況に蛍の機嫌は悪くなるばかりだった。






 今から数時間前の放課後、蛍は教室から部室に向かう途中での携帯に連絡をした。姉の職場の近くにあるケーキ屋のケーキが食べたい、と一言。まだ仕事が終わる時間ではなく、が既に帰宅している可能性はゼロであることが分かっていた蛍は、部活後に家に帰れば当然のように食べたかったケーキが冷蔵庫の中で待ってくれているのだろうと思っていた。
 そうして練習が終わった後、から了承の言葉が届いているのを楽しみに携帯を手にしたものの、予想外に彼の携帯には誰からの連絡も着ていなかった。蛍が送ったメッセージを、は読んですらいないようだった。
 蛍の眉間に深く刻まれた皺に気付いた山口が気遣わし気に声をかけたが、それをうるさいと制し、蛍は画面をじっと見つめた。

 シカトってどういうこと?

 この時間にはもうケーキ屋は閉まっている。あそこのケーキが食べたい、と言えばほぼ必ずは買って帰宅し、蛍はその味を堪能することが出来ていた。今日ももちろんそのつもりでいたのだが、まさかそれが叶わないとは思いもしなかった。しかしそれよりも、たとえ残業になる場合でもは必ず蛍に返事をしていた。仕事が遅くなる、今日は友達と飲みに行く、そのどちらの断りもないことに蛍は違和感を覚えた。

 これで普通に家に帰って来てたらどうしてくれようか

 母親にはもう帰宅しているかと連絡をしてみると、帰ってきている、とすぐに返事があった。夕食は昨晩蛍がテレビを見ながら食べたいと密かに思っていたハンバーグだと添えて。
 食べたかったハンバーグは食べられるのに、食べたかったケーキは食べられない。連絡をしても返事がないのに、は既に帰宅している。
 むくむくと膨らむ気分の悪さに、蛍は帰る準備を早々に済ませいつも着いて来る山口に先に帰ると告げ部室を出た。









「ケーキは?」

 返事がないのを承知で、蛍はもう一度声をかけた。予想通りに、はぴくりとも動かない。枕に顔を押し付けるようなその体制は、苦しくはないのだろうか。
 部室で山口が目にしたものよりも更に深く深く眉間に皺が寄る。蛍はいよいよいらいらが爆発しそうだった。

 起きてるくせに、なんで返事しないんだよ

 蛍はベットに近寄り眼鏡を外し、真ん中より少し左に寄って寝ているの反対側、少しだけ広く空いたベッドのスペースに同じようにうつ伏せに倒れこんだ。
 軋むベッドの音、圧し掛かるようにぶつかった蛍の腕や足に、はようやく声を漏らした。それは蛍が求めている返事ではなく、小さな呻き声だったが、驚いて飛び起きなかったことでが最初から起きていたんだという証明になる。はきっともう少しで口を開く。蛍はそれを期待して、瞼を閉じた。

 子供の頃は二人並んでも、兄の明光と三人で並んでも、ひとつのベッドで寝転がることが出来たはずなのに。気が付けば、並んで眠るには自分の体も兄の体も大きくなりすぎてしまった。兄の明光にも自分にも、は幼い頃と変わらずに接しているのに、いつからだったか、蛍は自分からの隣に並ぶことはなかなか難しくなってしまった。昔はが隣にいてくれることが当たり前で、姉の隣に行くことが嬉しくて仕方なかったというのに。
 どんどん体が大きくなるにつれて、どんどん姉弟の関係が変化していくのも当然のことで、それについて蛍は何ら疑問を感じない。それが成長するということで、当たり前の変化なのだ。
 ただ、いつからだったか、と。久しぶりに自ら姉の横に寝転びながらそう考えていた。

「……けい、いたい」

 いつもうるさいくらいにちょっかいをかけてくるが、煩わしそうな声でようやく一言だけ呟いた。相変わらず体はぴくりとも動かさずに、じっとうつ伏せになったまま。いつも蛍がどんなに毒を吐いても平然としているが、まだ何も毒づいていないのにも関わらず既に覇気がなかった。
 そして蛍が確信している通り、は起きていた。

「けーき、れいぞうこにあるから」

 そうじゃない。
 蛍が不機嫌な理由は、いらいらとしている理由は、そのことではなかった。
 残業じゃないのに連絡が返ってこないこと。それなのにケーキはしっかりと冷蔵庫に入っていること。起きているのに、真っ暗な部屋でベッドに倒れていること。
 そんなを、昔ならこうして隣にくればどうにか笑顔にすることが出来たというのに、今はそれができないということ。

 それなのには僕は、食べたかったケーキを食べることが出来る

「何個?」
「けいがすきなだけ食べな」

 そうじゃない、そう声にしてしまいたかった。
 は蛍がどんどん大きくなっても変わらず隣にいてくれているというのに、反対に蛍自身は大きくなればなるほど、してあげられることがなくなってきてしまったように感じた。

「ご飯は?」
「つかれたから今日はいい。蛍は食べてきなよ、昨日食べたがってたハンバーグだよ」

 昨晩テレビを見ていた時にハンバーグが食べたいと思っていたことを、蛍は口に出してはいなかった。それなのに、一緒にテレビを見ていたは気が付いていたのだ。今日の夕飯がハンバーグなのは、が母親に頼んでくれていたからなのだろう。
 そのことに、蛍の機嫌はまた少し悪くなった。
 ふざけて近寄って来るに対していつも怒る蛍が自ら隣に並んでいるというのに、いつものノリが返ってこない。こうすれば少しでもこの胸につっかえる不満の元凶が消えるのではと思っていたのに、その気配はまるでなかった。
 の顏は、枕に押し付けられたままだ。

 ねぇちゃん、もう一度蛍が口を開きかけた時、の顔がゆっくりと蛍の方に向いた。無表情のまま、瞼を重そうに持ち上げて蛍を瞳に映したはぴくりとも動かさなかった腕を持ち上げて、蛍の柔らかい髪を撫でた。

「ありがと」

 ご飯冷めちゃうから、はやく食べといで。
 それだけ言って、はまた瞼を下ろした。階下では母が蛍を呼ぶ声が聞こえる。蛍は鼻を鳴らすようなため息をついて、の肩に掴まるようにして体を起こしてから、外していた眼鏡をかけた。

「ご飯食べたらケーキ持ってくる」

 がしてくれるようには優しくできない。けれど蛍は慰めるように、の肩を叩くように二度触れ、床に置いた鞄を掴んで隣の自室へと向かった。
 部屋に荷物を置き制服を着替え、わざと開けたままにしたの部屋をちらりと見ながら階段を下りる。
 先ほどよりは少し、不満の種は消えていた。








 ダイニングに戻ってきた蛍を見て母は面白そうに笑った。他人から見ればいつもと変わらない蛍の無表情も、近しい人間が見ればその変化が見て取れた。

「ほんと変わらないわね」

 母の声に、蛍は返事をしなかった。自分でも自覚していて否定する気すら起きない。

「お姉ちゃんに元気がないと、いっつも不機嫌になる」

 食器棚からティーカップをふたつと紅茶の缶を取り出す母親を横目に、蛍はもくもくとハンバーグを口に運んだ。







パチン









 開いたままのドアから誰かが入ってくる気配を感じてすぐに、わざとそうしてるのが分かるような音をたてて電気が点いた。蛍を見送るために、枕に埋めていた顔を横に向けた状態のまま瞼を下ろしていた私は刺さるような白い光に目を縮めた。
 今日はもう何もしたくない、このまま倒れたままでいたかったのに。

「けい、まぶしい」
「ケーキ持ってきてあげたよ」

 ベットの横に腰を下ろした蛍の気配と共に、紅茶の良い香りがした。
 可愛い可愛い蛍にいつもちょっかいを出すのは私の方だけれど、今日ばかりはひとりにしてほしい。下でひとりで食べて来たらいいのにと思いながら、うっすらと目を開けて蛍を見た。
 不機嫌そうな顔をして、ティーカップに口をつけている。
 私は先ほどと同じように重い腕を上げて、ゆるゆると蛍の柔らかい髪を撫でた。

「ちょっと、うざいことしてないでさっさと起きなよ」

 じとりと睨む眼鏡の奥の瞳がいつもよりも弱い。
 思えば、蛍は昔からそうだった。私に元気がないと物凄く不機嫌になる。私はひとりでいたいと思うのに、蛍は絶対に私から離れようとしないし、私よりもよっぽど気分が悪いような態度でいるせいでそれを宥めているうちに自分の元気がなかった理由なんて後回しで、どこかに行ってしまうのだ。
 大人になるにつれて子供の時よりも一緒にいる時間が減って、そして自分の心の浮き沈みも随分と上手く隠せるようになった。蛍がいない間にこうしてひとりでやりきることも、蛍の前で平然としていることも何度もあった。
 だから忘れていたのだ、私が沈んでいると蛍が不機嫌になること、私の傍から離れないということを。

「蛍はずっとかわいいね」
「ハァ?きもいんですけど」

 まさかこんなに大きくなっても、蛍が変わらずにそうしてくれるなんて。私にとって蛍はいつまでも可愛い弟のままだけど、蛍にとっても私はいつまでもお姉ちゃんってことなのかな。
 私はずるずると体を動かし、寝転んだままの態勢でベッドに背中を預ける蛍の横に顔を出した。そこから手を伸ばしてティーカップに手を伸ばし、温かい紅茶に口をつける。

「行儀悪いな、だから豚みたいになるんだよ」
「うるさいなあ、誰のおかげでケーキ食べれると思ってんの」
「僕が食べたいって言ったおかげデショ」
「それ違くない?」

 重たい体を持ち上げながら蛍の隣に腰を下ろせば、私がケーキを食べる態勢に入ったことに少し安心したのか、蛍はトレーに乗ったケーキに手を伸ばした。
 蛍が少しずつ機嫌を元に戻しているのを見ていると、少しずつ私の体の重たさも抜けていく。これじゃあ、私の気分が浮かぶのと蛍の機嫌が良くなるのと、どちらが先なのかわからない。
 表情は変えなくとも、美味しそうにケーキを頬張る蛍を見て、私の口元は自然に微笑んでしまう。

 さっきは、ひとりにしてほしいだなんて思ってごめんね。

 心の中でそう謝りながら、私はじりじりと蛍の傍に近寄って肩を押し付けた。

「チョット、なんなのホントきもいんですけど」
「誰のおかげで美味しいケーキ食べれてると思ってんの〜?」
「だからーーーー」
「今日は久しぶりにお姉ちゃんと一緒に寝よっか?」

 まるで変質者を見るような目を向けてくる蛍に、思わず私は声を出して笑った。




 私の弟は、ほんとうにほんとうに

 かわいいね。







20170609
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