しがみつかせた愛






 放課後、提出日を忘れていたプリントを今日中に出すように言われた私は先に帰る友達を見送り、図書室で空欄を埋めていた。のらりくらりと問題を解き終え先生に渡せた頃には、部活に入っていない生徒はすっかりといなくなり、時折聞こえる運動部の掛け声以外は響かない静かな校舎になっていた。

 友達と寄り道する予定もなくなっちゃったし、体育館の横を通ってバレー部をちらりと覗いてから帰ろうかな。
 まだどこかでお喋りをしているであろう彼女たちに連絡をして合流することもできたけど、なんとなく今日は真っ直ぐ家に帰ろうと思った。
 玄関で靴を履き替え校舎の外に出て、私は体育館へと向かった。グラウンドで練習している運動部の声がよく聞こえる。体育館に近付けば、そんな運動部の声に混じって聞き慣れた彼らの掛け声が響いて来た。




 大きく開け放たれた体育館のドアから中を覗き込むと、珍しいことに今日は一番に岩ちゃんと目が合った。
 手を振って笑顔を向ければ、キリッとした瞳を更に強め、ビシッという効果音が良く似合う挙動で人差し指を向けられてしまった。岩ちゃんが笑顔で手を振り返してくれるだなんて思っていなかったけれど、予想外すぎる反応に揺らしていた手がぴたりと止まる。向けられた人差し指にどんな意味が込められているのかが分からず、威嚇された小動物のように固まっていると、岩ちゃんは私の視界に映る場所にいなかった徹をどこからか引っ張り出し、ぐいぐいと引きずるように歩いて来た。歩いて来る、というより体育館の床を踏みならして来るという表現の方が合っている威圧感を纏って。
 岩ちゃんに怒られるようなことをした記憶はない。けれどあの様子に思わず怯えた私は体育館側から見えないようにとドアから数歩後ずさり、逃げるように壁に隠れた。
 一体何事なんだろう。そもそも徹が引っ張られて来たって事は、徹が何か仕出かしたツケが私に回って来てるんじゃないの、なんて理由を考えることができたのもほんの数秒で、あっという間に徹を引きずっている岩ちゃんが目の前に現れた。

 なんて声をかけようかと口をまごつかせていると、岩ちゃんは私が肩にかけていた鞄を掴み、代わりに連れてきた徹を押し付けた。抱きつくような体勢で押し付けられた徹に驚きながらも抱きとめると、私はようやく違和感に気が付いた。いつもうるさい徹が一言も発さずに俯いたままで、まだ一度も、その表情を見ることも、名前を呼んでもらうこともしていないのだ。
 いつもなら一番に私に気付いて声をかけてくれるのは徹なのに。

「10分だぞ!」

 怒号を飛ばしながら、岩ちゃんは徹の頭を鷲掴み更に私に押しつけた。掴んでいる掌に力を入れられているらしく、小さく呻く徹の声が私の首筋で響いた。
 10分。やっと意味を拾えたものは、たったそれだけだった。それも私にではなく徹に向けられた言葉。彼等は私を見つけたからこそ、ここまで来ているはずなのに、私に対してまだ一言も言葉をかけてはくれない。
 戸惑う私にお構いなしの岩ちゃんは徹を私に押し付けるだけ押し付けて、チームメイトに声をかけながら体育館へとすぐに戻ってしまった。

 特に今が休憩時間というわけでもないらしい。それなのに主将である彼は副主将に引きずられ、そして私に押し付けられている。状況がまったく飲み込めずに押し付けられた大きな男をただ支えて立ち尽くしていると、それまでされるがままにされていた徹が自分の意思で私を抱きしめ、熱く汗ばんだ額を私の首筋に擦りよせた。
 それはまるで、不貞腐れた子どもが縋るような、やるせないことや悔しさを必死に押し込めているような、そんな風だった。
 何があったのかも、どうして岩ちゃんに引きずられてきたのかも何もわからないけれど、徹の汗ばんだ体温がじわりじわりと私に沁み込むのと一緒に、彼の抱えている形の見えない感情も届いてくるような気がした。
 ──────重たく、輪郭の見えない何かが。

「岩ちゃんのアホ」

 ようやく発せられた低く呻くようなその言葉に含まれている感情が、岩ちゃんに向けられているわけじゃないことくらいは分かる。けれどきっと、徹は何を堪えているのかも、何を考えているのかも、きっと私には教えてくれない。岩ちゃんが何も言わずに徹を私に押し付けたのもそのせいだ。何も説明しないくせに、こうやって私を利用するんだからふたりとも良い性格をしている。
 それなのに嫌な気持ちになるどころか、必要とされていることに悔しくも喜んでしまう。私には踏み込めない彼等の戦いの部分に、ほんの少しでも触れることが出来ている気がして。
 ふたりの力に私もなれているのだ、と。

「どうしたの?」

 返事なんて期待していない。
 徹もきっと口を開かない。ただ、彼の抱えている何かが、苦しくなるほど留まってしまわないように、と目の前にある柔らかい髪を撫でた。

 徹の熱と汗の香りがふわりと舞う。

 汗をかいた額を遠慮なしに首筋に擦り付けてくる徹に、私は苦笑いを漏らした。
 小さな子どもならまだしも、身長180を越えた男が縋ってくるのを支えて立つのはなかなかに体力を消耗する。けれど徹は飽きる様子もなく、ぎゅうぎゅうと抱きしめ、ひたすらに額を擦り付けてくる。
 お礼としてお昼のデザートを1週間分奢らせなきゃ、と思いながら大きな背中を撫でて耐えていると、一際強く抱き締められ、一瞬息が詰まった。
 それが合図だったのか、徹は私の首筋から顔を上げた。

 ぐしゃぐしゃの前髪に、赤くなった額。熱がこもって火照った頬が赤くなっている。
 俯いていた徹がどんな顔をしてここに来たのかは分からないけれど、無防備なその顔にはくぐもった何かを今も押し込めているようには見えなかった。
 大きな瞳を潤ませて、徹は私に顔を寄せたまま動かなかった。

「かっこよくして」

 先ほどの低い声からは考えられないほどの、いつもの間抜けな声を出した徹に私は吹き出した。間抜け、なんて言ったら怒られそうだけど。

「汗でべたべただよ」
「汗もしたたる良い男ってやつね」
「徹のせいで私も汗したたっちゃってるんですけど」
「良い女だよ、お前は」

 いつも通りになるように髪を直してあげていると、ふいに真面目な顔をして徹はそう言った。

 それはまるで────────私に何も言わないことへのごめんねとありがとうに聞こえて、胸の奥がじんとした。

 徹も岩ちゃんも私に何も話さず、私も彼らにどんな言葉をかけるのが良いのか分からず何も言えない。だけど私たちは、これで良いのだということだけはお互いにしっかりと分かっている。

 私たちにとっては、これが最善で、最全なのだ。

 徹の言葉に返事をするように、一際優しく髪を撫でれば、そのまま導かれるように唇を寄せてくる徹に、私は思わず瞼を下ろしてしまった。

「10分って言ってんだろがゴラァ!テメーで時間計って戻って来い!」

 再び響いた怒号に体をビクリと揺らし目を開けば、律儀にも唇が触れる数センチ手前のところで徹の顔が止まっていた。慌てて体を押し返せば、先程とはまた違う怒りをたたえた岩ちゃんがこちらを睨んでいた。
 こんなところでキスしそうになってたのはもちろん問題だけど、でもそもそも先に抱きつかせて来たのは岩ちゃんだから!私は悪くないから!怒るなら徹を怒って、と目で訴えると、徹は私とは違う方向で岩ちゃんに訴えを起こした。
 もうすっかり元通りなんだと分かるなんとも間抜けな訴えに、肩の力がすっと抜けた。

「空気読んでよ岩ちゃん!キス待ちしてたじゃん!」
「うるっせぇな、さっさと戻れ!」

 いつものテンションで騒ぐ徹に怒鳴り、岩ちゃんは先程と同じ様に徹の後頭部を鷲掴んだ。そして掴んだ顔をそのまま私に押し付け、私と徹の唇を無理矢理ひっつけてから再び引きずる様にして徹を体育館へと引っ張って行った。
 あまりのことに、岩ちゃんの前でキスをしただなんて恥ずかしがる気持ちはひっつも浮かんでこない口付けに唖然とした。

「ちょっとマジで乙女心分かってなさすぎ!だから彼女できないんだよ!」
「うるせェ!お前が乙女なだけだろ!」
「ハァ!?ちっがうから!」

 私を一人取り残して、ギャアギャアと騒ぐ声が体育館へと吸い込まれていく。あのふたり、本当になんなんだろう。

 壁に背をつけながら、私はゆっくりと息を吐いた。
 体育館に戻る直前、声には出さず口の動きだけで「ありがとな」と言って笑った岩ちゃんを、徹に見せてやりたい。最後の最後に私の心を動揺させたのは、あの笑顔だよ。
 乙女心がぐらぐらするのは、ああいうのなんだよ、徹。

「おっ、なんかときめいてる顔してる。誰にやられた」

 用事があったのか制服を着たままのまっつんが近づいて来て、面白そうに笑った。

「岩ちゃん」

 熱を放出する様にそう呟けば、まっつんの眠たそうな瞼がぐいっと持ち上がった。

「やるじゃんお前、浮気か!その話、部活終わったら聞かせろよ」
「え?やだよもう帰るから」
「鞄あそこにあんのに?」
「えっ」

 まっつんの指差した先にある体育館の隅に置かれた明らかにバレー部のものではない不自然な鞄。徹を押し付けられてすっかり忘れていたけれど、そういえば鞄の代わりに徹を持たされていたんだった。
 どうして体育館の中まで持ってっちゃったんだろう、岩ちゃん。

「あれ人質だろ」
「人質っていうか…」
「ほら、お小遣いやるから好きなジュース買って待ってなさい」

 100円玉を握らせて自販機がある方向へと背中を押してくるまっつんに、私はしぶしぶ歩き出した。後ろでは「部活が終わったらの浮気話聞けるぞ〜」と意気揚々と体育館に入ったまっつんが徹を叫ばせていた。





 どれほど大きな想いを抱え込んでいるのか私にはいつも分からないままだけれど、徹が元気になってくれたなら、それでいいの。ふたりと同じ景色が見れたらと寂しく思う時ももちろんあるけど、ふたりと一緒に、私には私にしか見えない景色が見えているんだって思うから。
 数分前まで身体中にじわじわと伝わってきていたくぐもった熱を思い出して少し切なくなりながら、体育館でまた白い情熱を追いかけているであろう徹にエールを送った。

 がんばってね、徹。








20180720
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