猫かぶり







 クロの部屋でベッドに背中を預けて座っていると、自分の読んでいる漫画が読み終わったらしいクロの腕がするりと私の腰に巻き付いた。何だか恥ずかしくて気付かないふりをして漫画を読み続けていると、横でクロが笑った気配がした。きっと私が気付かないふりをしていることがクロにバレたんだろう。そのことに余計恥ずかしくなりながら、頭に入ってこないせいで3回目になるセリフを読んだところで、大きな手が私の腰をぐっと引き寄せた。
 傾く体に、クロの吐息が耳にかかる。

「なぁ、けん─────」

 けれど耳元で囁かれたその言葉に、私は持っていた漫画を思い切りクロの頭にたたきつけた。研磨から借りてる漫画だけど、嫌な音がしてページが折れた手ごたえを感じてしまったけれど、弁償ならクロにしてもらってほしい。

「痛゛ってェ!!」
「またなの!?」
「っちょ、お前、もうちょっと加減……!」
「今、研磨って言ったよね!?」

 あろうことか、この甘い雰囲気で!!
 信じられない、と思いながら大きな声を出せば、部屋の外まで聞こえていたらしく名前を呼ばれた本人である研磨がドアを開け、軽蔑の眼差しで立っていた。

「クロ、ほんとキモいからやめて」

 研磨の手にあったのは私たちが読んでいた漫画の続きだった。それを部屋の入口に置いて、研磨はいつものように中に入って来ようとはしなかった。クロに対してドン引きしている気持ちを身体で表しているようだった。

「いやいやいや、けん子とか呼んだわけじゃねーし、可愛いもんだろ?」

 不意打ちに相当こたえたらしいクロは、涙目になりながら頭を押さえていた。不利な状況から抜け出そうと弁解しているけれど、むしろこれなら他の女の名前を呼ばれた方がマシなんじゃないかと思ってしまう。
 クロが間違って研磨の名前を呼んでしまうのは、もうこれで何度目になるのか分からないのだ。

「こないだ寝てる時も研磨って言って私のこと抱きしめたんだけど」
「え、うそマジ?」
「オレもう吐きそうなんだけど」
「待て待て吐くなよそこで!」

 クロの部屋に向かって前かがみになる研磨にクロは苦笑いをしているけれど、冗談じゃない。
 私は今、本気で怒っている。
 最初こそ冗談のように感じて、むしろ今もこんなバカみたいなことでと思う。だけど私はこのバカみたいなことに本気で怒りを感じているのだ。
 クロと研磨の間におかしな関係があるなんてこれっぽっちも思ってないし、そんなわけがあるはずもないことも分かってる。でもだからと言って、こう何度も恋人に他の人間の名前を呼ばれるのは気分が良いものではないのだ。知らない女の名前ではなく、クロが大事に思っている友人の名前だからこそ、余計に。

「……あれ、なんかマジで怒ってる?」
「今までマジじゃないとでも思ってたの?」
「そういうわけじゃねーけど」
「今までふざけて研磨の名前呼んでたの?」
「んなわけねーだろ」
「じゃあ本気で心の底から研磨のことを呼んでたのね?」
「そういうことじゃねーって」

 私が本気で怒っていることに気付いたらしいクロは、どうにか私のご機嫌をとろうと再び腰に腕を回して来た。けれどそれが余計に私の神経を逆撫でしていることに気付いていないのだ。そしてこんなバカみたいなことに、私が“機嫌を悪くしている”程度ではなく本気で怒っているということにも、全然気付いていない。

「なぁ、機嫌直せって。先生のことかーちゃんって呼んじゃうみたいなアレよ、これは」
「……」
「かーちゃんって呼んじゃう奴も別にマザコンだから呼んじゃうワケじゃないだろ?だから研磨にヤキモチ妬いたって」
「妬いてないんですけど?」

 クロの腕を振り払って、私は自分の鞄を引き寄せた。
 いつもはなんだかんだ許してたけど、もう限界。このまま部屋にいたってクロに対してむかむかするだけだし、私が本当に怒ってるんだってことをクロに分からせてやりたい。
 いつの間にかいなくなってる研磨は、きっとゲームをしながら帰ってるだろうからすぐに追いつくはずだ。研磨にグチでもこぼしながら帰ろう、と立ち上がり部屋を出ていこうとすれば、クロの大きな手が私の腕を掴んだ。
 行かせまいと力を強められたけれど、私はこの手を一瞬で離させる言葉を知っている。

「離して。追いかけて来たら本当にクロのこと嫌いになる」

 その一言で素直にパッと手を離すんだから、許してしまいそうになる。

 




「研磨!」
「クロのこと置いて来たの?」
「うん」
「泣いて追いかけて来て余計うざいことになるよ」
「追いかけて来たら嫌いになるからって言ったら素直に動かなくなったから平気」
「あーあ、クロ泣いてるよ」
「あのクロが?」

 呼び止めても私が隣に並んでも顔を上げずにゲームをし続ける研磨に、いつか怪我をしちゃうんじゃないかと心配になっていると、ボタンを押す研磨の手が止まった。

はクロのことかいかぶりすぎ」
「え?」
「クロは今ひとり残されて超へこんでるし、めそめそ泣いてるよ」

 あの飄々とした、黒尾鉄朗が?そんな姿、私じゃなくても想像出来る人がいるとは思えない。

「それだけクロはバカってこと」
「研磨バカには負けるけど」
「あれはほんとキモイからやめてほしい……」

 思い出してげんなりしたらしい研磨は、溜め息を吐いた。だけど、溜め息を吐きたいのは私の方だ。

「部屋でめそめそしてるクロなんて想像つかないけど、それなら呼び間違えるのやめてほしい」
「それはオレも心の底から思ってる」
「研磨がクロと仲良しすぎなんだよ」
「そんなんじゃないけど」
「じゃあなんでリエーフじゃなくて研磨って言われるの毎回!」
「なんでそこでリエーフ」
「なんか部活中1番名前呼ばれてそうだから」
「よく呼ぶから間違えてるとかじゃないと思うけど」
「じゃあなんで?研磨のことが大好きだから!?」
「いや……ほんとクロさいあく」

 お互い仲が良いからこそ否定が出来ず、かと言ってクロが研磨の名前を呼んでしまうことに変な意識はないのだ。だから研磨もクロも上手い説明が出来なくて私を説得できない。弁解するとすれば、さっきクロが言っていたマザコンだから先生をかーちゃんと呼んでしまうわけじゃない理論が一番近いんだと思う。
 けれどそれで私の怒りがおさまるなら苦労はしない。

ほんとに怒ってるね」
「怒ってるよ。一度や二度じゃないんだから」
「でもが怒るような理由は何もないよ」
「分かってるよ!でもムカつくものはムカつくの」
「……」
「てか研磨、どこ行くの?家帰るんじゃないの?」
「ん……」

 ゲーム機を片手で持ったまま、今度はポケットからスマホを出して操作し始めた研磨を見て私は眉を寄せた。何度か注意したことはあるけど、一人で歩いている時もいつもこの調子なんだったら本当にいつか事故に遭いかねない。

「研磨、歩きながらゲームしたりスマホするの危ないよ」
「うん」
「も〜、そんなんだったら一人で帰るの禁止にするよ!」
「“は研磨のこと心配しすぎだ”」
「え?」
「ってクロが前に拗ねてた」
「それはクロにそのままお返ししたいんだけど」
「オレはどっちにもお返ししたい」

 オレは画面しか見えてないわけじゃないから、と言う研磨に、ゲームしてる時に声かけても気付かないじゃんと返せば返事がなかった。
 まさかそれって気づいててわざとシカトされてるってことじゃないよね?

「二人とも過保護すぎ」
「過保護って言うか研磨が心配かけるから」
「そのセリフが過保護の証拠」
「え、ええ〜……ていうか」

 クロの家を出てすぐ追いついた研磨が、自分の家の方向に進んでいないなと思いながらついて行けば、まさかまたクロの家まで連れ戻されていた。

「ここ研磨の家じゃなくてクロの家だよ」

 そう言えば、研磨は無言でスマホの画面を私に見せた。そこには「オレのお姫様、ちゃんと家まで送り届けてあげてね」というクロからのメッセージが表示されていた。

「クロってちょっとキモイよね」
「だいぶキモイよ」

 冗談じゃなくて、クロはこういうことを真面目に言ってしまうのだ。あんなイカつい不良みたいで女慣れしてそうな風貌で、冗談ではなくて本気で。冗談で言えば可愛いものを本気で言ってくるから気持ちが悪い。だけど私の顔は笑っていて、そんなクロのことも私のことも分かり切っている研磨は溜め息を吐いている。

「やっぱり、研磨が仲良しすぎるのが悪いんだと思う」
と?」
「クロと」
「クロはが研磨と仲良くしすぎだって拗ねてた」
「黒尾鉄朗、自分のこと棚に上げて拗ねすぎでしょ!」
「だからはクロのことかいかぶりすぎなんだって」

 じゃあねオヒメサマ、と私の背中を黒尾家の敷地に向けてポンと押して、王子様のような金髪(プリン)をした研磨は背を向けてしまった。

はきっと、ほんとのクロを知ったらもっと好きになるよ」

 そんなセリフを残す研磨に、そうやってクロのことを知り尽くしているような、私の気持ちを分かり切ってるような、そういうことを言うからクロからも私からも仲良すぎって言われるんでしょう、と思った。
 そしてきっと研磨の言うことは間違いじゃないのだ。





 連れ戻されてしまったからには、めそめそしているらしいクロの所に戻らなきゃいけない。
 仕方ない、と思いながらクロの部屋に戻れば、クロは床に座ってベッドに顔を押し付けていた。そんなあからさまに不貞腐れた姿をしていると大きい身体が小さく見える、わけもなく、大きな背中が部屋の中で存在感を放ちながら哀愁を漂わせているのは不思議な光景だった。本人はしょんぼりしているつもりでも、がっちりとした背中には中々その様子が見て取れない。
 私が部屋に入ってきたことも全部気付いてるくせに、どうやら今度はクロが気付かないふりをしているらしい。
 私は鞄を置いて、クロの後ろに座って大きな背中に頬をつけた。そして背中をさすりながら「泣かないで研磨」と小さな声で呟いた。

「わっ────痛た」

 するとクロは勢い良く身体を起こし、その反動で私は後ろに倒れて床に頭を打ち付けた。まさかそんな大袈裟な反応が返って来るとは思わず、後ろにテーブルがあったらどうなってただろうと恐怖で心臓が震えた。
 ほんの仕返しのつもりで言っただけなのに、こんなに反応されるとは思ってもいなかった。少しでも私の気持ちがクロにも伝わればいいと思っていただけなのに、クロは予想以上の反応をしていた。
 仰向けに倒れた私の上に覆いかぶさるクロは心底イラついた顔をしていて、その瞳はギラギラと燃えているようだった。クロが「研磨」と呼び間違えた時の私の怒りとは全然違う。
 ヤキモチ妬くなよなんて言いながら、研磨にヤキモチ妬いているのはクロの方だ。

、それもう絶対やるなよ」
「……はい、ごめんなさい」

 低い声に、私の唇は緊張で震えながら声を吐き出した。
 おかしい。怒ってたのは私の方だし、散々呼び間違えていたのはクロの方なのに、そんなクロを許してあげようと思って戻って来たはずなのに。なのにどうして私がクロに責められて、クロに謝っているんだろう。さっきのは言い間違えたわけじゃなくてわざと言ったんだってこと、クロも分かってるはずなのに。
 後ろにテーブルがなくて良かったという恐怖から、本気で怒っているクロに対する恐怖に変わって息を飲んでいると、クロが私を抱き上げるようにして抱きしめた。

「ごめん」

 胸に顔を押し付けられる瞬間に見えたクロの顔は、さっきまでの鋭い瞳が嘘見たいなほど寂しそうな顔をしていて、謝る声の弱弱しさに私の胸がじんと熱くなった。
 私がクロをかいかぶってるんじゃなくて、クロが私にかっこつけたがってるだけなんだよ、きっと。
 そんなことしなくても良いのにと思いながら、かっこつけようとするクロも、かっこつけて隠さなきゃいけないような情けない本音も、そのどちらも愛しいと思った。

「わたしも、ごめんね」

 クロの大きな背中に腕を回して返事をしながら、本当に研磨の言う通りだなと思った。

 わたしはまだまだもっと、クロのことを好きになる。






* * *







!もう休憩終わったぞ!コートでろ!」

「おぉ、ナイストス!」

 夜久くんから「まじでいますぐこい」という、平仮名だらけで一見ゆるく見えるメッセージから並々ならぬ威圧感を感じた私は、もう学校を出て数分歩いたところだったというのに、小走りで体育館まで戻った。
 そして体育館に戻った私は、夜久くんにその理由を聞くまでもなく呼び出された意味を理解した。
 昨日会ったばかりだというのに、研磨はいつの間に“”に改名をしたんだろう。そしてクロには、と呼ばれる度に研磨が心底吐きそうな顔をしているのが見えないのだろうか。
 足元に転がったボールを拾う気にもなれずに呆然としていると、リエーフが私に掴みかかる勢いで飛んできた。

さんっ!あれどうなってんスか!」
「私が聞きたいんだけど」

 というか研磨だけじゃない。部員全員が何とも言えない表情で練習をしている。部長が部の空気を乱してどうするつもりなんだろう。意味が分からない状況に、私は照れることすらできなかった。
 そもそも、これが照れるべき状況なのかも不明だ。

「オレあれだと全然集中できないんスけど……!」
「それはリエーフだけじゃないと思う」

 これは私が謝るべきなのかなんなのか……と思っていると私に気付いた夜久くんが物凄い顔をしながら、まるで親指で首を切るようにクロを指すものだから、私が謝らなくてはならないことなのだと認識させられてしまった。

「リエーフごめんね、ちょっとクロ呼んできてくれるかな」
「っス!」

 そうして呼び出されたクロは飄々としていて、私に対する気まずさを少しも見せなかった。自分のバカみたいな発言が私に聞かれていないとでも思っているのか、それとも聞かれていても問題がないと思っているのか、どちらにせよクロがあまりにも平然としているせいで余計に困惑してしまう。
 部を乱している当の本人よりも、私の方がよっぽど気まずい思いをしているなんておかしい。みんなの期待の期待や怒りや呆れの眼差しを受け止めるのがつらい。

「あれ、帰ったんじゃねーの」
「ねえ、何してんの?」
「いや〜歯科矯正的な?」
「的な?じゃないから!恥ずかしいからやめてよ!みんな集中出来てないじゃん!」
「あんなんで集中乱れるとか逆に鍛えれていいだろ」
「こんなバカみたいな鍛え方ないから!」
「なんだよ照れるなって」
「照れてんじゃないから!」

 やめてよ、と叫んだところで監督が現れ、監督の前では流石に止めるだろうと思えば早速「おい、勝手にゲームはじめんな」と研磨に向かって声をかけるクロに私は息が止まった。そしてそのまましれっとコートに戻ったクロを見て、そこまでふざけたいなら監督に怒られてしまえ!と恥を忍んで監督に告げ口しに行けば、それで集中が切れるなんてまだまだだと笑われてしまった。笑い事じゃないです!と必死になる私を愉快そうに見て、それじゃあ連帯責任だと言って監督は部室に届いている備品をしまっておいてくれと私を体育館から送り出した。
 クロはお咎めなしなのになんで私だけ!?と内心で叫びながらも、ここでクロのバカみたいな発言を聞き続けるのも、夜久くんの鋭い眼差しを受け止めるのも耐えられなかった私は逃げるように走り出して叫んだ。

「も〜〜〜クロきもい!!」



 また「研磨」と呼び間違えられてもいいから、今日限りであのキモチワルイ矯正を止めさせようと誓って私は部室に向かった。








20180617
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