猫の舌







 お昼休み、私は人気のない校舎の階段にひとり座り込んでいた。
 友達とお弁当を食べ終え、ひとりで教室を抜けて自動販売機で紙パックのイチゴオレを買ってからここに来れば、お尻にひんやりと伝わる階段の冷たさが落ちつくようで、遠くに響く生徒の喧騒にあまり落ちつけなかった。これならまだ教室で寝たふりをして喧騒に包まれていた方が良かったかもしれない。
 紙パックにストローを刺して一口すすった後に溜息をひとつ吐いて、私は壁に体を預けた。
 壁もひんやりと冷たい。このまま喧騒が聞こえなくなるまで、授業が始まってもここにいれば少しは落ち着くだろうか。
 瞼を下ろしながら、私はそんなことを考えていた。

「お前なにやってんの?」

 ふいに聞こえた声に、私は驚いて瞼を持ち上げた。誰かが階段を上る足音も聞こえず、びくりと反応してしまった体に恥ずかしさを感じつつも、それよりも今ひとりでこんな場所にいる所を見られてしまったことの方が恥ずかしかった。
 この階段の先には資料室や準備室ばかりが並んでいて、先生に頼まれなければ滅多に生徒が通らない場所なのに。どうしてここにいるの、クロ。
 階段の真ん中辺りに座っているせいで、いつもとは反対に私がクロを見下ろして、クロが私を見上げていた。

「クロこそ、どうしたの」
「俺は散歩?」
「さんぽ?」

 こんな誰もいない、何もない場所を散歩して何が楽しいんだろう。そもそも散歩なんてする性格だったんだ、と不思議に思った。散歩をする暇があれば、研磨くんを連れてバレーをしていそうなのに。彼はゲームに夢中で、断られたのかな。
 腑に落ちないクロの行動のせいで冷や汗をかいた、と思いながらストローに口をつければ「で」と催促をしながらクロは階段を上って来た。
 せっかく私が珍しくクロを見下ろしていたのに、あっという間にいつも通りクロに見下ろされてしまった。

「お前はここで何してんの?」
「別になにもー」
「こんなところで一人でいて寂しい奴ですねー」
「まあね」

 散歩だと言うクロは、そのまま階段を上り行ってしまうのだと思ったのに何故か私が座っている数段下で立ち止まった。
 そして、ニヤリと笑った。
 クロにこの顔をされると、何だか全てを見抜かれているような気分になるから嫌だ。それにたいてい、本当に見抜かれているのがもっと嫌、というより困惑してしまう自分自身が嫌だった。クロに見抜かれるのは嫌じゃない、そんな風に思ってしまう自分の気持ちをどうにも出来ないことが嫌なのだ。

「お前元気ないだろ?」
「……まあね」

 ほらね、見抜かれている。
 どうしてクロはそうやって私のことを見抜けてしまうんだろう。私だけなのか、それとも誰のことも同じように見抜けてしまうのか。もし誰のことも見抜けてしまうのなら、もう私のことだけは見抜くことを止めて欲しい。僅かな期待を抱いてしまう自分が嫌だったし、いつかそれすら見抜かれてしまうのがこわい。
 クロは私の目の前に移動して、しゃがんで目線を合わせた。

「元気出させてやろーか」

 先程よりも少し悪い顔で、クロはニヤリと笑った。
 元気付けてくれるのは嬉しいけど、何をしてくれると言うのだろう。疑問に思い僅かに首を傾げながらも、私は素直に返事をした。
 何か面白い話でも聞かせてくれるのだろうか。

「出来るならどーぞ」
「おーし」

 そう言って、クロは私の体の両端に手をつき身を乗り出した。


 近付いたのは体だけじゃない、覗き込むように寄せられた顔に硬直していると笑っていたクロの瞳がすっと細められた。
 まるで猫が獲物を見つけた瞬間、狙いを定めたその瞬間のように。

 そしてクロは、私の唇をべろりと舐めた。

 猫の舌のそれとは違う、なまあたたかく、やわらかく、ざらついていないのに唇に吸いつくような確かな違和感を残す感触。
 唇全体を覆うように大きくべろりと舐められたせいで、舌が離れた今もしっかりと唇に水分を感じるほどだった。


 されたことの意味に頭が追いつかないでいると、顔を離したクロが目を細めて笑った。その顔を見て、弾けたように私の口から声が漏れた。じわじわと、体中の血液が沸騰して行く。

「っな、ななななな」
「元気でたろ?」
「な、にしてんの!?」
「お前が元気出させて欲しいっつーから」
「今のどこが元気付け!?」
「え?元気でない?俺これやられたらチョー元気でるけど」

 顔を離したものの、私の両脇に手を置いたまま動かないクロのせいで相変わらず距離が近かった。私は反射的に体を逸らして距離を取るものの、背中に階段が当たって左程距離は変わらない。
 沸騰した血液が心臓を千切ってしまいそうなほどに、痛い。
 この状況にも、クロの気持ちにも、意味が分からなくて逃げ出してしまいたかった。
 クロが女の子にこんなことをされて嬉しいかどうかなんて、私は知らない。そんなこと、知りたくない。私は付き合ってもいない男の子にこんなことをされても嬉しくなんかない。元気なんて出ない。

 だけど、クロにされたら、クロだったら……。

 握りしめてしまった紙パックからイチゴオレが零れ、スカートに薄ピンク色の染みが出来た。

「付き合ってもいないのに、こんなこと……」

 本当は嫌じゃなかった。だけどそれを素直に口に出せるわけもなく、非難めいた視線をクロに送ればクロはなんでもないという風な表情で私を見た。

「でもお前、逃げなかっただろ」
「だって、逃げる暇なんて」

 なかった、と言うように私は背中に当たる階段に一層体重を預けた。これ以上の距離は取れない、と示すように。

「いーや、あった。顔近付けてから俺はちょっと待ったんだからな。それでも逃げなかったんだから、お前に文句を言う資格はない」
「……」

 にやにやと笑うクロに、私は開けかけた口をすぼめた。
 逃げなかった私が悪かったの?逃げれば、クロはこんなことをしなかった?そもそも私は、背後が階段じゃなかったとして──────────逃げようとした?
 何も、何も言い返せなかった。

「だろ?」

 ニヤリと、何もかもお見通しなその顔。クロばかりが何でもお見通しで、私にはクロのことが分からない。
 クロは、私が逃げ出さないのを分かっていたからこんなことをしたの?逃げない私を、どう思ったの?
 私にもひとつくらい、見抜かせてよ。答えを教えてよ。

「ところでさん。付き合ってる相手ならこういう励まし方はアリなわけ?」
「……クロが、誰にやられてもチョー元気でるわけじゃなければね」

 目を細める彼は、とてもずるい。

「そりゃーもちろん」

 クロは私の手を包むように触れ、紙パックのイチゴオレを奪った。
 そのまま体を離し立ち上がったクロは私に背中を向け階段を下りていく。

「お前だけだよ」

 階段を降り切ったクロは、降り向いて舌で舐めるようにストローを咥えた。

「俺が元気ないときはお前がこれしろよー」

 そう言い残し行ってしまったクロの姿が見えなくなった瞬間、私は慌てて声を上げた。

「どっ、どこ行くの!?」
「研磨とバレーする約束して待たせてるから行ってくる」

 戻って来る気配もなく、呑気な声だけが私の耳に届いた。
 あんなことをして、イチゴオレを奪って、あっさりと行ってしまうなんて。





 私は顔を伏せて呻いた。

「散歩してたんじゃないの……」

 ちろりと覗いた赤い舌が、瞳に焼きついて離れない。
 湿っていた唇が渇きだして心地悪いのに、拭ってしまいたくてもそれが出来ない。

 クロの変態。
 そう心の中で呟いてみても、逃げ出すこともせずに全て嬉しかった自分も同罪だ。
 力が出なくてここに来たのに、やっぱり私は授業が始まってもここから動けなさそうだった。今は遠くに聞こえる喧騒なんてどうでもいい。ひやりと冷たい床や壁がただ心地良かった。
 心地悪い唇が、これでもかというほどに心地良かった。

 あぁ、早く仕返しをしてやりたい。








20140601
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