ベイビーフィッシュの雫







 水風呂の中に頭まで浸かっていると、こぽこぽと柔らかく緩やかな水の音を割くような音が遠くから聞こえた。
 裏口の戸が慌てたように閉められた音だ。






 水から耳までを外に出せば、水音に包まれ鈍く響いていた音が急にクリアになる。遠くで響いていた音は段々と近付いて来ていた。バタバタと、廊下を走る音。

 あの足音は真琴じゃない。

 風呂の栓を抜き、俺は水の量を減らした。そして栓がある方に体を移動させ、風呂の扉が開くのをじっと待った。すぐに磨りガラスには人影が映り、手早く服を脱ぎ着替えている姿が見えている。俺はドアから目を離し、静かに瞼を下ろした。
 水かさは順調に減っている。




 扉が開いたのを合図に再び栓を止め、今度は熱湯を風呂に注いだ。じゃぼじゃぼと急かされるように浴槽から流れて行った水の代わりに、今度はじゃぼじゃぼと熱い湯が浴槽を満たしていく。熱湯に身体が触れないよう少しずれながら、早く浴槽が温かくなるよう水を手で軽くかき混ぜた。

 声もかけず躊躇うこともなく、扉をいきなり開けたのはだった。

 足音を聞いた時からそれが分かっていた俺は特別驚くこともなく、ただ静かにの表情を見つめた。今にも泣き出しそうな顔をしている。彼女も俺と同じように水着を着ていて、無言のままで未だ水位の低い浴槽へと体を沈めた。

 家の扉を開ける勢いも風呂場のドアを開ける勢いも良かったのに反して、浴槽に身体を沈める時はいつもひどくゆっくりとしていた。
 まるで怯えているように。
 は勢い良く俺の家に訪れるくせに、最後のこの一歩になって俺に拒絶をされるのではないかとどこかで怯えているのだ。彼女を受け入れなかったことなど、今まで一度もないというのに。
 はそれに気付かないままだ。
 それが少し信用がないようで寂しいと思うのに、それでもこうして訪れる彼女を可愛いくも思う。
 俺の向かいで体育座りをして体を縮め、腕に埋めるように顔を伏せた彼女に手を伸ばし、髪に触れた。

 “おじゃまします” も “いらっしゃい” もない。静かな浴室には水の音だけが響いていた。
 水を一気に流したせいで、二人で入っていても水かさは腹部までにしか届いていなかった。そのおかけで、下ろしたままのの髪は未だ濡れることなく、ただただ彼女の表情を隠していた。

「髪が濡れるぞ」

 そう声をかけても、は声を発せず首を横に振るだけだった。
 “濡れてもいい”のか、もしくは“濡れない”という意味なのか。どちらともとれない返事に、もともと返事を期待していたわけではない俺はフックにひっかけてあったヘアゴムを取りの髪を勝手に結った。ひとつにまとめて、ゴムをそっと離す。髪が上手く結えたことを確認するように見せかけて、ひとつだけ彼女の頭を撫ぜる。
 伏せている顔を隠すように流れる髪を集めれば、腕の隙間から少しだけ表情が見えた。何かを押しこめるように、瞼がしっかりと閉じられている。

 いつからかがこうして突然水風呂に飛び込んでくるようになってから、俺の家の風呂にはこのためのヘアゴムが用意されるようになった。
 けれどはいつもこうして無言で水風呂に飛び込む訳ではない。
 たまに、の中で "何か" が耐えられなくなった時にだけ、こういうことが起きる。何かをぽつりぽつりと話すこともあれば、何も言わない時もある。
 水音だけが響いている今日は、何も話したくないということなのだろう。




 熱湯が風呂の温度をぬるく上げていく。
 俺はの肩にあたたかくなってきたお湯をかけた。が来ると水風呂を止め、温度を上げる理由はひとつだ。

 ここにいるの肩は、いつも震えているように見える。

 実際に泣いていて肩が震えている時もある。けれど、いつも泣いているわけではない。ただじっと膝を抱えて俺と一緒に湯に浸かっていることの方が多い。それでも、俺には震えているが見えるのだ。
 俺の掌の体温とお湯のあたたかさでの震える肩があたたまるように、そう思いながら撫でるようにお湯をかけた。はそれを、ただじっと体を縮めたままで受けている。

 少しでも、があたたまるように。
 少しでも、撫でる肩から滑るように“何か”が水に溶けて消えてしまうように。 


 水風呂だった湯船は今はもう完璧に風呂と呼べるほどの温度に変わり、水かさも俺がの肩に湯をかけずとも浸かれるほどになっていた。風呂場に、もくもくと湯気が立ち上がっている。水風呂に浸かっていた俺の体も今はもうしっかりとあたたまっていた。
 きっと、も同じはずだ。

 そろそろだ。

 そう思った時に、再び裏口の戸が開いた音がした。
 静かに廊下を歩く音、けれどしっかりと重みのある足音は真琴のものだ。

 脱衣所にある引き出しが開く音がしてから開いた扉の先には、予想通りタオルを手にした真琴が立っていた。

「ずっと入ってたらしわしわのおばあちゃんになっちゃうよ」
「俺は男だ」
「ハルじゃなくてに言ったの。ハルもおじいちゃんになっちゃうから、もう上がりなよ」
「俺はまだおじいちゃんにはならない」
「も〜、そんなこと言っていつまでもお風呂入ってたらのぼせるよ」

 真琴はそう言って俺達に近付き、の腕を取って立ちあがらせた。

 真琴がこうしてを湯船から上がらせる時、はいつもすんなりと立ちあがる。拒むことをしない。今日のように無言の時でも、話しかけている途中でも、迎えがくればいつもすんなりと腰を上げた。引き上げてくれるのを待っていた、とでも言いたげに。
 にはこうして俺の入っている水風呂に身体を沈めなければならないどうしようもない時があり、こうしなければきっと落ちつくことが出来ないのだ。けれど、ずっと沈んでいる事を決して望んではいない。
 本当は早く救い上げて欲しい。それでもこうして沈むことを回避することが出来ないのだろう。

 見上げたの頬はほんのり赤く染まっていて、しっかりとあたたまったことが見てとれた。表情も先ほどよりも少しすっきりとしているのが分かる。
 真琴は浴槽がら出たの肩にタオルをかけてやり、先程の俺と同じようにタオルの上から撫でるように肩を拭いてやっていた。まるで、泣いている子供を慰めるように。

 がこうして家を訪れた時、黙って一緒に風呂に入っているのが俺の役目で、を湯船から連れだすのが真琴の役目になっていた。





 俺達が驚いたのは最初の一度だけだった。

 今日と同じように裏戸から家に上がったは黙って風呂場の戸も開け、数秒俺のことをじっと見ていた。そうして無言で浴槽の横にしゃがんだが小さな声で
「私も入りたい」
と呟いたのを聞いて
「入りたければ入ればいいだろ」
と言った俺に対しては服のまま水風呂に飛び込んできたのだ。

 まさか服のまま入ってくるとは思わず流石に俺も驚いたが、裸で入られてもそれはそれで困る。だからこれならまぁ良いかと黙って一緒に浸かっていれば、居間にいた真琴が俺に話しかけに浴室の扉を開け、を見て悲鳴を上げたのだ。

なにやってんの!?」
「……私も入りたかったの」
「だからって服のまま入っちゃだめでしょ!」
「……脱いでたらいいの?」
「えっ!?脱っ……せめて水着着るとか!」
「真琴うるさい」

 ひとりで騒ぐ真琴に一言漏らせば、真琴もの様子がおかしいことに気付いたのか仕方ないと言いたげな息を小さく漏らした。

「おばさんに着替えもらってくるから」

 そう言って真琴はの頭をひとつ撫でてから浴室を出て行った。


 あの日以来、俺達はが水風呂に飛びこむことに驚くことはなくなり、もしっかりと水着を持ってくるようになった。
 がこれで気分を変えられるのなら、俺達はそれで良いのだ。

 浴室から出る二人の背中を見ながら、俺も浴槽から立ちあがった。真琴からタオルを受け取り、適当に体を拭いてから脱衣所を出る。俺に着いて来ながら、真琴はに声をかけていた。

「たい焼き買って来たから、一緒に食べよう」

 の小さな返事を聞いて、真琴は脱衣所の戸を閉めた。




 の笑顔までは、もうすぐそこだ。






20140506
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