夜に咲く太陽





 ぐるぐるぐるぐる考えて、ずぶずぶと深い闇に沈んで行く。考えれば考えるほど落ち込んで行くのに、考えることを止められなかった。考えるのを止めれば、途端に苦しくて息が出来なくなるのだ。思考を止めないでいれば、そのことに必死で少しは痛みに気付かないフリが出来る。そんなことをしたって結局は痛いことに、苦しいことに変わりはないのに。

 抜け出せない闇に呑まれて、私はもがいていた。






 ベッドで横になっていることすら耐えられなくなってしまい、静かに部屋を出た。
 真っ直ぐに続く暗い廊下は、まるで私の心の中のようだった。光が見えない。時折明かりが漏れているのが分かっても、それをどうして良いのか分からない。
 そのまま私は外に出た。風にざわざわと騒ぐ木の葉は闇に紛れて視界に入らないのに、そのせいで余計に耳についた。まるで、私の頭の中みたいだ。ざわざわと思考を巡らせたって、結局は真っ暗なまま。いくら考えたって、私の中で明確なものにならない。
 もう、どうしたらいいんだろう。
 朝になれば騒ぐ木の葉は緑を発して、静まる廊下には生徒の声が響きわたる。太陽の光が明るく照らすのに、私には朝が来ない。私はずっと、こうして見えない闇の中で彷徨うしかないんだ。
 そんなこと、これっぽっちも望んでないのに。
 一歩、また一歩と歩く度に足取りは重く、涙がこみ上げてくる。
 本当は湖の所まで行こうと思ったのだけれど、怖くなってしまい進むことが出来なかった。怖いのは夜の闇じゃない。そこに飲まれて出てこれなくなってしまいそうな自分が、だ。
 私は湖畔に行く途中で足を止め、運動場の脇にあるベンチに座った。ここも変わらない闇だけれど、まだ少しは見渡せる。昼間走り回っている生徒の影を感じて、いくらか安心することが出来た。
 ベンチに座って、私は目を拭った。でも、視界を遮る涙を拭ったって、映るものは同じだった。私には暗闇しか映らない。
 溢れる涙を拭うのを止めて、私は黙ってグラウンドを見つめた。
 数時間後には朝日が登って、世界を照らすその中に、自分が立っている姿が想像出来ない。

 変わらない暗闇と、胸の痛みに耐えながら私の頭はぐるぐると回り続けていた。すると、砂を踏む足音と一緒に鼻歌が聞こえてきた。そのリズムに合わせて、ボールが弾む音もした。
 この暗闇に合わない、陽気な鼻歌。
 時折聞こえる声は一切の暗闇を感じない、あたたかさがあった。起きていながらに夢を見ているような気分だった。そのくらいに、その声はこの空間に馴染んでいなかった。近付く足音に思わず顔を向ければ、サッカーボールを膝に乗せた状態で止まる誰かの姿があった。外灯は、彼の後ろにある。彼の姿は影のように浮き上がり、きっと彼からの方が私の姿は見やすいだろう。

「あれ、?」
「────っ」

 首をかしげてそう問う声は、音也くんのものだった。
 まさか私の顔が見えるほどに、明るいとは思わなかった。誰かに会うつもりも、声をかけられるつもりもなかったのに。声が聞こえた瞬間に、私はここを離れるべきだった。けれど音也くんの声を聞いていたら、そんなことが頭に浮かんで来なかったのだ。その声を聞くことに夢中で、何も考えられなかった。
 だけど、こんな状態で誰かに会いたくない。きっとまだ、私の表情までは見えていないはずだ。
 私は慌てて立ち上がり、音也くんに背を向けた。

「あっ」

 という、引き止めるような音也くんの声がしたけれど、私はそのまま足を動かした。すると、突然鈍い衝撃が背中に走った。ぼす、という音と足元で転がる音に、彼が蹴っていたボールが私の背中に当たったんだと気付いた。

「ごめん!」

 音也くんの声が頭に響いた時に、自分が思わず足を止めていたことに気付いたのだけれど、その時にはもう音也くんは私の隣に立っていた。
 音也くんの手が、私の背中についた砂をほろう。ただ、砂をほろってくれているだけなのに、その手がまるで私を慰めてくれているように勝手に感じて、私は唇を噛んだ。
 堪えている涙がせり上がってきてしまう。

「ごめん、痛かった?」

 動かず、返事もしない私に音也くんが動揺しているのが分かる。音也くんは何も悪くないのだ、ということを伝えたくて私は首を横に振った。そうして、そのままこの場からいなくなりたかったのに。足が動いてくれなかった。優しくてあたたかい音也くんの手から、離れたくないと体が言うことを聞いてくれない。
 ついには小さく嗚咽まで漏れてしまった。そのせいで、優しく撫でていた音也くんの手が慌てたように揺れた。

「そっ、そんなに痛くしちゃった!?」

 ほんとごめん!と顔を覗き込んでくる音也くんに、私は再び頭を振る。
 何も話すことが出来ないでいる私に、優しい声が降る。

「えっと、とりあえず座ろっか」

 そっと私の背を押して、数歩後ろにあるベンチに誘導する音也くんは何度も私に「痛くないんだよね?」と確認した。私はその度に、声を出せない分しっかりと頷いた。
 ベンチに座ってしばらく無言の後、音也くんは小さく口を開いた。

「あのさ……もしかして、俺が来る前から泣いてた?」

 やっぱり、あの暗さと距離じゃ私の表情までは見えてなかったのかな。
 泣いていただなんて本当は言いたくなかったけれど、ここまで泣いておいて隠すことは出来なかった。それに、音也くんは本当に何も悪くないんだということを伝えたくて、私は素直に頷いた。

「何か嫌な夢でも見たの?」

 気遣いを感じるけれど、あくまでも明るい音也くんの声が心にあたたかい。変に詮索をせず、かと言ってぎこちないわけでもなく。音也くんの隣はすごく落ち着いて、本来なら今すぐにいなくなってしまいたい状況のはずなのに、私はここから動く気が起きなかった。
 嫌な夢、を見たわけじゃない。違うけれど、でも同じようなことだった。嫌な夢を見た時のように、暗いものが私の頭と心の中をぐるぐると周り、行き場のない気持ちに押しつぶされそうで──────。
 私は、こくりと頭を頷けた。

「そっかあ、それで眠れなくなっちゃったんだね。嫌な夢って変に頭から離れないもんなぁ」

 同意するように、私は再び頷いた。

「でも夢だしさ、忘れてもう違うこと考えようよ」

 眩しい笑顔を向けてくる音也くんに、私は首を横に振った。

「ちがうこと、考え、られない」

 落ち着いてきた涙を堪えて、私はようやく言葉を発した。

「考えなくちゃ、いけないの」

 夢を見た、と。私はそれに同意したのに。
 口から漏れるのは夢の話ではなかった。考えなくちゃいけない夢だなんて意味が分からない。それでも音也くんは不思議そうな顔をせず、私の目をしっかりと見てくれた。

「どうして考えなくちゃいけないの?」
「どうして、って」
が泣いてるのに、それなのに考えなくちゃいけないの?」

 そう聞かれて、私は唇を噛んだ。泣いたって考えなくちゃいけないはずだ、苦しくたって答えが見つかるまで考えなくちゃいけないはずだ。
 そう思うのに、肯定出来なかった。

「俺は考えなくていいと思うよ」
「で、も」
「だってはもういっぱいいっぱい考えて、それでこんなに泣いてるんだろ?」
「でも」
「こんなに泣いてるのに、これ以上考えたってどうにもならないよ。一回休んで、それからでいいじゃん」

 でも、と再び否定の言葉を口にしようとした時、音也くんは私が音を発するより先に唇を尖らせた。

「いいよ、じゃあ俺が勝手に考えさせないようにするから」

 不満そうにそう言って、音也くんは先ほど歌っていた鼻歌を、今度は声に出して歌った。
 明るくて、柔らかくて、あたたかい音也くんの声。

 分からず屋とか、変な奴とか、面倒くさいって思われたかな。そう不安になるのに、音也くんの歌声に心を持っていかれて、ただ歌を聞くことしか出来なかった。
 思えば、私は音也くんのこの声を聞いてから、なにひとつ考えられなくなっていた。ただ声を聞くことに夢中で、頭の中からすっぽりと闇が抜け落ちてしまっていた。
 音也くんの言うように、勝手に私の中があたたかい歌声でいっぱいになる。

 歌が終わった頃には涙も止まっていて、私は口元に笑みすら浮かべて、小さく拍手をした。涙を拭っていた手は濡れ、ぺちぺちと不格好な拍手しか鳴らなかった。それでも音也くんは嬉しそうに笑った。
 その笑顔を見て、もう朝が訪れたかのように感じた。
 太陽のようにあたたかい笑顔は、やわらかい眩しさだった。登り始めた朝日のように私の心に優しく沁みる。
 今なら、朝の日差しの中で立っている自分が想像出来る。

「俺はが笑ってる方が好きだな」
「────っ」
「俺が歌って笑ってくれるなら、が泣いてたらまた来ちゃうから」

 気をつけた方がいいよ、なんてまるでそれが迷惑なことかのように言う音也くんに、私は返事が出来なかった。
 先ほどとは違う意味で、胸が苦しい。音也くんが来てくれるなら────そんなことを思ってしまう。

に涙なんか似合わないよー、なんてね」

 おどけて笑い、音也くんが私の目尻に指を伸ばした。思わず体が固まったのだけれど、その指は触れることなく、音也くんは私の目の前に立った。

「俺ハンカチとか持ってないからなあ……あ、そうだ」

 そう言って、音也くんはTシャツの裾から手を入れて、私の濡れた目元と頬を拭った。力加減をしてくれているのだろうけれど、それでも少し乱暴に頬を撫でるその力が音也くんが男の子だということを私に意識させてじわじわと熱が上がる。頬に熱が集まるのは、Tシャツの摩擦のせいだと思いたかった。

「よし、これですっきり!」

 満足そうに笑う音也くんのTシャツの裾は、私の涙のせいで濡れてシミになってしまっていた。それを見て湧き上がってくる羞恥心に私は口を開いた。

「す、すっきりじゃないよ!音也くんのTシャツが汚れちゃったじゃん!」
「だいじょーぶ、俺Tシャツいっぱい持ってるし!洗濯すればいいし!」
「そういう問題じゃなくて……それなら私、自分の服で拭いたのに」
「ええっ、そ、そんなことしたらのお腹見えちゃうからだめ!」
「えっ」

 頬を赤くして狼狽える音也くんに少し驚いて、思考が止まってしまった。

「いや、見るつもりじゃなかったけど!そうじゃなくて!えっと、ほら、俺Tシャツいっぱい持ってるから!平気!」

 見てもいないのに、まるで見たかのような反応をして弁解をして、また同じことを繰り返す音也くんに私は思わず笑った。そんな私に音也くんは恥ずかしそうに呻いた。

「いや、ほんとに、おれ」
「うん、分かってるよ」

 そんなこと少しも思ってないのに。ひとりであたふたする音也くんが可愛いかった。
 音也くんのTシャツの染みが、申し訳なくて仕方がなかったのに今はなんだかおかしく見えてくるから不思議だ。真っ暗で飲まれそうだった空間だったのに、今は街灯がすこし眩しいと感じるほどの明るさを感じるから、不思議。まだまだ夜は深いのに、私の所にだけ太陽が昇っているんじゃないかと思う。
 どうして音也くんはこんなにも眩しくて、あたたかいんだろう。
 今はもう、怖いものも苦しいものも、何もない。今はただ、音也くんの笑い声と笑顔で心がいっぱいになる。いつも音也くんの周りに人がたくさんいたのは、だからだったんだね。ひまわりが太陽を追いかけるように、みんな音也くんの眩しい笑顔が見たいんだ。

「もう遅いし、そろそろ寝た方がいいよ。部屋まで送るから」
「ありがとう。ねぇ、そのTシャツ、私が洗濯して返してもいい?」
「いいって、気にしないでよ。朝起きたらトキヤがやってくれるし」
「一ノ瀬くんにやらせてるの?」
「最初交代でやってたんだけど俺がやると色落ちしたり縮んだり、洗剤の量もダメなんだってさー。洗剤入れてボタン押すだけでトキヤがするのと何が違うんだろうね」

 だから気にしないでよ、と笑う音也くんに私は曖昧な返事をした。
 何か、お礼がしたい。Tシャツで涙を拭ってくれたことだけじゃなくて、私の目の前にあった闇を、明るく照らしてくれたことに。
 それに気付いてくれたのか、「じゃあさ」と音也くんはサッカーボールを持ち上げた。

「今度は俺が眠れない時に一緒にサッカーしてよ」
「私サッカー上手に出来ないよ」
「ボール蹴り合うだけだから大丈夫大丈夫」
「うん。じゃあ、いつでも呼んでね、私何時でも絶対に来るから!」

 静かな夜に、意気込み過ぎた自分の声が良く響いた。恥ずかしくて俯く私に、音也くんは嬉しそうに笑ってくれた。
 どうしよう。ついさっきまでは、その光に照らされていることがあたたかくて、安心していたのに。今はその笑顔が眩しすぎて、胸が苦しくなってしまう。先ほども感じたこの胸の奥の疼きは、気のせいなんかじゃなかったんだ。

「戻ろっか」

 そう言って、音也くんは私に掌を見せた。差し出された手を見て、私は固まってしまった。
 その行動が何を意味をするのか、小さな子供にだって分かる。だけど私達は、小さな子供じゃない。手を繋ぐという行為は、今はもう日常ではないのだ。
 だから、音也くんの手が私へと差し出されているだなんて信じられなくて、素直に手を伸ばすことが出来ない。

 胸の奥の疼きは段々と大きくなり、激しい鼓動へと変化する。
 手を繋いでしまったら、きっと私の心臓の音が音也くんに聞こえてしまう。

「手繋いで帰ろう」
「っ、音也、くん」

 どうすればいいのか分からなくて、手を伸ばせずにいた私の手を音也くん自ら握って、私を立ち上がらせるように引き上げた。戸惑いながら音也くんを見上げれば、骨ばった大きな手に力が入った。

、迷子になって泣いてる子みたいだったから」
「まい、ご?」
「うん。だから、こうすればもう迷子にならないだろ?」





 そう言って笑って歩き出した音也くんの背中を見ながら、私はそのしさにゆっくりと瞬きをした。






20121204
2style.net