Secret scent







 甘いキセルの香りに鼻腔をくすぐられ、私は何度か小さく瞬きをした後に瞼を持ち上げた。
 目の前には、絹のシャツの隙間から覗くシャイロックの滑らかな素肌と紋章があった。そばにいる特権のように、煙る甘い香りに包まれていても彼自身の香りを鼻先に感じられる。
 淡い優越感が、胸の奥で揺らめいた。

 薄暗い部屋の中。
 シャイロックは片腕で私を抱きながら、上半身を起こしてヘッドボードに背を預けキセルを楽しんでいる。
 どのくらい、彼はひとりでこうしていたのだろう。

「シャイロック」

 囁くような小さな声で名前を呼べば、彼は私を抱いている腕の力を強めて頬を寄せた。
 はらりと、シャイロックの柔らかな黒髪が私の頬に落ちる。
 その先を追いかけるように顔を持ち上げると、深い紅色の瞳が愛おしそうに私を見つめていた。
 小さな蝋燭の灯りが揺れる部屋の中で、いちばん輝く宝石のよう。
 その中に閉じ込められている私は、なんて幸せそうな顔をしているんだろう。

「何か飲みますか?」

 顔を横に振って応えると、頬に落ちていたシャイロックの髪が逃げてしまった。寂しさを感じて追いかけるように指先に絡めてみれば、彼の笑い声がくすくすと響いた。
 するりするり、と指先からも逃げてしまいそうな艶やかな髪に触れながら、私は部屋に広がる甘い香りについて尋ねた。彼は色んな香りを嗜んでいるけれど、これは初めての香りだった。
 私が知らないだけで、彼にとっては慣れ親しんだ香りのひとつかもしれないけれど。今まで何千年と、彼が嗜んできた香りに想いを馳せながら仕様のない寂しさを感じた。

「ねぇ、この甘いキセルの香り、何の香り?」
「ふふ、秘密にしておきたい香りです」
「私には秘密、ってこと?」
「いいえ、お教えしますよ。けれどの前でしか吸わない秘密、です」
「誰にも教えたくない香りってこと?」
「その通り」

 正解のご褒美のように、シャイロックはキセルの煙をゆっくりと吐き出した後、私の唇に彼の唇を重ねた。
 甘い香りと同じような、甘い味がした。
 そのままこの甘い香りとシャイロックに酔いしれてしまいそうになりながら、私は指先に絡んだ彼の髪を小さく引いて、シャイロックに話の続きを促した。
 私には教えてくれる、秘密。
 知らない香りだと勝手に拗ねていた気持ちが一瞬にして無くなってしまった。

「悪戯っ子ですね」
「誰かさんよりは可愛いでしょ?」
「えぇ、もっと手をやかせてほしいくらい」
「じゃあ、何の香りか早く教えて」
「本当に分からない?」

 楽しそうに笑って、シャイロックは私の耳に唇を寄せた。

 ───────今夜の貴女の素肌の香りです

 その言葉に、囁く声に、耳を掠める唇に。
 一瞬で、まるで私の心臓が燃えたように全身が熱くなった。
 衝動を堪えるように思わず手に力が入ってしまい、私の指先がシャイロックの髪を強く引いた。そのせいで漏れたシャイロックの吐息に、余計にじくじくと肌が熱くなる。

「ご、めん」

 思いっきり引っ張りたいくらい恥ずかしい想いをさせられているのは私の方なはずなのに。けれど引っ張るつもりがなかったのも本当で、溢れた謝罪の言葉にシャイロックは微笑んで、それから私の頬にひとつ唇を落とした。

「分かりました?」
「……納得はしてない」

 恥ずかしくて、顔を隠すように抱きついてシャイロックの胸元に顔を押し付ければ、甘いキセルの香りの中でも感じたシャイロックの香りが私をくすぐった。
 頭上ではくすくすと、嬉しそうな彼の笑い声が響いている。
 私がこのキセルの甘い香りに身に覚えがないように、もしかしたら、彼にもこの“シャイロックの香り”が、分からないのかもしれない。
 だとすると──────────

「私だけが知っている秘密の香りですね」

 真似をするように私の髪を指に絡めて嬉しそうな声で話すシャイロックに、私だってシャイロックの香りを知っている、とは恥ずかしくて言えなかった。
 いつも余裕なのはシャイロックばかり。
 なんだかそれが悔しくて、私も、私だけの秘密を彼から奪いたい。
 そう思って、ふと欲しいものが頭に浮かんだ。

?」

 顔を上げてシャイロックを見つめて、私は片手いっぱいに彼の髪を寄せ集めた。

「髪を下ろしてるシャイロックは、私だけの秘密にしてもいい?」
「人前で下ろすことはほとんどありませんが……」

 シャイロックは言いながらキセルをベッドサイドテーブルに置いて、私に覆いかぶさった。
 柔らかな彼の長い髪が、まるで私を包み込むヴェールのようにしなだれた。
 もう、この世界からは逃れられない檻のように。
 柔らかく、いつだって強く腕を押せば逃げ出せてしまいそうなのに、艶やかな感触に弄ばれ、次第に逃げることを忘れてしまいそうなる。とても甘美な世界。
 シャイロックの見下ろす瞳は先ほどの慈しむような穏やかなものとは違い、燃えるような深紅をたたえていた。それは、私がうとうとと短い夢へ舟を漕ぐ前に見ていた瞳だった。
 その瞳に見つめられると、ちりちりと身体中に小さな電流が走るように、肌がざわついてしまう。

 逃げたいだなんて、思っていない。
 このままずっと、この世界の中にいたい。

が望むなら、この姿は貴女だけのものです」

 その言葉に、本当に?だなんて野暮なことを返してしまいそうになる。いつまで経っても、数千年のシャイロックの過去と、これから先もずっとずっと続く彼の未来に嫉妬をしてしまう。
 約束をして、彼の命を縛りつけたいわけじゃない。
 だからせめてこんなワガママで、気持ちが繋がってるのを確かめさせて。すんなりと受け入れて、シャイロックは困ってくれさえもしてくれないけれど。

「それだけで満足ですか?」

 静かに燃える深紅が近づき、どんどんと焦点が合わなくなる中で、シャイロックの湿った声が私の鼓膜を濡らした。
 もっともっと、そう私がシャイロックに心を震わせているのを知っているくせに。
 いじわるなひと。



 混じり合ういくつもの香りを感じながら、シャイロックの首に腕を回して、彼の艶かしい黒髪をなぞった。

 今この瞬間、ひとつだけ確かな秘密。
 ここにあるこの香りは、私とシャイロック、ふたりだけのもの。
 何千年の過去にも、存在し得ない甘美な香り。

 ねぇ、そうでしょう?
 わたしと、貴方がいるから──────────









20211014
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