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九月一日は十歳になる魔法使いにとって特別な日だ。
もくもくと煙をあげて進むホグワーツ特急は、期待に満ちやキラキラする子供たちを乗せていた。
親元から離れて制御を失った子供たちは自由に汽車の中を歩き回ってはけたけたと笑い声をあげる。
そんな中、私は小さな膝を震わせて身を縮めている一際小さな女の子だった。
同じコンパートメントに居合わせた他の子どもたちは興奮したように早口で何か話している。
誰か有名な人の話をしているみたいだった。その誰かすら私は知らない。
ふいに、一人男の子が私の方を見て何か問いかけてくる。
彼の言葉が頭に入ってこない。何を聞かれているのかもわからない。
私はただ椅子に座って、目を泳がすだけで精一杯だった。
時間がまるで凍り付いたように止まる。
周りの子たちは眉根を寄せ、聞こえるくらいの大きなため息をついて、私から目をそらした。
この汽車はいったいどこまで走るんだろう。
本当にまたお家に帰れるんだろうか。
小さな私には、進む汽車が闇深い洞穴に続いているような気がしてならなかった。
宙に浮く蝋燭、喋る帽子、ゴースト、動く絵画。
ホグワーツは私にとって恐怖そのもので、今日からお化け屋敷に住めと言われた小さな心は壊れかけていた。
英語はまだ上手くない。同じ寝室の子の言葉はよくわからない。
このお化け屋敷を楽しんでいるみたい。彼女たちの心もよくわからない。
私はずっと独りぼっちだった。
早く帰りたい、早く帰りたい、早く帰りたい……。
心の中で呪文のように繰り返したけれど、寝ても覚めても景色は変わらない。
そんな私の見る世界を、彼はまるで魔法のように変えてくれたんだ。
「そっちじゃないよ」
腕を引かれて振り返ると、そこには青い目の少年が立っていた。
「軟禁事件!?」
「しっ。声が大きいよ」
目を覚ますと、あたりは真っ暗だった。
杖に明かりを灯して時計を見ると、針は二十三時を半分も過ぎていた。
消灯前には目を覚ますつもりだったのに。
はちゃんと帰ってきたんだろうか。
あたりを見回して、この部屋に自分一人しか居ないという事に気が付いた。
嫌な予感がする。
ガウンを羽織って部屋を出ると、案の定談話室に数人の男女が暖炉の周りに集まっていた。
その中にの姿は見当たらない。
「……何の話してるの?」
静かに階段の上から声をかけると、ほとんどが一瞬びくりと体を縮めて僕を見た。何事もなさそうにこちらに手を振るのはジェームズくらいだ。
「リ、リーマス。びっくりしたぁ」
本気でびっくりして死んでしまいそうな声を出しているのはピーターだ。
これくらいでびっくりしていたらホラー映画なんか見たら本当に死んでしまうんじゃなかろうか。
「おはようリーマス。よく眠れた?」
「ああ、お陰様でね。それで、この様子だとはまだ帰ってきてないみたいだね」
階段を下りて行ってジェームズが座っているソファの端に腰を下ろす。
ここに集まったのは、男子はジェームズ、ピーター、そして僕。女子はエヴァンズとの友達二人の六人だった。
僕の台詞に女子一同は表情を暗くした。
「今は”心あたり”の話で盛り上がっていた最中だったのかな」
「まあ、そんなとこだね。リーマスは知ってた?が軟禁された事があること」
女子二人は、僕らの協力を得る為にの話を暴露したらしい。
まあそうか。この事態がどれだけ緊急事態なのかを伝えるには、そうするしかなかったのだろう。
「ディックから少し話はきいてる」
「それで、その事件ってどう収束したの?」
女子二人は困り顔で顔を見合わせ、背の高い方が口を開いた。
「私たちも詳しいことはよく知らないんだ。があの一週間をどこで過ごして何があったのかは本人達しか知らない。でも、を助けたのはディックだって聞いた。ディックはウィルに呪いをかけたらしい。に近づけなくなる呪いを」
「それなら、今ウィルが近づいてる可能性は無いんじゃないの?」
「それはわからないわ」
ジェームズの率直な言葉に対してすぐに返したのは、今まで黙って聞いていたエヴァンズだった。
「ディックがどんな呪いをかけたのかわからないけれど、あるものからあるものを遠ざける呪いはそれなりに高度な魔法よ。効果が切れても彼が在学中ならかけなおしができても今は誰もそれをしていないのでしょう」
彼女の意見は当たらずも遠からずといったところだ。
僕はディックから彼女にかけられた魔法の工夫を少しだけ聞いていた。
「恐らく、効果が切れている事は無いと思うよ」
「何かディックから聞いているの?」
「ディックは制約を付けて効力を弱く、そして期限を長くしたと言っていた」
「なるほどね……」
「せいやくって?」
「呪文は条件付けを多くすればするほど上手くいくんだよ。例えば、世界中の人間をベンジョムシにする魔法より、スネイプだけをベンジョムシにする魔法の方が簡単で有効だろ?」
「ポッター」
「おっと失礼」
おどけて話すジェームズに、エヴァンズの鋭い牽制が入った。
「……うん。ディックは最低でも今年一年間は効力が持続する計算をしてた」
「でも、ディックはどんな制約を付けたのかしら」
エヴァンズの言葉には僕は黙るしかなかった。
その事についてはディックには詳しく聞いていない。それを察してか皆何も言わなくなった。
「で、でもさ、その制約の穴を抜けなければ効力はあるって事でしょ?」
しんとした空気が流れる中で、リオナが前向きな意見を言おうとしているのが分かった。
そうだといい。そうだといいけれど、僕にはどうしてもウィルが制約を抜けたとしか思えなかった。
「ま、でもウィルが犯人だとしたら前の時みたいに君たちにから連絡が行くんじゃない?先生呼ばれて捜索なんてされたら彼もとんでもないだろう。それに話を聞く限り彼ならの命を早急にどうこうはしないだろうし。むしろ本当に心配すべきは想定外かも」
この中で一番冷静そうなのはジェームズだった。
彼の言う事には一理ある。
以前のの事件は先生の耳にまで入っていない。ディックがそう差し向けたからだ。
ウィル・グノーは未だ優等生というレッテルが張られ続けている。彼もそれをはがしたくはないはずだ。
だから以前の事件で行っていたような完全な根回しをしていてもおかしくはないが、今回はそれがない。
「確かにそれもそうね。一二時を過ぎたらマクゴナガル先生に連絡することにしましょう」
いや、いやいや。
口に手を当て気分悪そうにこちらを見てくるシリウスに困惑する。
「自分で根ほり葉ほり聞いたくせに、ドン引きしないでよ」
「いや、引くっていうか。なんだ。あれだ。自分を恥じている……」
ウィルと私の間にあった事を、他の誰かに話をする時がくるなんて思ってもみなかった。
し、しかもあんなに事細かに……。
しかもその相手がシリウス・ブラックだなんて、1年前の、いや数時間前の私は想像もしなかったろう。
「変態プレイと称して自分がしていた事は全くのノーマルだった。本当に恥ずかしい」
「し、知らないよ!そんな事!言わなくていいし!」
「俺は変態にはなれない」
「そうですか!」
顔を赤くする私に、顔を青くするシリウス。
なんでシリウスの方が落ち込んでるんだ。しかも別のベクトルで。
やっぱり言わなきゃよかったかなと後悔して、膝に顔をうずめた。
「お前、小さいのに苦労したんだなあ」
「だから、同い年だから!」
私が声をあらげると、シリウスは愉快そうに声を出して笑った。
思いもよらないことは他にもあった。
私の今まで生きてきた中でも最も暗く重たい部分を、彼に話すことが心を軽くした。
シリウスは至ってまじめに聞いてくれてるのだけれど、彼は私の話がこの世にありふれた話の一つでしか無いように思わせてくれる。
世の中すべての不幸を背負って生きていたつもりはなかったけれど、こんな不運、いつか笑い話にすらなるんじゃないかとすら思ってしまう。
膝に顔うずめたたまま、なんだかおかしくなってきて顔が緩んだ。
「なに笑ってんだ。こんな気持ち悪い話の後に」
「あはは。そうだね。ふふ」
「狂ったのか?」
「酷い」
言わなきゃよかった、なんてとんでもないかもしれない。今日がなければ、きっと私は墓までこの話を持って行っていただろう。
「シリウスに話して良かった」
きっとこんな風に話ができたのは、リオナでもサリーでもリーマスでも、もちろんディックでもないだろう。
「な……にいってんだよ」
シリウスは突然そんな事言われて戸惑ったのか仏頂面になってそっぽを向いてしまった。
やっぱり、そんな事言うのはおかしかったろうか。
でも、やっぱり良かったと思うのだ。
「やっぱり、こういう話は赤の他人にする方が気持ちが楽だね」
「は?」
にこにこと笑う私に、シリウスはまた眉根をひそめて不服そうな視線をこちらに向けた。
ああ、また不機嫌な顔をしているな。彼の機嫌の取り方は難しい。
それでもふわふわした気持ちのせいか、少しも彼を怖くなかった。
その時、私はふいに目の端に入った寮の壁にかかる時計の針を二度見してしまった。
「お前俺のこと……」
「えっ!?あー!?」
「な、なんだよ」
「あの時計、あれ時間合ってる…んだよね」
「まぁ、合ってるだろ。グリフィンドール寮と同じなら」
「も、もうすぐ十二時だよ、シリウス!どうしよう」
「どうしようもこうしようも、十二時前なんだろ」
なんでそんなに落ち着き払ってるんだ。
消灯時間に遅刻する事はあっったって、遅くたって十五分程度の話だ。
こんなに遅れた事なんてないのに。
これってどんな罰則だろうと血の気が引いた。
「み、みんな心配してるかも……」
「一日くらい朝帰りしたって誰も何も言わねえって」
「シリウスじゃないんだから!」
血相を変えて言うと、シリウスは反論もなく黙り込んだ。
「先生に言われたらきっと探されて罰則だよ。どうしよう」
おろおろする私を見て、シリウスはごそごそとローブのポケットからズボンのポケットまであちこち手を突っ込んで何かを探してもぞもぞしている。
「あ、あった」
彼が終に取り出したのは、くしゃくしゃの紙屑だった。
「何それ?」
「ラブメモ」
指でメモの皺伸ばすと、それが花弁型をした桃色の紙だという事がわかった。
ラブメモの名前は聞いたことがある。たしか1年生の時に流行った魔法文通具だ。
メモパットを半分に割った片割れを持ってメモを書き飛ばすと、もう一方の片割れを持った人物のところにメモが勝手に飛んでいく、という文通アイテムだ。フクロウ不要で短情報短距離のやりとりが出来るというのが画期的で、カップルと女子の間で大人気だったはず。流行っていた当時は恋人も友達も居なかったので私には全く不要アイテムだったけれど。
もう最近はこのメモも使っている人を見なくなったな。
「か、彼女に連絡とるの?」
「なわけないだろ」
呆れた声で彼は言った。
そういえば、さっきシリウスと一緒に居た女の子はどうしてきたんだろうと気にかかる。
シリウスはその談話室に転がっていた羽ペンをでスラスラと文字を並べる。
乱暴な性格の割に繊細な文字を書くんだな。
そういえば、シリウスとレギュラスの字は似てるとリーマスが言っていた。確かに、似ているかも。
”今チビと一緒。心配ご無用。”
「書き直して!」
「どこを?」
「ちゃんと名前で書いて」
「わかりゃいいんだよ」
「やだよ!」
私はシリウスから羽ペンを奪い取って、”チビ”を二重線で消すと、その上に自分の名前を書いた。
「あーあ。汚くなった」
「もともとぐちゃぐちゃでしょ」
「しゃあないな」
シリウスはメモを持って窓辺によると、窓枠の隙間からメモを差し込んだ。
花弁の形をしたしわしわの紙切れは、外気に出ると風に乗ってひらひらとぎこちなく飛んで、どこかに行ってしまった。
これ、本当に届くんだろうか。
「あれは誰に届くの?」
「誰だっけな。多分ジェームズだよ」
「……ジェームズとラブメモしてたんだ」
「おい、何か勘違いしてんだろ」
シリウスは悪戯がなんとかとか、コミュニケーションがなんとかとか言っていたけど、よく覚えていない。
それより、明日はどんな顔をして皆に会えばいいだろうか。なんと言い訳しよう。
それに、ウィルだ。明日も何か言ってくるだろうか。リーマスにまた怪我をさせないだろうか。
様々な不安が頭の中をぐるぐる走って止まらない。
どうしてこんな事になったんだろう。
ウィルはどうして変わってしまったんだろう。
独りぼっちの私の腕を取って、優しく微笑んだ少年は一体どこへ行ってしまったんだろうか。
私は未だにその理由がわからない。
彼の心の奥底に溜まった黒いものが恐ろしい。
全て解決する為には私はその中に足を踏み入れなければならないのかもしれない。
……いや、それしかなかったんだ。
知らないふりをして逃げるのはもうやめよう。
(2016/7/20)
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