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「リーマス!?」
リーマスに包まれるように抱かれていた私は腰をぶつけたくらいで済んだが、下敷きになったリーマスの体が心配ですぐに飛び起きた。
「……うっ…」
返事の代わりにリーマスは小さく呻いた。
「だ、大丈夫?頭打ったの?」
リーマスは体を仰向けにすると、唇を噛んで痛みをこらえていた。
一体何があったのかわからない。
何故リーマスは突然そんな事をしたんだろうか。まるで、何かから守るみたいに――。
私ははっとしてリーマスの様子を注意深く観察してみたが、外見上におかしなところは見当たらない。
物理的に頭をぶつけたところを痛がる様子しかない。
あたりを見回してみると、見覚えのない羊皮紙の切れ端を丸めた紙屑が落ちていた。リーマスが落としたんだろうか。
不思議に思って私はそれを拾い上げ、その異様な感触にぞっとした。
「…………」
リーマスがかすれた声で私を呼ぶ。
私は急いで紙屑をローブのポケットにしまうと、リーマスの顔を覗き込んだ。
「……大丈夫だった?」
痛みで意識が朦朧としている人に心配されるなんて、情けない気分だ。
「私は全然大丈夫だよ。リーマス、立てる?はやく保健室に行かないと」
「大丈夫。……少し、頭を打っただけ」
リーマスは頭をさすりながら起き上がった。
彼を出来る限りの力で支えながらなんとか立ち上がると、リーマスはふらふらしながらも私の手を放して一人で歩き出した。
「もう大丈夫。ありがとう」
そう嘘をついて無理に笑うリーマスに心が痛む。
「リーマス、どうして……」
私の言葉はそこで止まってしまった。
聞かなければと思うけれど、聞きたくない自分も居た。
お互い秘密ごとをしているのがわかって、どんな発言も今の状況が脆く砕けそうで怖い。
「ちょっと躓いたんだ。ごめんね」
リーマスは少し間をおいてそう答えた。
彼は崩れないよう嘘をつく。
この世に優しい嘘と意地悪な嘘があるなら、彼が吐くのは優しい嘘ばかりだ。
そして、それに気づいてしまうほど悲しいことはないんだと言う事に、私はこの時初めて気が付いた。
保健室に行こうと勧めたのに、リーマスは頑なに断って寮に戻った。
「今日はもう寮から出ない方がいい」
最後にリーマスは私にそう言うと、ふらふらと男子寮の階段を上がっていった。
彼の背中を見送って、私は泣きそうな気分だった。
全部、自分のせいだという事にはもう既に悟っていた。
色々と理由をつけて先延ばしにしていたつけが今回ってきて、しかもそれが周りの人間に降りかかっている。
私にとってこれほどの苦痛はない。
あの人はよく解っている。
私、行かなきゃけない。
リーマスのいいつけを破って私はまた寒い寮の外に飛び出した。
どこに行けばいいのか見当もつかなかった。
リーマスが倒れたあの廊下、それとも図書館、それとも……。
すべての場所を見回っても彼の姿は見つけられなかった。
最後に八階に行こうか考えて、階段前で足が止まった。
あの部屋に行っても意味がないような気がした。
きっと彼はどこに行っても見つからない。けれど、どこに行っても見つかるような、おかしな気持ちだった。
「……ウィル」
ぽつりと、彼の名前を呼んでみる。
「呼んだ?」
背筋がぞっとした。
独りごとのつもりだったのに何故答えが返ってくるのだろう。
恐る恐る振り返る。
青いネクタイをきっちり絞めて、彼はそこに立っていた。
綺麗なブロンズの髪。青い瞳を細くして微笑んでいる。
彼の名前はウィル・グノー。レイブンクローの7年生だ。
「が僕を呼ぶなんて珍しいね」
「い、いつから?」
「何が?」
「いつから、私をつけてたの?」
「つけてたなんて人聞き悪いな。偶然だよ。ぐーぜん」
白々しく彼は言う。
彼の口ぶりを聞いて、血の気が引いた。
もしかして、ずっと私を監視していたのかもしれない。
だから、図書館の帰りに見た彼に似た後ろ姿は偶然ではなくて……。
考えれば考えるほど、目の前の人に恐怖が募って足がすくむ。
「も、もう私には関わらないって、約束したじゃない」
「”僕から”は関わってない。今日は”君が”呼んだんだ」
一歩一歩、彼はこちらに寄って来る。
後ずさろうとして、後ろの階段に足がぶつかった。
いつの間にかすぐそこまで詰め寄っていた彼に、私は仕方なく後ろ向きで階段に足をかけた。
「ああ。久しぶりなんだ。よく顔を見せてよ。僕のかわいい妹」
ウィルの手が私の髪に触れる。彼は何か私に魔法でもかけたのだろうか。
嫌なのに体が固まって動かない。
彼を目の前に完全に気持ちが萎縮している。
このまま彼のペースにのまれてはいけない。
私は彼の手を払って、声を振り絞った。
「リ、リーマスに怪我をさせたのは貴方でしょう」
「リーマス?誰かな、それは」
「とぼけないで」
きっと睨み付けると彼は一瞬固めたが、すぐに表情が緩んで噴き出した。
「あはは。怒ってる。そんな顔もするようになったんだね」
「ふ、ふざけないでよ!」
「ふふ。全然怖くない。まるで威嚇してくる子ネズミみたいだ」
彼の反応に私は絶望した。
もしかして、私が何を言ったところで、彼は全く話を聞き入れてくれないんじゃないか。
一体どうしたら話を聞いてくれるんだろう。
なんでこんな事になってしまったんだろう。昔はもっと優しくて、本当の兄みたいな人だったのに――。
「ちょっと、邪魔なんだけど」
私たちの会話は、第三者の登場で中断されてしまった。
階段を下りてきた生徒が、道をふさいでいた私たちに苛々としながら言った。
「おっと。失礼したね」
ウィルは軽く受け流すと、さらりと私の肩を抱き寄せてその人たちに道を開けた。最悪な事に、彼との距離はさらに縮まってしまった。
こんな時に何してくれるんだと、通りすがりの生徒の顔を見て目を丸くした。
「お前」
今日の私は本当についてないみたいだ。
知らない女生徒を連れたシリウス・ブラックは私を見ると立ち止まった。
彼は灰色の目で肩を抱かれている私をじろじろと見て、いつものように眉根を寄せた。
「ふーん。イケメンじゃん」
意地悪な口調でブラックはそう吐き捨てた。
リーマスの次は別の男か、とでも思ってるんだろうか。
違う。全然違うのに。
大声でブラックに言ってやりたかったけれど、ウィルの手がぎりぎりと痛んで、言葉にできなかった。
「はは。Mr.ブラックにそう言ってもらえるなんて光栄だね」
「女の趣味はどうかと思うけどな」
相変わらず煩い男だな。ブラックの連れた女もくすくすと笑った。
こいつ、罰あたってもいいから一偏殴ってやりたい。
「それはお互いさまだろう」
売り言葉に買い言葉で、ウィルの発言にブラックへの怒りも一気に吹っ飛んだ。
なんて事言い出すんだろう。私を笑ってた女の子も真顔になっていた。
ちなみに、ブラックが連れていたのは綺麗な長い黒髪のスタイルのいい美女である。
ちんちくりんな私との共通点は黒髪である一点のみ。並べば月とスッポン。
すなわち、ウィルの発言はとんでもないものだった。
自分の彼女をけなされて、流石にブラックも怒り出すだろうと思ったが、反応は意外なものだった。
「ははは」
彼は愉快そうに笑う。その隣で彼女が信じられないといった顔で見ていた。
誰もフォローしない空間がいたたまれなさすぎて私はうっかり口を開いた。
「そ、そんなことないよ。二人とも凄くお似合いだよ。美男美女で」
「ほら。はとても謙虚で奥ゆかしいんだ。小さくて可愛いだけじゃない」
「ウ、ウィル……」
もう黙ってくれ……。と懇願の眼差しもむなしく、彼は得意げに笑っている。
この発言にはシリウスも苛ついたらしく、けっと唾を吐くと冷ややかな視線を送ってきた。
「あーそーですか。ではお幸せに」
そう言うとシリウスは背を向けて立ち去ろうとする。最後に一度だけ目が合った。
私は思わず彼を引き留めたくて手を伸ばした。まだ二人きりにしないでくれ。どんだけ私の悪口を言ってもいいから今だけは――。
私の短い指先はローブの裾をかすめただけで終にはかなわなかった。
「」
名前を呼ばれて私はびくりとした。彼は私の肩をしっかり抱いたままだ。
「ああ、やっと会えた」
そのまま、彼は私を胸に抱きしめる。彼の香水の匂いが鼻をつく。
脳裏に黒い思い出が点滅して、私は彼をつき飛ばした。
「いやっ」
拒絶された彼は、今日出会ってから初めて悲しそうな顔をした。
「どうして? 呼んだのは君だ」
「違う。そんなつもりじゃない。私、怒ってるの。友達を傷つけるならあなたを絶対許さないって言いに来たのよ」
「僕はただ君を守りたかっただけだ」
「守るって……。私何からも脅かされてないのに」
「リーマス・ルーピンには近づかない方がいい」
それを聞いて私は頭に血がのぼった。
やっぱり彼にけがをさせたのはウィルだったんだ。
彼の言う”守る”はただのエゴだ。以前私にした事のように、自分が気に入らなかったからそうしただけじゃないか。
何か言ってやらないと。私は怒ってるんだ。怒ってるんだって、彼にちゃんと伝えないと。
そう思えば思うほど、言葉が渋滞をおこして喉の奥から出てこなくなる。
言葉の代わりに大粒の涙がぽたぽたと零れた。
「あいつには悪いうわさがあるんだ」
「……」
「あまり心を許したらいけない。騙されてるんだよ、」
「……ちがう」
「ブラックとも最近関わるようになったのか?あんな連中と関わるとろくなことにならないぞ」
「ちがうよ。友達なの。お願い。何もしないで。お願い」
たくさん言いたいことはあるのに、ぽつりぽつりと小さな子供のような懇願の言葉しか出てこない。
「泣かないでよ。僕が悪いみたいじゃないか。僕は君を心配してるだけなんだよ」
お前が悪いんだよ。と言いたいのに、悪態の代わりに涙が勢いよくあふれて言葉にならない。
もういやだこの人……。会話にならないし、はやく帰りたくなってきた。
「君が僕を安心させてくれればいいんだ」
泣きじゃくる私に、ウィル腰を下ろして目線を合わせた。
子供を唆すように優しい声色で囁く。
「僕とまた遊ぼう――”あの部屋”で」
舐めるように揺れる炎の灯る薄暗い部屋。
思い出して息が止まった。
優しく笑う彼の目がとても恐ろしい。
その目は私に拒否を許していない。
彼はただ誘っているんじゃない。私に交渉しているのだ。
背筋がぞっとした
ああ、負けだ。
なんて情けないんだろう。泣いてしまった時点で私の負けだったのだ。
もう、頷くしかできない。
「ちょいと失礼」
ふざけた声が聞こえたと思うと、私の目を見据えていたウィルの顔が遠ざかっていく。
ふいに現れた赤いネクタイをした黒いローブが、私の体を乱暴に攫って階段を一気に駆け上る。
「お前……!」
突き飛ばされてよろけたウィルは、こちらに杖を向けた。同じくらいの速さで私を抱えた男も杖を構える。
私、何度心の中で助けてと叫んだろうか。以前はこんな時、いつもディックが助けにきてくれたんだ。
だから今だって、誰かが――リーマスが、颯爽と現れて私を救ってくれやしないかと、馬鹿みたいに頭の端で考えていた。
それなのに、何故なのだろう。
何故、彼なんだろう。
「そんなにいい女なら、ちょっと借りてみたくなってね。いいでしょセンパイ」
そう言ってブラックは不敵に笑った。
(2016/6/5)
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