こすもす

 

12親にとって子どもを受け入れるまで

 

【受容について】                         長谷川知子先生

受容という言葉はいろいろに使われます。たとえば「わが子を受容する」というときは、わが子を「愛し、ありのままを受け容れる」ことを言います。これは親としてのあり方そのものでしょう。ありのままというのは簡単そうでも、少し努力が必要ですね。これはもしかして、動物が進化の道をたどることで社会もだんだん複雑になり、人間まで達すると経験から学ぶことが何より大事になってきたからでしょうか。また、「障害を受容する」という言葉もありますが、障害だけを受容するということには疑問をおぼえます。障害だけで人間は生きることはできません。また、障害者と健常者の間に明確な線が引かれているわけでもありません。 基本的には誰でも健常な人(子)で、障害とは、生活するのに支障をきたす(障害となる)部分を言うわけですから、その人にとって一部分にすぎません。おまけに人は誰も、時と場合によって障害をもつものです。外国に行ったら、ほとんどの人は言語障害者になりますね。それから「社会の受容」という言葉もあって、社会のなかで理解され、ありのまま受け容れられることを言うようです。

 

★ 医師から診断を受けたとき

 

◆すんなり「わかりました」という訳にはいくはずありません。「なぜ私が・・この子は生きていて幸せなの?」という思いが頭の中で回り続けていました。それでも子どもは生きているし私も世話をしなければいけない。どんどん日々は過ぎていきいつの間にか、かわいそうと思っていた子がかわいいと思えるようになりました。

◆つわりも無く妊婦検診でも毎回「異常なし順調です」と言われ続け「障害児かもしれない」とは露ほども考えてはいませんでしたが、出産間近の9ヶ月目で羊水過多症で大学病院に転院し多発奇形の診断。生まれてくるかどうかの保障さえ出来ないといわれて、何をどう考えればいいのかさえわからないまま前期破水から34週の早産となりました。  

それでも元気な産声をあげこれといった治療の必要も無く体重増加を待つだけのNICUでは優秀なほうでした。多発奇形は誤診だったんじゃないかとも思っていましたが、染色体検査やMRIなどの検査を経てルビンシュタイン・テイビ症候群の診断が出ました。そのときも主治医からは「これからですよ」という言い方で、特に難しい指示も無くNICU退院となりました。母乳でもミルクでもだんだん飲めるようになるからと言われていたものの、なかなか哺乳力も体重も増えないまま生後3ヶ月で肺炎を起こして入院。母乳も哺乳瓶も使えず経管栄養になり退院後も経管栄養は継続していたものの嘔吐の連続で体重増加はままならない状態でした。     

この頃は母親として何をしてあげられるのかがわからず、病院や訓練、療育など自分以外の手に子どもを委ねられる時間にすがるように過ごしていました。人見知りもしない、後追いらしきも無い、母親が誰なのか私が誰なのか判っているのかどうかさえ怪しかった。そんな中、アデノイド肥大で呼吸が出来なくなり人工呼吸器に繋がれて3日後、抜管して酸素テントの向こう側で目が覚めたときにいい顔でにっこり笑って目があったんです。こんなにいい笑顔をこの先も見せて欲しい、見たいと思えました。待ちくたびれる程のんびりペースでも、少しずつ成長を見せてくれる。寝返りもはいはいも最初の1回目がただの偶然なのか見間違いだったのかと思わせるほど2回目が無くて、待ち焦がれ過ぎて忘れた頃に次。一つ一つの成長がこんなにも待ちどおしくて嬉しいと思えるのは、ルビンちゃん育ての醍醐味だと思えるようになりました。

◆私たち夫婦はドクターに言われた時点で受け入れましたが、正直同じくらいの年の子を見ると普通の子だったらあんな事してるんだとか思ってしまいます。

◆我が家は診断が降りるまで1年かかりました。よって診断された時はある意味ホッとしました。(遅れの原因が判って)でも子育ての苦労は波があります。乳幼児期は体が弱く、小学校時代は体力が向上しホッ!!でもなぜか我が娘は加齢と共にささいな転倒で骨折に繫がる事が多かったです。ヒヤヒヤ!

中学になった今、自立のひとつとしてバスの乗換えを1年を目安に親子で練習しています。これがまた苦しい!

◆生後一ヶ月でルビンシュタイン・テイビ症候群の診断を受け「なんでこの子が?」とそれはそれはショックで、正直恐ろしいこともいろいろ考えました。(この子がいなければ・・・と)でも毎日接しているうちに自然とあまり考えなくなり、どんどん心の底から可愛いと思えるようになって来ました。育てていけるかという不安も日に日に薄らいでいつの間にか「うちの子が一番」になっていました。今でも大変なことはありますが何かひとつできるようになった時喜びは障害児の親ならではの特権だと思っています。

◆2年間ほど、「この子は一体何の病気?」っとモンモンとした暮らしの中で母は暗かったと思います。そしてルビンシュタイン・テイビ症候群の診断をもらいその場でウヮーンと2年分の涙を流しました。びっくりしたこと、やっと分かったこと、これからのこと・・・イッキにあふれました。☆ゆずねっと☆を見つけ同じ仲間と初めて出会った3年前の夏。「あー、これでもう一人で悩むことはない。先輩が沢山いた」などその時から気がスーッと明るくなりました。

◆自然と受け入れられる。親ががんばった分子どもは大きくなる。初めは頭が真っ白でしたが子どもが笑ったりしてくれるとカワイイなーって思うようになって来ました。

◆息子は今28歳もうすぐ29歳いい青年になりました。生まれてからいろいろなことがありました、一つだけとって書くことは難しいですね・・・。でも今言えることは子どもの障害を認めること、まずそこが第一歩という気がします。

 医師に病名を言われ「エッー!そんな、なぜ???」・・・と自問自答しながら子育て、私の場合家族の理解があったのでまずは頑張れたのかな〜。成長していくにつれ節目節目の遅れに不安を感じ泣いたこともどれくらいあったでしょう。でもその時子どもと向かい合いこの子はこうなんだと認めることが出来ました。それまでは名前だけでも書けるように、言葉は2語3語続けられるように、トイレは・・・等々必死でした。でも小学校で特殊に入って肩の力が抜けたらかえって色々な事がわかるようになりいろいろな工夫が出来ました。子どもが失敗しても笑顔で向かい合うことが出来ましたね。ステキな笑顔ですねー。ルビンっ子は成長した今でも宝物です。人に愛される人間に育ってくれました。停留睾丸、嘔吐、骨折等々いろいろな症状を乗り越えてきました。先々の人生不安はあるけれど毎日が経験、サークル活動、OBサッカーに、お出かけと、沢山のことに挑戦しています。

◆私が我が子の障害に気付くのにちょっと鈍くて、「副乳は私にも2つあるし、あごは主人も小さくミルクを飲むのが大変だったと聞いていたし、経管になっちゃったのも肺炎のせいで、最初にちょっとつまずいちゃった」位にしか考えてなくて、少しずつ周りの子ども達との発達の差を感じ始め、漠然とした不安を抱え始めた頃の確定診断だったのでホッとした反面、嘘だと思いたい、現実を受け入れたくない気持ちがあったのを覚えています。

主人は生まれてそんなにたってない頃から、何らかの障害があると感じていたらしく、ひょっとしたらはっきりわかって安心していたのかも・・・?   

ルビンシュタイン・テイビ症候群という障害についての情報が少なく漠然とした不安を抱えている頃親の会の存在を知り入会しました。隣の市のルビンシュタイン・テイビ症候群の7歳年上の子と会いお母さんとお話して前向きに頑張っていこうと思えたのもよく覚えています。確実にゆっくり成長している我が子を見ながらゆっくり受け入れていきました。今では我が子が障害を持った事で障害児の親の気持ちを知ることが出来てよかったと思っています。

◆「子どもに障害があるかも」妊娠中そんなことは考えたこともなく、フツーにフツーのBabyが生まれてくるものと思っていました。男の子だったら勉強も少しはできた方が・・って考えていた私にとって「障害」というコトバは「悪夢」でした。夢なら覚めてほしかったし目の前の自分の子どもをカワイイとおもえませんでした。長男を産んだあとはずっとずっとBabyを抱いたり、みたり、可愛くて可愛くて幸せの絶頂でした。そのときの幸せの気持ちに比べると地球の裏側までめり込むほど(大げさ?)不幸でした。まわりのBabyや幸せそうな笑顔に押しつぶされそうでした。ルビンシュタイン・テイビ症候群である次男は小さくて集中治療室で頑張って生きようとしているのに私は「障害」というコトバにおびえ泣きました。Babyをみず「障害児の親」になる自分をかわいそうだと思いました。(今考えると失礼なことですが)

 そんなとき「こすもす」を知りました。会長さんに励まされいろいろ教えてもらっても納得できませんでした。インターネットでルビンシュタイン・テイビ症候群について調べ、涙は流れっぱなし。

 あれから2年。次男ものんびりですが成長して今ではハイハイ、つたい歩きと彼なりの成長を見せてくれています。いつもニコニコみんなの人気者です。まだ、何にもできないけど比べないそれぞれの成長を見守る大切さを知りました。競争社会の中を生きる長男(小1)とマイペースな次男(2歳)。どちらがしあわせ・・・なんて誰にもわかりません。もちろん2人とも幸せになってほしいけど、幸せの定義が1つではないということを生きていく中でいろいろなことを次男は教えてくれます。もちろん今でも他のお子さんと比べてしまって落ち込むこともあります。頭を壁にゴンゴンしたり模倣ができないことなど、自閉気味?と不安もいっぱい。でも次男が生まれたときのように泣いて暮らしてはいません。前よりいろいろな人に出会いますます世界が広がった気がします。もし、ルビンちゃんのママになって泣いている人がいたら、受け入れられない人がいたら、「あなたはルビンちゃんを絶対に受け入れることができるし自然にカワイイと思える日が来る」と声を大にして言いたいです。こすもす会員の中で最も受け入れられないママだった私が保証します!!ルビンちゃんの笑顔に癒されます。

◆県立こども医療センター遺伝科医師の黒木先生から診断を受けたときに先生が私たち両親に話されたことが心の支えになりました。

「お子さんはルビンシュタイン・テイビ症候群です。知的障害がありますので将来総理大臣にはなれないでしょう、でも子育てに手をかけた分子どもは成長しますよ。お父さん、お母さん、どっちの責任でもないのです。これからお家に帰ってからどっちが悪いかどうかで喧嘩なんかしないでください、その分この子に手をかけてください。」

その時はルビンシュタイン・テイビ症候群といわれても理解できず先生に紙に書いてくれるように頼みました。また障害の言葉だけが印象に残り「どうしよう」と考えてもどうしようも出来なかったのですが、「どっちの責任でもないのです」と言ってくださった事で子どもの障害に対して前向きに考えることが出来るようになったと思っています。

 

 ★ どうしても他の子と比べてしまう

 

◆いいところ、小さな成長を見つけてほめてあげる。他の子との差は大きくなるばかり。比べても仕方ないことに気づきました。

◆つい、周りの子と比較してしまいますが、療育施設へ通園したときの先生に「ゆっくりペースでもその子に合った成長の仕方があり、それは個性なんだよ」と言っていただいてその他の障害児のお母さん方と知り合い、いろいろ意見交換しているうちに自分から他のお母さん(保育園)にようやく話せるようになりました。

◆生まれてまもなくから障害のない、健常児の中に入れる事が多かったので、どうしても他の子の成長が目に付きました。小さいうちはまだいいのです。成長すればする程、差は開いていきます。今、中学生で同級生とは大人と子供のような違いがありますが、正直言って「比べる」という事は、あまりありません。一人っ子で健常の子供を育てたことの無い私は、「子育てはこんなもの」と思っていました。確かにみんなは出来るのにできない、やっと出来たとしてもビリ。その事によってみんなに迷惑をかける事もたくさんありますが、その都度、我が子の状態を話し、理解してもらってきました。他の子と比べても何一ついい事はありません。障害がある、ない、に関わらず世の中には色々な人がいます。わが子の成長も「個性」で良いのかなと思っています。

◆子どもが小さい時は、比べても仕方ないと思いながら、目の当たりにするとついどこかで比べてしまっていました。その度に落ち込んだり、また落ち込んでしまう自分の弱さを情けなく思ったりしたものです。

 それから集団に入り学校に上がってからは、親も多くの人と出会い、何でも話せる仲間ができました。子どものタイプは違うけれど、それぞれに悩みを抱え、でも共通点もあり、お互いに話を聞いたり、励ましあったりしてきました。その中で自分の子どものことも相手の子どものことも、もっとよく把握することができ、比べることよりそれぞれの違いとして認めた方がいいと思うようになりましたが、まだまだ行きつ戻りつの日々です。

 

★ 思い通りにいかない育児に疲れ時々落ち込んでしまう

 

思考錯誤しながらも思い通りにいかないのが子育てです。 ルビンシュタイン・テイビ症候群の子の発達はゆっくりなので、他の子と比較をせずに我が子なりの成長を見守っていきましょう。がんばり過ぎず、時に気分転換を取り入れてみることも大切です。そうすることにより「こんな時期もあるのだ」と発想の転換ができるかもしれません

◆健常児も同じで育児にハプニングはつきものです。予定通りにはいきませんね。小さい時は朝から晩まで世話に明け暮れ自分の時間を持とうとしても持てないし、そう思うだけ余計に疲れるし、とにかく夢中で毎日のことをこなしていました。すくすく大きくなった上の子の時と比べては、いつになったら少しは楽になるのだろう、いつになったらいろんなことができるようになるのだろう・・と、先の見えない育児に心身ともに疲れていました。我が子が生まれて1〜2年の間は、起こった事件や流行った歌もほとんど覚えていないくらい家と病院だけの狭い世界で暮らしていたように思います。3才になって療育施設に通うようになってからはパアーッと世界が広がって障害の話も親同士笑いながらできるようになりました。

育児の疲れがたまり、心の余裕がなくなると、つい「あれもできない、これもできない。」と子どもを否定的に見てしまいがちです。そんな自分がまたつらいです。だから親も心のバランスをとるのがとても大切ですね。落ち込んだ時には、家族や仲間に話すことで救われました。そして癒し系の娘の笑顔が一番の薬かな。

 

      おじいちゃん、おばあちゃんにどう説明すればいいか?

 

どこの家庭にも生まれてくる可能性があることを分りやすく説明し体も弱く発達もゆっくり成長していきますので、他の子と比較することなく見守っていきましょうね。 ご協力お願いします、 と話してみるのはどうでしょうか。

◆おじいちゃんおばあちゃんに話したその後・・・

わが子に障害があったことで気も沈みがちなとき、双方の両親に孫に障害があることを伝えると思いもよらない言葉が返ってきました。この先の不安を増長する言葉であったり、責任はどちらにあるのかと問い正されたり、母親に責任を押し付けたりでその場は騒然となりました。小さい命みんなでお祝いしてくれるものと思っていたのにどうゆうことでしょう。とりわけ連れ合いの両親からの心無い言葉は私を苦しめることになりました。哺乳力も弱いただ寝ているばかりの子を抱きながら孫を受け入れてくれない親の子どもは(夫)どう思っているのだろうかと日々沈んでいきました。

そんな日々の中、ルビンシュタイン・テイビ症候群特有の笑顔で笑っている息子に出会うと心が癒されていきました。はっきり言って障害のある子を持ったことよりも人間関係の方が大変でしたね、あれからもう随分と長い年月がたち息子は成長し家族の絆も深くなりました。 障害のある子を理解してくれて協力をもしてくれるはずの祖父母に冷たくされても「おじいちゃん、おばあちゃん」と慕う息子の純真な心に気づいてくれる事を願っています。

 

      近所の人から聞かれたらどう話したらいいのかしら?

 

こちらから話さない限りは詮索のつもりはなく、健常な子の成長を気にかけての言葉がけをしてくるのだと思います。例えば「首がすわったの?」「よくおっぱいのみます?」とか母親自身が我が子の病名をしっかり受け入とめれば傷つくことも少ないのでしょうが、模索しながらの子育ての中では時間のかかることも仕方のないことです。勇気を持って話すことで、共有してもらえ、励ましや協力を得られることもあります

「障害児なんです。」とはっきり言いました。かわいそうと思われることに対して少し抵抗はありますがさらっとその場をやり過ごすようにしていました。

◆「何ヶ月?」とか「もう歩いた?」とかいろいろと聞いてこられることもあります。中には直球で「どこか不自由なんですか?」というのもありました。普通の子のように育たないと頭でわかっていても聞かれる度に落ち込みました。それに何回も説明するのもしんどいです。でも「もし逆の立場だったら聞いていたかもしれない・・」と思ったら仕方ないかなと思えました。相手との関係によって時にはきちんと説明したり、適当に流したりしました。中には暖かく見守ってくれてる人もいて、歩けるようになったり学校に行くようになったときなど成長の節目節目で一緒に喜んでもらえてうれしかったこともあります。

◆我が子は、外見からも障害のある事が分かるので、外を歩いていると、障害がある子なのかと視線を浴びる事が良くあります。ただ、地域の小学校に通っていた事もあり、近所の方には「○○さん家の○○ちゃん」と分かって頂いているようです。「どこが悪いの?」などと、ストレートに質問をしてくる人もいます。聞かれなければ伝えられない、我が子のことを分かってもらう良いチャンスです。はぐらかす事無く、出来るだけわかり易くきちんと話をしてきました。今では、一歩外に出れば多くの人に声をかけて頂きます。話しをすれば分かってもらえます。よく分からないから詮索しなければならないのかとも思います。「孫に障害があって・・・こんな風に幸せな笑顔が出来る子供に育って欲しいわ」「家族の愛情をたくさん受けて育っているのネ」などと声をかけて頂く事があります。悪い視線ばかりではなく、暖かい眼差しも必ずありますよ。

こどもは素直なゆえ言葉を選ばずストレートに問いかけてきますが、例えば「皆とは少し違って何でもゆっくりゆっくりだけど よろしくね」と事実を分りやすく話し友達になる・・こどもは柔軟性もあるのであるがままを受け入れ、力になることもあります。

◆「おばちゃんのお腹の中にいたときに病気になってしまったのよ。」と言っていました。

◆しっかりと障害があることを話しました。子どもは知らないから聞く、興味があるから聞いてくると思っていましたので子どもの年齢に合うように話してきました。聞いてきた子ども達は息子の出来ないところは「息子ルール」と名づけて仲間として遊んでくれていました。

 

  ★ 兄弟姉妹にわかってもらうには?

 

◆上に兄弟姉妹がおりました。新生児・乳幼児の頃は兄弟姉妹のことを気にしながらも、障害がある子供を育てていくのが精一杯でしたので、面と向かって障害のある子のことを説明していたかは覚えていませんが、近所の子供たちにわかりやすい言葉で度々お話しているのを聞いていて、幼いなりに感じ取っていたようです。

兄弟姉妹が幼稚園に通い始めると、私も障害のある子だけを見ていればよい時間ができ、少し心にゆとりがでてきました。その頃の勉強会で講師の方に「兄弟姉妹がいる場合は、兄弟姉妹のほうこそ気にかけてあげるべきですよ。」と助言されました。それからは少しずつですが、兄弟姉妹とだけの時間を作るように心がけました。近所のスーパーに行ってお菓子を買ってきたり、創立記念日などでお休みのときは映画に行ったりもしました。折にふれて「○○ちゃんのことで嫌な事があったら、嫌って言っていいんだよ。我慢しなくても良いんだからね。」と伝えていました。

兄弟姉妹にわかってほしいのは、障害のある子のことについてはもちろんなのですが、その子と同じだけあなたも大事に思っているのだということです。時間はかかると思いますが、いつかはわかってくれると信じます。(もうとっくにわかっているかもしれませんが・・・)

我が家は三人兄弟の真ん中がルビンシュタイン・テイビ症候群の長男です。

振り返ってみますと、長男の誕生で生活は一変し、親は試行錯誤の育児に追われた毎日でした。乳児期は哺乳力の弱さで時間がとられ、感染症等の入退院や定期的な通院、日常においても配慮が必要なのでどうしてもその子中心の生活になりがちです。皆平等のつもりでも、他の兄弟は知らず知らずのうちに我慢を強いられている状況が多くなってしまいます。

長男が入退院を繰り返す中、病気知らずで丈夫だった上の子が熱を出し夫婦で別々の病院に行ったことがありました。風邪でもなく知恵熱のようなものでした。その時に、ダウン症の子を持つ一回り年上の近所のお母さんに、「○○ちゃんは体が弱く生まれたので手をかけてあげることは当然だけど兄弟には目をかけてあげることが大切よ」と自分の経験を語ってくれました。まさに目からうろこが落ちる思いでした。生活を顧みて、自分ではしているつもりでも心に負担がかかっていたのだろうと気づかされました。このことが私の子育てのキーポイントになり、それ以後は万全とは言い切れませんが頭の片隅に置き歩んできました。(親が思うほど本人達は満たされてなかったかもしれませんが)

上と下にサンドされた長男は、兄弟それぞれの個性で受け止められ、まろやかさとスパイスの刺激で調和されながらも本人のペースでのんびりゆっくりと成長し、兄弟もまた日常を生活していくことで、障害があることを難しく考えず、自然に受け止められたように思います。三人三様の性格がありすべてが順風満帆とはいきませんが、さまざまなことを乗り越え、心も少しずつ成長できました。思春期の葛藤もありましたが、長男のことが原因でということはなかったです。

障害があるなしに関らず、子育ては思い通りには運ばないものです。他の兄弟には多大な期待をかけたり、比較したりせずにその子自身の成長を認めることが大事です。母である私も兄弟にはそのことにも心がけながらやってきたつもりです。しかし時には言葉じりをとらえするどいことを言われることもありました。日々の出来事を通して親自身も学びながら現在まできたことを実感しています。心身共にバランスよく成長できることが一番大切なことだと思います。

現在は皆社会人となり、長男は地域活動ホームのデイサービスに通い、他の兄弟もそれぞれの職業についています。三人共ここまで成長できたことに安堵感があり、また上下の子が大人としていろんな話が出来ることが嬉しいことです。これからも一喜一憂しながら歩んでいきたいと思います

◆我が家は主人、私、本人、妹二人の5人家族、自営業ということで小さい時より3人共保育園を利用していました。息子は1ヶ月検診の時停留睾丸ということでこども医療センターへ、その時の内科で「もしや・・」ということでルビンシュタイン・テイビ症候群と診断され今日に至っています。

当時動揺していた自分でしたが、兄弟が必要だと感じました。二人の妹に恵まれ保育園時代は三つ子を育てている感じでした。まず第一に山が来たのは・・そう年長さんから一年生になる進路です。@普通級 A特殊クラス B身体が小さいので就学猶予、の三択でした。学区の分かれ道にある我が家で、遠い方の小学校は普通級、特殊があるのは近くて歩いて20分、Bは一年遅らせば一生一年遅れるという思いでパス。将来のこといろいろ考えたのですが結局Aの特殊クラスを選びました。本人はいいのですが妹たちの入学の学区を変更しなければなりません。いじめられるからと別々の学校に入れるという考え方もありますが、私たちは敢えて同じ学校へ行けるよう教育委員会に話しました。それは小学校時代は隠しておけても大きくなれば同じこと。兄がいて自分がいる、全部ひっくるめて家族なんだと小さい時からわかってほしかったから・・・。

妹が入学して1,2年はさほどのことはなかったのですが、3,4年生になるとやはり来ることは来ました。でも私は、本当の友達とは・・ということでよく話してましたね。できるだけ誕生会だのクリスマス会だのと友達を家に招いたりしました。一度来て息子に会い二度と来ない子、よっちゃんと言って一緒に遊んだり声かけしてくれる子、そんな状況を身をもって感じ取らせました。学校でも特殊クラスにしてもさっちゃんのお兄ちゃんだーっと言ってはしゃぐ子、「○○してたよ、よっちゃん」と教えてくれる子。通学路でランドセルにつばをかけられたり、なじられたり、子どもながらに感じ取ったことは多々あったようです。でも「お兄ちゃんのせいでいじめられたぁ〜。」と言って泣いたりすることは一度もなかったです。「どうしてお兄ちゃん、ああなの?」と聞かれることがありました。「あっ学校で何かあったな!」と思ったこともありましたが、こんな時兄の笑顔、やさしさを話してあげると何か安心したような気持ちが伝わってきました。通学路での出来事、いじめなど高校生になってから聞きました。「その時話してくれればよかったのに。」と言っても「ウンいいの。」だけでした。親に心配かけたくなかったのでしょうね。きっと・・・。

中学校もむずかしい反抗期も妹二人はテニスに明け暮れていました。その中で息子を受け入れてくれた友達だけが大学に行っても社会人になっても続いています。また今、妹が婚期を迎え、兄のことを受け入れてくれる方が見つかったということは、本当にうれしいことです。これも口癖ですが息子を含めての家族、自分がある、まあるく包んでくれるようなことが本当の幸福につながる、協力し合えることが一番だと・・・。

親も半世紀を越え、今では親に対してそんなことじゃだめだと指摘するたくましい娘たちに育ちました。そして私たち夫婦の老後や趣味を持ち楽しく過ごすことをアドバイスしてくれる娘たちです。

 

★ 将来のことを思うと不安でいっぱい。

 

あまり遠くを見ずに、今日の生活を大切にしていくことに目を向けましょう。日々の子育ての積み重ねの中から、親自身も学びながら成長していきます。こすもすの仲間と共にあせらず一歩一歩前に進みましょう。

私たちをとりまく環境も日々変化しています。あまり遠い先のことは考えなくてよいと思います。とりあえず節目節目で目標をたててみましょう。その時その時できることをすればよいのではないでしょうか。

◆子どもの障害がわかるまではとても落ち込みましたが周りのサポートと仲間がよかったので前向きに、親は35歳くらいから少しうつ状態になりましたが週に一度施設を利用していくことで親にも本人にもよい関係を保つことが出来ました。

 

★ 家族の思い

 

◆赤ちゃんの頃から何かと心配ばかりさせられました。風邪をひくとすぐにCPRの値が高くなり何日も高熱が続きました。そのたびに近くの小児科へ。午前午後と2回点滴を受け小さな息子はますます小さく感じるように私のひざの上でまるくなって眠りました。ひ弱で小さくやせっぽち・・それが私の中の息子のイメージでした。それがどうした事かこの2〜3年の内に体もがっしりして、ちょっとお肉もついてきて風邪をひいてもすぐに治るようになりました。相変わらずおチビさんですがひ弱なイメージはすっかりなくなっていました。

 養護学校の先生が年度始めに家庭訪問にこられ「今年の目標は・・」と聞かれ何も答えられませんでした。なぜなら一番欲しかった強い体が手に入ってしまったからです。

 息子は何ひとつ自立していることはありません。衣類の着脱も排便、排尿も。・・唯一ひとりでできることは食事だけです。でも息子は息子なりにのんびりゆっくりやっていけばいいんじゃないかと思います。人生は長い!まだたった7年しか生きていないのだから・・いつか私が年老いて、誰かのお世話にならないと生きていけなくなったら、その時が我が子との別れです。それまではできるだけ長く元気でいたい。できるだけ長く息子と生きていきたい。それが今の私の本当の気持ちです。

◆今年16歳になる次女は、話をすることはおろか、未だに身の回りのことも1人ではできない状態です。長女が生まれた時にもそうしたように、次女が生まれた時にも出産に立ち会っておりました。妊娠中、妻のお腹がやけに大きく動きが活発でしたので、きっと元気な男の子であろうと思っておりました。しかし後のエコー検査で、女子だという事と、大きなお腹は羊水過多によるものであるという事がわかりました。出産予定日を過ぎても一向に生まれてくる様子がないので、仕方なく陣痛促進剤を投与する事になり、大量の羊水と共に生まれてきたのはとても小さな女の子でした。出産後の処置を終えた医師の沈痛な面持ちを見て、これは何かあるなと感じました。医師は私に向かって、「手足が奇形しているし、腸閉塞の疑いもあるので、至急こども医療センターへ移します。」とおっしゃいました。その時はまだ詳しい病名も障害のこともわかりませんでしたので、手足の奇形ぐらいなら今日の医学をもってすれば何とかなるだろうと楽観的に考え、夕暮れのひどく渋滞した町中を救急車に乗せられ、次女と共にこども医療センターへ運ばれていきました。救命士さんの温かい言葉に励まされながらこども医療センターのドアーを入り、病院の奥へ入って行くにしたがい、目を疑いたくなるような光景が待っていました。車椅子や担架に乗せられて運ばれているこどもたちは、今まで私が見たこともない様な姿をしていました。『神様の悪戯にしてはあまりにも酷い、今の世の中にどうしてこの様な姿の子供たちが存在するのだろう。何て恐ろしい病院に来たものだ。』これがその時の偽らざる気持ちでした。

次女が集中治療室へ運ばれて二・三時間が過ぎた頃、担当の医師が脳のレントゲン写真を持って現れ、かなりの障害を持って生まれたことを説明されました。自分の子供が障害児である事を告げられたとき、大抵の親はひどいショックを受け、目の前が真っ暗になるそうですが、私はその時これは自分に与えられた定めだなと不思議なくらい冷静にその事実を受け入れる事ができました。自分にとってはそれほどのショックも無く変な納得をしておりましたが、この事実を妻や親にどの様に伝えようか、このことを伝えた時の妻や親の顔を思い浮かべると、その事の方が余程重く私にのし掛って参りました。

生まれて間もなく、県立こども医療センターという障害児医療に関しては専門医の揃っている病院に入院できた事もあって、次女の病名がルビンシュタイン・テイビ症候群である事が分かるまで、それ程の時間は掛かりませんでした。この事は親にとってたいへん幸運な事で、この様な専門的な医療機関の無いところで生まれた場合、何年もの間病名すら分からず、様々な病院で異なった診療を受けてしまうという、親にとっては不安と苦痛に満ちた日々を過ごさなければならなくなってしまいます。又この様に障害児を持った場合、ひどい孤独感に苛まれますので、何よりも救いとなるのは同じ境遇の人と出会う事で、私の場合最初の救いとなったのは、高校生の頃夢中になって読んだ大江健三郎の小説 [個人的な体験]でした。主人公の青年が障害児を持ち、その事実に対して強い拒絶反応をおこしながらもそれを受け入れるまでの話で、これで自分もある部分で大江健三郎と同じ地平に立ち、同じ風景を見ることができる。などと妙な親近感のようなものを感じた事を覚えています。しかし実際にルビンシュタイン・テイビ症候群の子を持つ親に巡り会うまでは、こども医療センターへ毎週のように通院していながら、六・七年もかかりました。

その日も妻が次女を連れてこども医療センターへ行っておりますと、見知らぬ女性から「お宅のお子さんはルビンちゃんですか」と話しかけられたそうです。その女性は、[こすもす]というルビンシュタイン・テイビ症候群の子を持つ親の会の方であるとの事でした。そのような会があることを知った時、暗闇の中に一筋の光を見た思いがいたしました。

その後私が初めて[こすもす]の合宿に参加して驚いた事は、自分の子供と似た顔をした子供がたくさんいた事です。たった一つの遺伝子に異常があるというだけで、同じような顔になってしまう生命の神秘を痛感いたしました。次に興味深く思えたのは、障害児を持つ親たちの心が成長し変化していく過程がはっきり見て取れた事です。

私にまだ子供の無かった頃、障害児を持つ親を見て、自分がその立場になったらどんなに辛いだろうと思っておりました。しかし実際に障害児の親になってみると、子供によって奪われる時間や自由や幸福よりも、子供によってもたらされる幸福の方が遥かに多い事が分かりました。その現実を、恐れることなく、特別なこととしてではなく、肩の力を抜いて、全てをありのままに受け入れることにより、それまでは見ることのできなかった幸福を見ることが出来るようになったと思っております。16歳になる今日でも足元がおぼつかないので、階段の上り下りなどは危険なため負ぶっておりますが、そんな時ふっと、彼女の体重が心地よい幸福の重さに感じる事があります。そして、ストリンドベリの言った「苦しみつつ尚働け、安住を求めるな、この世は巡礼である」の言葉が心の中をよぎります。

      生まれながらの障害を持って生まれてきた子どもの生きる力が弱ければ親は受け入れるかどうかを

考えることなく、最前の医療を望み命をつないでもらい受け入れました。

 その後、ルビンシュタイン・テイビ症候群だと診断が下りました。子どもの笑顔やしぐさに愛らしさを感じ「かわいい」と素直に喜び感じあえる部分があるのに対して子育ての大変さと障害児への偏見に気が付いていきます。周りの子ども達との違いが子育ての不安や障害への不安へと日増しに大きくなっていきました。希望と期待に胸躍らせるはずの子育てとは遠くかけ離れた病院通いと療育とで心身ともに疲れきった日々を送ることになりました。

 子どもを受け入れるのと障害を受け入れるのとは別のようです。子どもは受け入れているのに、周りから障害をどう見られているのかと思うと不安になり子育てもこれでいいのかと迷いも出てきました。日々暮らしていく中で徐々にこの子との生活に慣れていくことで私自身と家族の中に障害を受け入れることができるようになってきたと思います。受け入れられたのはいつからだったかと特定はできませんが私は長い時間の積み重ねの中で子どもと親の妥協点を見出したときのような気がします。その時から障害を持っている子どもとして受け入れることができました。

 障害をすぐに受け入れることができた人はいいのですが、なかなかそうも行かない人もいます。そこで同じ障害の子を育てている同士で話すことによって道が開けることもありますからルビンシュタイン・テイビ症候群親の会「こすもす」に参加することによってまずは親自身が仲間と知り合うことが大切です。

◆障害のある次男は今年で二十歳になります。月日の経つのは早いものである。

最初に生まれた長女は髪の毛がなく将来ちゃんと髪が生えるかどうかと思ったものであるが今はちゃんと茶髪にしております。次の長男は生まれるまで逆子で妻はいろいろ体操をしたりしてなんとかして誕生いたしました。その息子も今は自分より背は高くなり一丁前の口をきくようになりました。次男は生まれた時、髪の毛もふさふさとしており夜泣きもせず手間のかからないおとなしい子だと思いました。しかし、中々寝返りはしない、歩きださないと上の二人の子と比べるとのんびりしているおとなしい子と思っておりました。

何歳の時かは、はっきりと覚えておりませんが初めて聞くルビンシュタイン・テイビ症候群という病名にどんな病気かと思い最初は薬や治療などで回復の可能性はあると思っていました。

しかし、遺伝子の異常で学校も普通クラスに入っての勉強は無理でした。小学校は特殊学級、中学、高校は養護学校と無事12年間の学校生活を終え社会に出て行きました。授産施設で働き出してから、毎日遅刻もせずに出勤しています。まだまだ人生は長く続き将来、何かの治療法が発見、発明されるかもしれないという期待はあります。されど、それは今はやりの遺伝子組み換えの食物と自分の子どもを一緒にする訳ではないが、遺伝子を治療し治るとしたらどうするか迷うであろう。

子どものことは大切だと思っているが理解はしているのかと自問してみる。まだまだ先も長くこれからもお互いに厄介をかけあうだろうがよろしく頼みます。

◆・幼稚園の時(妹0〜3才)

    自分の妹が少し普通と違うと感じ始める。「なんで妹はちょっと変なの?」と母親に聞くと、

   「お母さんのお腹にいた時から病気だったからしょうがないのよ」といわれて納得した。

      小学校低学年(妹4〜6才)

    兄弟に障害児がいるからといっていじめにあうことはなかった。おそらく僕自身が妹の事でコンプレックスを抱いていなかったせいだと思う。友達には「おれの妹はちょっと変わってて、面白いんだ!」と自分から自慢するくらいだった。本当に純粋に妹を他人とはちょっと違うけど天然ボケで面白いヤツと思っていた。母親がそうだった影響が大きい。

      小学校高学年(妹7〜9才)

    クラスにいる障害を持った子と自分の妹が、知的にも身体的にも同学年の子より著しく能力がおとる点で同じだと気づく。同じクラスの障害を持った子は、時にクラスメイトから変な目で見られたり、いじめられたりしていた。その子と自分の妹が同じだと思うとすこし辛かった。やはり障害を持っていることはいじめの対象になるのかと思った。しかし基本的には妹の事でのコンプレックスはなかった。

      中学校・高校(妹10才〜15才)

    この頃はあまり妹の事で何かを感じたり、悩んだりすることはなかった。妹の事でコンプレックスはないという事が自分の中で定着していたし、学校の友達との会話で妹が話題になることもほとんどなかった。

・高校卒業〜現在(妹16〜20才)

    兄弟が何人いるとか、兄弟は何をしているという事を友人と話すことが多くなった。僕が自分の兄弟の事を聞かれた場合は、妹が障害を持っていて、養護学校に高校まで通い、作業所で働いていることをためらわずさらりと話す。多くの場合相手は気を使いそれ以上は突っ込んだ質問はしないが、そういうとき僕は自分から妹の事をもっと話すことにしている。自分から障害の妹の事を隠さず話した方が、相手にも聞いて悪かったなと気を使わせないようにすることができるし、障害者の事を少しでも知ってもらえると思うからだ。

    

知的障害の兄弟を持って良かったと思う点は、家族にいつも幼くて無邪気な子がいて楽しい事と障害に対して敏感であるということだ。辛い点は、障害者に対して差別的な考えを持った人の思いやりのない言葉などを聞いた時だ。

もし妹が普通の子だったら家族でスポーツをできるのになあとか、年下の女の子を紹介してもら

えるのになあと親と話す時もたまにあるが、障害を持つ妹は妹でよい点もいっぱいあるので、自分の妹で良かったと思っている。               

◆幼稚園小学校中学校などの節目節目に真剣に悩み、選び、出会い、沢山のドラマを繰り返しまだその途中の道にあります。なんでも相談できる仲間がいることが大きな力になり頑張れるのです。その仲間からたくさんの情報を得ることが出来ますし助け合えるのです。いろいろな方との出会いを大切に、心豊かに暮らしてゆきたいと思います。

 

      生きる力って何だろう?

 

◆妊娠初期から流産に何度もなりそうでした。また妊娠に気がつかず、海外旅行してました。すると不思議なことに飛行機は運よくビジネスクラス(空席のため)ばかりの旅になりました。きっと娘は運の強い子なんだな〜とつくづく感じました。ビジネスじゃなければ今こうして一緒にいることもなかったような気がします。得に大きな合併症もなく生まれてきました。神さまが「この子は大丈夫、生きていけるよ」とお墨付きで私とあわせてくれたと思っています。

110ヶ月。まだまだ先は見えませんが自分のことが自分で出来たらお互いに

フラストレーションを感じないくらいの対話ができたらと期待しています。

◆生まれてきてくれさえしたら、その後生きていくことはいろんな方法があるように思います。医療や行政など家族以外にも様々の人たちの手が必要だし制限が多かったりでなんだか不便だなとおもうこともありますが、いつもにこにこ愛想も機嫌もよくて誰からも「可愛い〜」って言われる愛される要素をたくさん持っていることは一つの幸せ=生きる力なんだろうと思っています。

◆私たちの家族には障害児のほかに2人の健常児がいます。両方の子供の育児をしたから思えるかもしれませんが、子どもを育てていると障害があっても無くてもやっていることが同じなのに気づきました、一人一人違う性格だから何を教えるのも違うので3人の育児は大変でしたが楽しいこともたくさんあります。ちゃんと子どもは周りの人を見て育っています、お父さんお母さんの気持ちが決まっていれば大丈夫、あせらず、あわてず、ゆっくりと!

◆生きる力って何だろう・・・?難しいな〜

 私たち夫婦にとって初めての子供で、不妊治療で6年目に授かったので、我が子がいることが私たちの生きる力で、そんな私たちに見守られていることが我が子の生きる力になっているといいな。

◆時間と人との出会いが大切。

◆「オギャ〜ッ!」と産まれてきた時一緒に、生きる力を持ってきたのだと思うのです。

 弱い子は産まれることなく消えてしまったであろうし、生きたくても産まれてくることができなか

った命もあると思うのです。

 障害があってもなくても、健康でも、病気になってしまっても、どの人も世界にたった一人の大

切な人間です。

 「障害がある」という事実に親は初めショックを受けると思いますが、その子が産まれた時、幸

せを感じませんでしたか? ショックは一時です。

 ルビンシュタイン・テイビ症候群の子どもたちは、人懐っこさととびっきりの笑顔が素敵な、まわ

りにいる人たちからかわいがられ、愛される“力”を生まれながらに持っていると思います。

◆子どもが生まれて小さいうちは身体も弱いし、発達も遅いしで私はとにかく自分が大変という意識にいつもとらわれていました。そんな時、ふと私がこの子だったらどうだろうと思ったんです。そしたらいつも親が自分のせいで大変大変と言っていたらいやだなあと思うだろうし、自分のことを悲観してたら悲しいだろうと思ったのです。それからは生まれてきてよかったと思ってくれるようにと、私はいつも「あなたがいてくれるからお母さんたちはうれしいんだよ。」という気持ちで接するようにしました。実際そうですしね。この子といると自然と笑みがこぼれてくることも多く、その無邪気な笑顔にどれだけ励まされてきたことでしょう。幸せってなんでしょう?人より何かができるとか、人より多くを持っているとか、そういう見栄えのいいことではないですよね。こんなことに気づかせてもらえたのは、この子がいたからです。この子と暮らす中でしみじみと教えられ、親として鍛えられてきたように思います。家族やまわりに幸せをくれること、それが何よりこの子の生きる力なんじゃないかなと思います。

 


目次へ戻る

 

 

Copyrightc2005 こすもす All rights reserved.

 

 

 

 

2style.net