僕は長い間、ずっと勘違いをしていた。
それに気付いたのは、綾部先輩の口からその話題が出た瞬間だった。

「就職活動をしなくちゃならない」

そう言われた時、僕はようやく、綾部先輩が六年生になっていたということに気付いた。
学年が上がるにつれ、上級生たちが卒業していくのを、確かに一緒に見ていたはずなのに、僕にはそれまで綾部先輩が最上級生になっているという実感がさっぱりなかった。

「面倒だけど仕方ないね」

お茶を飲みながら、いつものように僕の部屋で、綾部先輩は当たり前のことのように言う。
それはとても自然で、けれどどこか違和感があった。
文机に刻まれた猫の落書き。畳に残る、団子のたれの染み。僕の膝に触れる、綾部先輩の綺麗な指先。
すべて見慣れた光景なのに、綾部先輩の口から出るその言葉だけがどこか別の世界のことのようだった。

「とーない、どうかした?」

先輩は訝しむように僕の顔を覗いた。
先輩がいなくなる。その日は一生来ないと思っていた。来なければいい、ではなく、来ないと確信していた。
何故だろう。わからないけれど、僕はずっと、三年生を繰り返していたような気がするし、綾部先輩はずっと四年生のままだったような気がする。

「いえ、大丈夫です」

「顔色悪いよ。お腹痛い?」

「痛くないですよ」

「じゃあどうして変な顔してるの」

先輩はじっと僕を見つめて言った。この違和感は人に説明するのが難しい。僕は首を振って、何でもないと伝えた。

「私が就職活動するの寂しいとか?」

「え?」

「ない?ある?」

寂しいどころか、喪失感に耐えられなくて、生きてるのが嫌になりそうだ。 なんて、言えるわけない。

「……まあ、多少は。毎日、入り浸って居た人がいなくなるのは寂しいかもしれませんね」

「へえ」

先輩は笑っていた。おかしくてたまらない、というように、足をバタバタさせて畳の上を転がっていた。

「じゃあ、また四年生しようかな」

「ええ、学年を戻るんですか?僕より後輩になっちゃいますよ」

「大丈夫。とーないは三年生になるから」

「ふたりそろって、二年戻るってことですか」

「うん、まあ、そんなこと。先輩がいなくなると寂しいよーって泣く馬鹿な後輩がいるからね」

「誰のことかわからないですねえ、それ」

「誰だろうね」

「僕ではないですね」

「戻ったらまた仙蔵の相手をしないとね」

「立花先輩か、懐かしいですね。『喜八郎が見当たらないから探して来い』って、よく言われたな」

「『浦風に面倒をかけるようなことはするな』って、私はよく説教されたよ」

「いいんですか?また叱られても」

「いいよ」

「僕もいいですよ」

「ふふ。信じてないでしょ?」

「信じるも何も、ありえないことでしょう」

「ふふ、とーないのそういうこと、好きだよ」

「そんなこと言って、僕は騙されませんからね。ほら、そろそろ午後の授業が始まりますよ。自分の部屋に戻ってください」

「はーい」













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